7 / 8
第7話「雨は、わたしのせいじゃない」
しおりを挟む
律が学校に来なくなって、一週間が経った。
まひるはそのあいだ、何度も彼の名前を心の中で呼んだ。
けれど、口には出せなかった。
誰かに聞かれるのが怖かったわけじゃない。
ただ、名前にしてしまった瞬間に、律がもう遠くへ行ってしまったことを認めてしまいそうだった。
彼からのメッセージは、来なかった。
文化祭の朝を最後に、既読のつかない画面がすべてを語っていた。
放課後、美術室に行くのもやめた。
そこに彼の姿がないとわかっていて、それでも足を運ぶのが、つらすぎた。
未完成の青い絵と、無言のキャンバスだけが待っている場所。
あの絵の中に、律の「さよなら」がある気がして、どうしても見たくなかった。
ある日の放課後、まひるは帰り道をひとりで歩いていた。
その日も空は重たく、グレーと白がまざり合ったような色をしていた。
気温は低くないのに、風だけが妙に冷たく感じた。
雨は降っていなかったけれど、いつ降り出してもおかしくない、そんな空気だった。
まひるは歩きながら、自分の影を見ていた。
薄くて、かたちもぼんやりしていて、何を写しているのかよくわからない。
まるで、自分自身の心みたいだった。
──もう一度だけ会えたらいいのに。
そう思った。
ただ、それだけを願った。
謝りたいとか、確かめたいとか、そういう言葉よりも前に、
「ただ、顔が見たい」
その気持ちが胸の奥に居座っていた。
それが、こんなにも苦しいことだなんて知らなかった。
誰かの不在が、こんなに静かに人を壊すものだなんて。
翌日、学校で律のことを話す生徒がひとりもいなかったことに、まひるは気づいた。
まるで、最初からいなかったかのように。
彼の名前も、姿も、時間とともに消えていった。
誰も彼のことを話題にしない。
黒瀬律という存在は、空気のようにすり抜けていった。
その静けさが、いちばん怖かった。
まひるは、自分だけが彼のことを覚えているような錯覚に陥っていた。
「私が覚えていないと、律くんは本当にいなくなってしまうんじゃないか」
そんな妄想めいた考えが、現実を侵食してくる。
だから彼女は、毎晩律の名前をノートに書いた。
声に出せないぶん、文字にすることで繋がりを保とうとした。
スケッチブックではなく、まひるのノートには彼への言葉が増えていった。
『今日も来なかった。
でも空は少し晴れたよ。
あなたがいたら、なんて言ったかな。』
ある日、まひるはついに、美術室の扉を開けた。
もう、怖がっていても何も変わらないと思ったから。
それでも、心のどこかで「もしかして……」という希望を抱いていた。
けれど、そこに律の姿はなかった。
変わらず未完成の絵が、ただ静かに立っていた。
彼がいなくなってから、少しだけ絵に変化があった。
前回見たとき、絵の隅にあった黒が、さらに広がっていた。
青が後退し、空の大部分が鈍色に覆われていた。
律がこの絵を完成させることは、もうないのかもしれない。
その事実が、心を刺した。
まひるは、そっとキャンバスの前に立った。
そして、律の描いた青を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「私のせい……なの?」
律が突然姿を消したのは、文化祭の日。
自分が想いを伝えようとしたあの日。
もしかして、気づかれていたのだろうか。
自分の気持ちが重かったのだろうか。
怖がらせてしまったのだろうか。
考えても答えは出ない。
でも、思考は勝手に“自分を責める方向”へ進んでしまう。
「……どうして、何も言わないの?」
目の前の青が、ただ黙っていた。
その日の帰り道。
雨が降り始めた。
ぽつ、ぽつ、と。
傘を差す前に、何粒かの雨がまひるの制服を濡らした。
まひるは立ち止まり、傘を開かずに雨に打たれた。
冷たくはなかった。
ただ、体の中の熱を静かに奪っていくような、優しい雨だった。
目を閉じると、いろんな声が蘇ってくる。
「泣いてた?」と聞いてくれた声。
「この青は、君のおかげかもしれない」と言ってくれた声。
そして、何も言わずに去ってしまった、律の沈黙。
涙が出るかと思った。
でも、出なかった。
代わりに、ひとつの思いだけが言葉になって胸の中に浮かんだ。
──雨は、わたしのせいじゃない。
律がいなくなったのも、
彼が何も言わなかったのも、
彼の青が黒に変わったのも。
それは、きっと“わたしのせい”じゃない。
自分を責めるのは、やめようと思った。
責めてしまうと、彼の優しさまで否定することになる気がした。
まひるはその夜、ひとつの詩を完成させた。
『きっと、
あなたの空に雨が降ったのは、
私のせいじゃない。
それでも私は、
いつまでも傘を持って、
あなたを待っていたい。』
文字を書き終えたあと、まひるはふうっと息を吐いた。
長い、静かな息だった。
ページを閉じたとき、ようやく心の中で何かが一段落した気がした。
それでもきっと、明日も彼のことを考えてしまう。
でも、今はそれでいい。
忘れる必要なんてない。
想いが報われなかったとしても、それは“なかったこと”にはならない。
好きだった。
あの青が、あの声が、あの目が。
好きだった。
そしてそれは、
わたしの中で、たしかに生きている。
まひるはそのあいだ、何度も彼の名前を心の中で呼んだ。
けれど、口には出せなかった。
誰かに聞かれるのが怖かったわけじゃない。
ただ、名前にしてしまった瞬間に、律がもう遠くへ行ってしまったことを認めてしまいそうだった。
彼からのメッセージは、来なかった。
文化祭の朝を最後に、既読のつかない画面がすべてを語っていた。
放課後、美術室に行くのもやめた。
そこに彼の姿がないとわかっていて、それでも足を運ぶのが、つらすぎた。
未完成の青い絵と、無言のキャンバスだけが待っている場所。
あの絵の中に、律の「さよなら」がある気がして、どうしても見たくなかった。
ある日の放課後、まひるは帰り道をひとりで歩いていた。
その日も空は重たく、グレーと白がまざり合ったような色をしていた。
気温は低くないのに、風だけが妙に冷たく感じた。
雨は降っていなかったけれど、いつ降り出してもおかしくない、そんな空気だった。
まひるは歩きながら、自分の影を見ていた。
薄くて、かたちもぼんやりしていて、何を写しているのかよくわからない。
まるで、自分自身の心みたいだった。
──もう一度だけ会えたらいいのに。
そう思った。
ただ、それだけを願った。
謝りたいとか、確かめたいとか、そういう言葉よりも前に、
「ただ、顔が見たい」
その気持ちが胸の奥に居座っていた。
それが、こんなにも苦しいことだなんて知らなかった。
誰かの不在が、こんなに静かに人を壊すものだなんて。
翌日、学校で律のことを話す生徒がひとりもいなかったことに、まひるは気づいた。
まるで、最初からいなかったかのように。
彼の名前も、姿も、時間とともに消えていった。
誰も彼のことを話題にしない。
黒瀬律という存在は、空気のようにすり抜けていった。
その静けさが、いちばん怖かった。
まひるは、自分だけが彼のことを覚えているような錯覚に陥っていた。
「私が覚えていないと、律くんは本当にいなくなってしまうんじゃないか」
そんな妄想めいた考えが、現実を侵食してくる。
だから彼女は、毎晩律の名前をノートに書いた。
声に出せないぶん、文字にすることで繋がりを保とうとした。
スケッチブックではなく、まひるのノートには彼への言葉が増えていった。
『今日も来なかった。
でも空は少し晴れたよ。
あなたがいたら、なんて言ったかな。』
ある日、まひるはついに、美術室の扉を開けた。
もう、怖がっていても何も変わらないと思ったから。
それでも、心のどこかで「もしかして……」という希望を抱いていた。
けれど、そこに律の姿はなかった。
変わらず未完成の絵が、ただ静かに立っていた。
彼がいなくなってから、少しだけ絵に変化があった。
前回見たとき、絵の隅にあった黒が、さらに広がっていた。
青が後退し、空の大部分が鈍色に覆われていた。
律がこの絵を完成させることは、もうないのかもしれない。
その事実が、心を刺した。
まひるは、そっとキャンバスの前に立った。
そして、律の描いた青を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「私のせい……なの?」
律が突然姿を消したのは、文化祭の日。
自分が想いを伝えようとしたあの日。
もしかして、気づかれていたのだろうか。
自分の気持ちが重かったのだろうか。
怖がらせてしまったのだろうか。
考えても答えは出ない。
でも、思考は勝手に“自分を責める方向”へ進んでしまう。
「……どうして、何も言わないの?」
目の前の青が、ただ黙っていた。
その日の帰り道。
雨が降り始めた。
ぽつ、ぽつ、と。
傘を差す前に、何粒かの雨がまひるの制服を濡らした。
まひるは立ち止まり、傘を開かずに雨に打たれた。
冷たくはなかった。
ただ、体の中の熱を静かに奪っていくような、優しい雨だった。
目を閉じると、いろんな声が蘇ってくる。
「泣いてた?」と聞いてくれた声。
「この青は、君のおかげかもしれない」と言ってくれた声。
そして、何も言わずに去ってしまった、律の沈黙。
涙が出るかと思った。
でも、出なかった。
代わりに、ひとつの思いだけが言葉になって胸の中に浮かんだ。
──雨は、わたしのせいじゃない。
律がいなくなったのも、
彼が何も言わなかったのも、
彼の青が黒に変わったのも。
それは、きっと“わたしのせい”じゃない。
自分を責めるのは、やめようと思った。
責めてしまうと、彼の優しさまで否定することになる気がした。
まひるはその夜、ひとつの詩を完成させた。
『きっと、
あなたの空に雨が降ったのは、
私のせいじゃない。
それでも私は、
いつまでも傘を持って、
あなたを待っていたい。』
文字を書き終えたあと、まひるはふうっと息を吐いた。
長い、静かな息だった。
ページを閉じたとき、ようやく心の中で何かが一段落した気がした。
それでもきっと、明日も彼のことを考えてしまう。
でも、今はそれでいい。
忘れる必要なんてない。
想いが報われなかったとしても、それは“なかったこと”にはならない。
好きだった。
あの青が、あの声が、あの目が。
好きだった。
そしてそれは、
わたしの中で、たしかに生きている。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる