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第8話「君を好きだったすべての青に」
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あの日から、季節がひとつ進んだ。
雨の多かった秋が過ぎ、空が冬の冷たさをまとい始めた頃。
白石まひるは、いつもの通学路を歩いていた。
制服の上にコートを羽織り、マフラーをぎゅっと巻いて。
吐く息は白く、頬を刺す風が朝の始まりを告げている。
律が学校を辞めたと知ったのは、ある日のホームルームだった。
担任が「転校した」と、ただそれだけを淡々と告げた。
理由も、詳細も、誰も語らなかった。
クラスの誰もが、特に深く反応しなかった。
でも、まひるにはそれがすべてだった。
律は、いなくなったのだ。
もう戻ってこないのだ。
それが現実となった瞬間、何もかもが静かに変わっていった。
まひるは、それでも毎日を生きていた。
朝は決まった時間に起きて、
制服に袖を通し、
学校に向かい、
授業を受けて、
昼を食べて、
本を読み、
そして、日が落ちたら家に帰る。
律がいなくなったことで、何かが壊れたわけではない。
それでも、どこかひとつ欠けたままの日常が続いていた。
たとえば、音楽のない映画のような。
あるいは、色彩を失った景色のような。
そんな静かで、鈍くて、でも確かに“続いている”日々だった。
それがまひるには、必要だった。
すぐに前を向けるほど強くない。
でも、後ろばかり向いていられるほど子どもでもない。
それを受け入れる時間が、どうしても必要だった。
そして、ある土曜日の午後。
雲の切れ間から、淡い陽が差し込んだ日。
まひるは、久しぶりに美術室の前に立っていた。
もう誰もいないはずのその部屋。
でも、なぜか「行こう」と思った。
理由はなかった。
ただ、歩いていたら自然とここに来ていた。
扉を開けると、予想通り誰の姿もなかった。
空気は冷たく、机の上には薄くほこりが積もっていた。
かつて、律が座っていた場所。
スケッチブックを開いていた机。
そして、あのキャンバス。
まだあった。
あの日と同じように、そこにあった。
でも、少しだけ変化していた。
あの絵――律が最後に描いていた未完成の空に、
ほんのわずかだが、“青”が戻ってきていた。
鈍色に飲まれかけていた空の一角に、
ひっそりとにじむような淡い青が、そこにあった。
まひるは、そっと近づいて指先を添えた。
触れはしない。
でも、そこに“確かに律がいた”ということだけは、心に刻まれた。
「……来てたんだ」
声に出して、気づく。
律は最後に、もう一度この絵に手を加えに来ていたのだ。
誰にも言わず、気配を残さず、そっと。
まひるに何も伝えずに。
それでも、“青”は残された。
言葉よりも、確かな想いだった。
帰り道、まひるは町の画材屋に立ち寄った。
律がよく使っていた種類の絵筆を、何となく買ってみた。
絵が描けるわけじゃない。
でも、その筆を握ったとき、律の手の温度を思い出せる気がした。
そして、その夜。
まひるは久しぶりにノートを開いた。
いつもなら詩を書く。
けれど、その日は、手紙を書いた。
宛先は、黒瀬律。
『律くんへ。
あのとき、何を思って消えたのかは、今もわかりません。
怖かったのか、迷っていたのか、それとも私が何かしてしまったのか。
考えても、答えは出ないままです。
でも、ひとつだけわかっていることがあります。
私は、あなたが描いたあの青が、ずっと好きでした。
静かで、まっすぐで、どこか痛くて、
それでも前を向こうとしている色。
あなたの絵を見るたび、私は自分の中にも“青”があることに気づきました。
それを思い出させてくれたあなたに、ありがとうを伝えたいです。
恋だったと思います。
とても静かで、名前を呼ぶこともできなかった恋。
でも、確かに、私はあなたを好きでした。
あなたが、どこかで元気にしていますように。
もし、いつかどこかでまた会えるなら。
そのときは、今度こそ――笑って、名前を呼ばせてください。』
まひるはペンを置き、深く息を吐いた。
手紙は封筒に入れず、ノートの最後のページに挟んだ。
出すあてなどなかった。
でも、それでよかった。
この気持ちは、どこにも届かなくてもいい。
でも、消えない。
なくならない。
それから数日後の午後。
まひるは駅のホームで、電車を待っていた。
週末に一人で出かけるのは珍しいことだったが、
たまには遠くの美術館に行ってみようと思ったのだ。
青の絵を、もっと見てみたかった。
律が見ていた“青の世界”を、少しでも追体験したかった。
電車が到着する数分前。
ふと、隣のホームに目を向けた。
その瞬間――時が止まった。
向こうのベンチに座っている少年。
黒いコート、少し伸びた前髪、
そして、本を読む静かな横顔。
目を疑った。
でも、間違えようがなかった。
律だった。
何かを話す前に、向こうの電車が先に入ってきた。
人々が流れるように動く。
視界が途切れ、彼の姿が見えなくなる。
まひるは、駆け出そうとした。
けれど、その足が止まった。
次の瞬間、電車の扉が閉まり、
律の姿を乗せたまま、ゆっくりと動き出した。
まひるはその場に立ち尽くし、
電車の窓越しに、律の目が一瞬だけ、こちらを見たのを感じた。
何も言わない。
何も聞こえない。
ただ、ひとつだけ――彼が、少し微笑んだ気がした。
それで、十分だった。
まひるは、そっと目を閉じた。
そして、胸の中で静かに言葉を唱えた。
「さようなら。
そして、ありがとう。
君を好きだった、すべての青に。」
――完――
雨の多かった秋が過ぎ、空が冬の冷たさをまとい始めた頃。
白石まひるは、いつもの通学路を歩いていた。
制服の上にコートを羽織り、マフラーをぎゅっと巻いて。
吐く息は白く、頬を刺す風が朝の始まりを告げている。
律が学校を辞めたと知ったのは、ある日のホームルームだった。
担任が「転校した」と、ただそれだけを淡々と告げた。
理由も、詳細も、誰も語らなかった。
クラスの誰もが、特に深く反応しなかった。
でも、まひるにはそれがすべてだった。
律は、いなくなったのだ。
もう戻ってこないのだ。
それが現実となった瞬間、何もかもが静かに変わっていった。
まひるは、それでも毎日を生きていた。
朝は決まった時間に起きて、
制服に袖を通し、
学校に向かい、
授業を受けて、
昼を食べて、
本を読み、
そして、日が落ちたら家に帰る。
律がいなくなったことで、何かが壊れたわけではない。
それでも、どこかひとつ欠けたままの日常が続いていた。
たとえば、音楽のない映画のような。
あるいは、色彩を失った景色のような。
そんな静かで、鈍くて、でも確かに“続いている”日々だった。
それがまひるには、必要だった。
すぐに前を向けるほど強くない。
でも、後ろばかり向いていられるほど子どもでもない。
それを受け入れる時間が、どうしても必要だった。
そして、ある土曜日の午後。
雲の切れ間から、淡い陽が差し込んだ日。
まひるは、久しぶりに美術室の前に立っていた。
もう誰もいないはずのその部屋。
でも、なぜか「行こう」と思った。
理由はなかった。
ただ、歩いていたら自然とここに来ていた。
扉を開けると、予想通り誰の姿もなかった。
空気は冷たく、机の上には薄くほこりが積もっていた。
かつて、律が座っていた場所。
スケッチブックを開いていた机。
そして、あのキャンバス。
まだあった。
あの日と同じように、そこにあった。
でも、少しだけ変化していた。
あの絵――律が最後に描いていた未完成の空に、
ほんのわずかだが、“青”が戻ってきていた。
鈍色に飲まれかけていた空の一角に、
ひっそりとにじむような淡い青が、そこにあった。
まひるは、そっと近づいて指先を添えた。
触れはしない。
でも、そこに“確かに律がいた”ということだけは、心に刻まれた。
「……来てたんだ」
声に出して、気づく。
律は最後に、もう一度この絵に手を加えに来ていたのだ。
誰にも言わず、気配を残さず、そっと。
まひるに何も伝えずに。
それでも、“青”は残された。
言葉よりも、確かな想いだった。
帰り道、まひるは町の画材屋に立ち寄った。
律がよく使っていた種類の絵筆を、何となく買ってみた。
絵が描けるわけじゃない。
でも、その筆を握ったとき、律の手の温度を思い出せる気がした。
そして、その夜。
まひるは久しぶりにノートを開いた。
いつもなら詩を書く。
けれど、その日は、手紙を書いた。
宛先は、黒瀬律。
『律くんへ。
あのとき、何を思って消えたのかは、今もわかりません。
怖かったのか、迷っていたのか、それとも私が何かしてしまったのか。
考えても、答えは出ないままです。
でも、ひとつだけわかっていることがあります。
私は、あなたが描いたあの青が、ずっと好きでした。
静かで、まっすぐで、どこか痛くて、
それでも前を向こうとしている色。
あなたの絵を見るたび、私は自分の中にも“青”があることに気づきました。
それを思い出させてくれたあなたに、ありがとうを伝えたいです。
恋だったと思います。
とても静かで、名前を呼ぶこともできなかった恋。
でも、確かに、私はあなたを好きでした。
あなたが、どこかで元気にしていますように。
もし、いつかどこかでまた会えるなら。
そのときは、今度こそ――笑って、名前を呼ばせてください。』
まひるはペンを置き、深く息を吐いた。
手紙は封筒に入れず、ノートの最後のページに挟んだ。
出すあてなどなかった。
でも、それでよかった。
この気持ちは、どこにも届かなくてもいい。
でも、消えない。
なくならない。
それから数日後の午後。
まひるは駅のホームで、電車を待っていた。
週末に一人で出かけるのは珍しいことだったが、
たまには遠くの美術館に行ってみようと思ったのだ。
青の絵を、もっと見てみたかった。
律が見ていた“青の世界”を、少しでも追体験したかった。
電車が到着する数分前。
ふと、隣のホームに目を向けた。
その瞬間――時が止まった。
向こうのベンチに座っている少年。
黒いコート、少し伸びた前髪、
そして、本を読む静かな横顔。
目を疑った。
でも、間違えようがなかった。
律だった。
何かを話す前に、向こうの電車が先に入ってきた。
人々が流れるように動く。
視界が途切れ、彼の姿が見えなくなる。
まひるは、駆け出そうとした。
けれど、その足が止まった。
次の瞬間、電車の扉が閉まり、
律の姿を乗せたまま、ゆっくりと動き出した。
まひるはその場に立ち尽くし、
電車の窓越しに、律の目が一瞬だけ、こちらを見たのを感じた。
何も言わない。
何も聞こえない。
ただ、ひとつだけ――彼が、少し微笑んだ気がした。
それで、十分だった。
まひるは、そっと目を閉じた。
そして、胸の中で静かに言葉を唱えた。
「さようなら。
そして、ありがとう。
君を好きだった、すべての青に。」
――完――
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