雨のち、青(アオハル・シリーズ)

naomikoryo

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第6話「伝えようとした朝」

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文化祭の朝は、いつもより早く学校がざわめいていた。

廊下にはポスターが貼られ、教室の中にはカラーテープや布が散らばっている。
普段は静かな校舎が、今日はまるで違う学校のようだった。

白石まひるは、そんな喧騒の中で、自分だけが別の時間を生きているような気がしていた。
心は浮かれているわけでもなく、沈んでいるわけでもなかった。
ただひとつだけ、胸の奥に灯った感情が、今日という日に強く根を張っていた。

「伝えよう」
そう、思った。

律と出会ってから、いくつもの小さな出来事が積み重なってきた。
雨の日に声をかけてくれたこと。
傘の中で交わした、短い会話。
美術室で見た絵。
沈黙を共有した午後。
そして――青のキャンバス。

まひるの中で、律は特別な存在になっていた。
声の少なさも、どこか遠くを見るような目も。
それらすべてが、他の誰にもない“音”を持っていた。

それが恋だと気づいたのは、ごく自然なことだった。

少しずつ近づいてきたこの気持ちを、
まひるは、ようやく言葉にしてみたいと思うようになっていた。

そして、今日。
文化祭の朝。
人が慌ただしく行き交うこの日ならば、律とふたりきりになれる“隙間”が生まれるかもしれないと思った。

まひるは、スマホを手にしてメッセージを打った。

「今日、美術室で会えますか? 少しだけ、話したいことがあります」

送信ボタンを押すと、ほんの数秒後に「わかった」という短い返事が届いた。
それだけで、鼓動が早くなる。
律の短文は、なぜだかいつも心に響いた。

その日、まひるのクラスは喫茶店風の模擬店をやっていた。
同級生たちは制服の上にエプロンをつけたり、
黒板に手描きのメニューを書いたりして、笑い合っていた。

でも、まひるの心はそわそわしていた。
何をしていても、頭の片隅に“美術室”があった。

昼を過ぎたころ、客の波が落ち着いたのを見計らって、
「ちょっとだけ抜けるね」とクラスメイトに声をかけた。

教室を出ると、廊下の雑踏が一気に静まる。
遠くから音楽部の演奏が聞こえてきた。
文化祭の空気はどこか浮ついていて、現実味がなかった。

でも、まひるの心だけは、とても現実的だった。
これから律に会って、
想いを伝えるかもしれない。
そう考えると、足が自然と早まる。

美術室の前に着いたとき、少しだけ息を整えた。
ドアの前で手のひらを握ったり開いたりしながら、静かにノックをする。
……返事はない。

「……?」

もう一度、ノック。
それでも、中から何の気配も感じられなかった。

不安がよぎる。
まさか、何かあったのでは。
あるいは、忘れているのかもしれない。

ドアをそっと開けて、中に足を踏み入れる。
そこには――誰もいなかった。

でも、律がいた痕跡は、確かに残っていた。
イーゼルの前に、未完成のキャンバス。
机の上には絵具と筆が整然と並べられ、
その隣には、スケッチブックが置かれていた。

まひるは、ゆっくりとそのキャンバスに近づいた。
昨日、確かに見たはずの“青”の絵。
けれど、今日は様子が違っていた。

青の空は、その端に不自然な“黒”が混ざりはじめていた。
まるで、空が飲み込まれていくようだった。

「……律くん」

小さく名前を呼んでみたけれど、返事はない。
まひるの中に、冷たい何かが流れ込んでくる。

なぜ、来なかったんだろう。
「わかった」と言ったのに。
待っているのは、私だけだったの?

自分でも驚くほど、胸がぎゅっと締めつけられた。
期待していた分、落差が大きかった。
でも、それ以上に――
律の身に、何かが起きたのではないかという不安が膨らんでいく。

その日、律は最後まで姿を見せなかった。

文化祭が終わり、生徒たちが打ち上げの準備を始める中、
まひるは一人、美術室の前で空を見上げていた。

薄曇りの空。
青は、どこにも見えなかった。

スマホを開いても、律からの返信はなかった。
さっき送った「大丈夫?」というメッセージには、既読すらつかない。

彼は、どこへ行ってしまったのだろう。

ほんの数時間前まで、あんなに近くにいたのに。
“ありがとう”って言ってくれたのに。
あの青は、わたしのおかげかもしれないって……言ってくれたのに。

まひるは、ただ立ち尽くしていた。

その夜、布団に入っても、眠れなかった。

何度もスマホを見た。
律の名前をタップして、やめて、また開いて、閉じて。
ただそれだけを繰り返した。

いつもなら、雨が降る夜は落ち着くのに。
今日は、音のない夜が怖かった。

「どうして、来なかったの?」
心の中で、問いを何度も繰り返す。

でも、返ってくるのは静寂だけだった。

翌日、律は学校に来なかった。
その次の日も、教室には現れなかった。

先生に聞いても、「体調不良」とだけ告げられる。
詳しいことは何も教えてもらえなかった。

まひるの不安は、日に日に膨らんでいった。
あのキャンバスの“黒”が、じわじわと彼の心を覆っていくような気がしてならなかった。

あの青が、律にとっての“ありがとう”だったのなら。
あの黒は、また閉じていく扉の色だったのかもしれない。

まひるは、スケッチブックを開いた。
自分のノートに書いた詩を見返しながら、
一行だけ、新しい言葉を加えた。

『あなたに伝えたかった。
でもその朝、名前を呼ぶことさえできなかった。』
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