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【第1話】亡き妻に似た女
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午前九時十五分、ガラス張りの会議室にはまだ誰の姿もなかった。
夏とはいえ冷房が効きすぎていて、シャツの襟元を思わずつまむ。
照明がまだ落とされたままの室内には、オフィスビル特有の無機質な匂いと、電気機器の低い駆動音が漂っていた。
壁の時計をちらりと見て、溜息をひとつ。
(……早く終わってくれ)
◇◆◇
今朝、出社するとすぐに直属の上司から「今日、新しいアシスタントが配属される」と告げられた。
しかも、そのアシスタントは外部の共同研究会社「クレストバイオ」からの派遣だという。
(よりによって、あの会社か……)
頭をかすめるのは、クレストバイオと当社――アレグロ・ファーマとの微妙な関係だ。
ここ最近、開発中の新薬「エスラミン」を巡って社内外の空気が騒がしい。
当初は精神安定薬として設計されたはずのそれが、実際には“記憶修復”という未知の作用を引き起こすという噂が立ち始めていた。
(臨床前なのに、情報が漏れている)
(どこかに“穴”がある)
俺は開発チームの一員でありながら、同時に社内ネットワークの管理も任されていた。
その立場を利用して、数ヶ月前からこっそりと不自然なアクセスログや内部データのコピーを集め、USBメモリに保存していた。
それが、今や命取りになるかもしれないという予感だけが日増しに濃くなっていく。
◇◆◇
ノックの音がした。
扉が開き、入ってきたのは白衣を着た若い女性と、プロジェクトリーダーの神原本部長だった。
「紹介しよう。こちら、今日からアシスタントとして入る葉山澪(はやま みお)さんだ」
神原の声が、どこか演技めいて聞こえる。
次の瞬間、俺は呼吸を忘れた。
視線が、その女に釘付けになった。
(……なん、だ……?)
女は白衣の下に淡いグレーのワンピースを着ていた。
肩までの黒髪がややウェーブがかっており、唇は血色がよく、目元には優しげな陰がある。
しかし、俺が目を奪われたのはそんな“印象”ではない。
それは、顔だった。
――由衣。
死んだはずの、俺の妻。
五年前、事故で亡くなった由衣に、目の前の女は、あまりにも酷似していた。
まるで彼女がそのまま帰ってきたかのような錯覚に、足の感覚が一瞬消えた。
「……如月さん?」
神原の声が、遠くから聞こえた。
俺は、咄嗟に立ち上がっていたことに気づく。
「……すみません。ちょっと体調が」
「無理しなくても大丈夫ですよ。初日ですし、澪さんにはまず研究室の構造を説明しておいてください」
女――葉山澪が、すこしはにかんだような笑みを浮かべ、こちらを見た。
(ちがう、これは由衣じゃない。ありえない)
(けど……)
その笑顔の角度、目尻の皺、口の動き――すべてが、死ぬほど見慣れたものだった。
「如月さん……ですか? 今日からよろしくお願いします」
その声まで、似ていた。
くぐもったような、やや低めの柔らかい声。
(これは……悪い冗談だ)
俺は礼儀としてうなずき、言葉を絞り出す。
「……こちらこそ」
無意識に言葉が宙を泳ぐ。
彼女は、にこりと微笑み、俺の視線を少しだけのぞき込むように合わせた。
何かを確かめるように。
その瞬間、背筋が凍った。
(この目は――俺のことを“知っている”目だ)
(まさか)
(いや、そんなことは……)
◇◆◇
午後になっても、落ち着かない気分のまま時が過ぎた。
研究室では装置の調整やサンプルの搬入が続いていたが、俺の意識は常に後ろにいる澪に引き寄せられていた。
ときおり視線を逸らすふりをしながら彼女を盗み見る。
立ち姿、資料の持ち方、左利きなところ――どれも由衣と同じ…に見える。
(偶然にしては……出来すぎている)
(いや、あの“声”まで同じというのは、ありえない)
内心のざわめきが、脳を焦がすように響く。
だが、もっと恐ろしいのは、澪本人には“それを隠そうとする素振りが一切ない”ことだった。
まるで自分が「由衣に似ている」と言われ慣れているかのように、自然体で仕事をこなしていた。
◇◆◇
夜。
自宅の書斎。
シャツのボタンを開けたまま、PCの画面を見つめる。
社内ログの中から、澪のPCとアクセス権限を調べる。
(……やはり、共同研究先のクレストバイオ経由)
(正式な契約書類も出てる)
(経歴も……)
そこには、「東洋医大 生化学専攻」「研究職3年」といった、至極まっとうな情報が並んでいた。
しかし、既視感が拭えない。
それはどこかで聞いたような記述で、記憶の奥底を探るほどに気味が悪くなってくる。
(これは……)
引き出しを開け、USBメモリを取り出す。
外部ネットワークと隔離されたサーバーからコピーした、一連の“機密ファイル”が収められている。
ファイルのひとつを開くと、そこには“E-MN_04”というコードネームの記録があった。
中身は、人体構造データ。
さらに、脳波パターン。
記憶刺激反応。
それらのデータの中に、“如月由衣”という名が出てくる。
その記録は、5年前の日付だった。
(……嘘だろ)
胸の奥が強く、締め付けられる。
あの事故の直前、由衣が何かに関わっていた?
それとも、これらのデータは――
そこへ、スマホが鳴った。
非通知。
恐る恐る通話ボタンを押す。
「――あなたに、警告します」
機械で加工されたような女の声。
「USBメモリの内容は、触れてはならない記録です」
「あなたがそれを外部に流した場合、葉山澪の存在は消去されるでしょう」
「彼女は、あなたを……まだ、見ていない」
通話が切れた。
心臓が、喉元にせり上がる。
◇◆◇
そのとき――
玄関から、「カチャリ」と音がした。
自分以外に誰もいないはずの家。
足音が、廊下を、こちらに近づいてくる。
――そして、扉が開いた。
そこにいたのは、澪だった。
薄暗い廊下の向こうで、静かに立ち尽くしていた。
「すみません……今日、お渡しする資料、間違って持って帰ってしまって……」
(なぜ、鍵を……?)
俺は震える手で椅子をつかんだ。
「……どうやって入った?」
「……あれ?」
澪が首をかしげる。
「さっき、開いていたような気が……」
(いや、鍵は、確かに閉めた)
(そんなはずは、ない)
彼女の姿が、闇に沈んでいくように感じられた。
「……如月さん、どうかしたんですか?」
その声は、かつて聞いた、“妻の声”そのものだった。
俺の中で何かが軋むように崩れた。
(――これは、夢か?)
(それとも、もう始まってしまっているのか)
暗い部屋の中で、俺は澪の影を見つめながら立ち尽くしていた。
その微笑が、懐かしさと恐怖の両方を孕んでいるように見えた。
夏とはいえ冷房が効きすぎていて、シャツの襟元を思わずつまむ。
照明がまだ落とされたままの室内には、オフィスビル特有の無機質な匂いと、電気機器の低い駆動音が漂っていた。
壁の時計をちらりと見て、溜息をひとつ。
(……早く終わってくれ)
◇◆◇
今朝、出社するとすぐに直属の上司から「今日、新しいアシスタントが配属される」と告げられた。
しかも、そのアシスタントは外部の共同研究会社「クレストバイオ」からの派遣だという。
(よりによって、あの会社か……)
頭をかすめるのは、クレストバイオと当社――アレグロ・ファーマとの微妙な関係だ。
ここ最近、開発中の新薬「エスラミン」を巡って社内外の空気が騒がしい。
当初は精神安定薬として設計されたはずのそれが、実際には“記憶修復”という未知の作用を引き起こすという噂が立ち始めていた。
(臨床前なのに、情報が漏れている)
(どこかに“穴”がある)
俺は開発チームの一員でありながら、同時に社内ネットワークの管理も任されていた。
その立場を利用して、数ヶ月前からこっそりと不自然なアクセスログや内部データのコピーを集め、USBメモリに保存していた。
それが、今や命取りになるかもしれないという予感だけが日増しに濃くなっていく。
◇◆◇
ノックの音がした。
扉が開き、入ってきたのは白衣を着た若い女性と、プロジェクトリーダーの神原本部長だった。
「紹介しよう。こちら、今日からアシスタントとして入る葉山澪(はやま みお)さんだ」
神原の声が、どこか演技めいて聞こえる。
次の瞬間、俺は呼吸を忘れた。
視線が、その女に釘付けになった。
(……なん、だ……?)
女は白衣の下に淡いグレーのワンピースを着ていた。
肩までの黒髪がややウェーブがかっており、唇は血色がよく、目元には優しげな陰がある。
しかし、俺が目を奪われたのはそんな“印象”ではない。
それは、顔だった。
――由衣。
死んだはずの、俺の妻。
五年前、事故で亡くなった由衣に、目の前の女は、あまりにも酷似していた。
まるで彼女がそのまま帰ってきたかのような錯覚に、足の感覚が一瞬消えた。
「……如月さん?」
神原の声が、遠くから聞こえた。
俺は、咄嗟に立ち上がっていたことに気づく。
「……すみません。ちょっと体調が」
「無理しなくても大丈夫ですよ。初日ですし、澪さんにはまず研究室の構造を説明しておいてください」
女――葉山澪が、すこしはにかんだような笑みを浮かべ、こちらを見た。
(ちがう、これは由衣じゃない。ありえない)
(けど……)
その笑顔の角度、目尻の皺、口の動き――すべてが、死ぬほど見慣れたものだった。
「如月さん……ですか? 今日からよろしくお願いします」
その声まで、似ていた。
くぐもったような、やや低めの柔らかい声。
(これは……悪い冗談だ)
俺は礼儀としてうなずき、言葉を絞り出す。
「……こちらこそ」
無意識に言葉が宙を泳ぐ。
彼女は、にこりと微笑み、俺の視線を少しだけのぞき込むように合わせた。
何かを確かめるように。
その瞬間、背筋が凍った。
(この目は――俺のことを“知っている”目だ)
(まさか)
(いや、そんなことは……)
◇◆◇
午後になっても、落ち着かない気分のまま時が過ぎた。
研究室では装置の調整やサンプルの搬入が続いていたが、俺の意識は常に後ろにいる澪に引き寄せられていた。
ときおり視線を逸らすふりをしながら彼女を盗み見る。
立ち姿、資料の持ち方、左利きなところ――どれも由衣と同じ…に見える。
(偶然にしては……出来すぎている)
(いや、あの“声”まで同じというのは、ありえない)
内心のざわめきが、脳を焦がすように響く。
だが、もっと恐ろしいのは、澪本人には“それを隠そうとする素振りが一切ない”ことだった。
まるで自分が「由衣に似ている」と言われ慣れているかのように、自然体で仕事をこなしていた。
◇◆◇
夜。
自宅の書斎。
シャツのボタンを開けたまま、PCの画面を見つめる。
社内ログの中から、澪のPCとアクセス権限を調べる。
(……やはり、共同研究先のクレストバイオ経由)
(正式な契約書類も出てる)
(経歴も……)
そこには、「東洋医大 生化学専攻」「研究職3年」といった、至極まっとうな情報が並んでいた。
しかし、既視感が拭えない。
それはどこかで聞いたような記述で、記憶の奥底を探るほどに気味が悪くなってくる。
(これは……)
引き出しを開け、USBメモリを取り出す。
外部ネットワークと隔離されたサーバーからコピーした、一連の“機密ファイル”が収められている。
ファイルのひとつを開くと、そこには“E-MN_04”というコードネームの記録があった。
中身は、人体構造データ。
さらに、脳波パターン。
記憶刺激反応。
それらのデータの中に、“如月由衣”という名が出てくる。
その記録は、5年前の日付だった。
(……嘘だろ)
胸の奥が強く、締め付けられる。
あの事故の直前、由衣が何かに関わっていた?
それとも、これらのデータは――
そこへ、スマホが鳴った。
非通知。
恐る恐る通話ボタンを押す。
「――あなたに、警告します」
機械で加工されたような女の声。
「USBメモリの内容は、触れてはならない記録です」
「あなたがそれを外部に流した場合、葉山澪の存在は消去されるでしょう」
「彼女は、あなたを……まだ、見ていない」
通話が切れた。
心臓が、喉元にせり上がる。
◇◆◇
そのとき――
玄関から、「カチャリ」と音がした。
自分以外に誰もいないはずの家。
足音が、廊下を、こちらに近づいてくる。
――そして、扉が開いた。
そこにいたのは、澪だった。
薄暗い廊下の向こうで、静かに立ち尽くしていた。
「すみません……今日、お渡しする資料、間違って持って帰ってしまって……」
(なぜ、鍵を……?)
俺は震える手で椅子をつかんだ。
「……どうやって入った?」
「……あれ?」
澪が首をかしげる。
「さっき、開いていたような気が……」
(いや、鍵は、確かに閉めた)
(そんなはずは、ない)
彼女の姿が、闇に沈んでいくように感じられた。
「……如月さん、どうかしたんですか?」
その声は、かつて聞いた、“妻の声”そのものだった。
俺の中で何かが軋むように崩れた。
(――これは、夢か?)
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