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【第7話】存在しない経歴
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深夜三時。
リビングの明かりを点けたまま、尚也はディスプレイの前に座っていた。
熱いブラックコーヒーをすするたび、舌の奥に苦味がまとわりついて離れない。
眠気はとうに過ぎ、代わりに研ぎ澄まされた焦燥だけが、骨の内側から響いていた。
(澪の中に、俺の記憶がある)
(由衣の記憶もある)
(……なのに、彼女自身の“記憶”は、どこにもない)
その違和感に気づいたのは、昨日のことだ。
夢の中で澪が発した、「自分の子ども時代が曖昧なんです」という言葉。
何気なく聞き流しそうになったその一言が、今になって耳の奥で鈍く響いていた。
(本当に、彼女の“過去”は存在しているのか?)
もし、彼女が人工的に作られた“存在”ならば――経歴すらも偽物だということになる。
そしてその証拠は、きっと“データではなく、記録の“空白”として現れるはずだ。
尚也は自作のセキュリティクラックプログラムを走らせ、東洋医科大学の学籍管理サーバーにアクセスした。
葉山澪の履歴書には、「2011年、東洋医大・生化学専攻卒」と記載されていた。
ならば、2011年度の卒業生データベースに名前があるはずだ。
だが――検索結果に「葉山 澪」の名前はなかった。
姓を「葉山」で再検索しても、10件程度のヒットしかない。
そのどれにも、彼女の名前は存在しない。
(おかしい)
名義違いの可能性を考慮して、今度は全国の学籍データベースを横断照会。
それでも該当なし。
年齢、出生地、生年月日、親の職業……履歴書に記載された情報すべてが、“存在していないかのように空白”だった。
(……全部、作られた情報だ)
(いや、もしかしたら彼女自身が“記憶”を後付けされた結果、履歴と記憶が一致していないのかもしれない)
そこまで考えたとき、肌にじっとりと冷たい汗が滲んだ。
(彼女は、“自分”を生きていない)
◇◆◇
翌朝、いつもより早く出社した尚也は、システム管理室にある仮想ログサーバーに接続した。
ここには、社員の入退室ログや社内端末の操作記録が日次単位で蓄積されている。
澪の社内ID――“mio.hayama@crebio”の動きを調べる。
前日、彼女がアクセスしたファイル一覧には、不可解なものがあった。
「Kisaragi_Yui - 医療記録(CONFIDENTIAL)」
(……由衣の記録に、アクセスしていた?)
開けるはずのない機密レベル。
彼女の権限では到底到達できないはずの場所だ。
(どうやって入った?)
(誰かが許可を与えた? それとも……最初から“中の人間”だった?)
◇◆◇
その日の午後。
社員食堂で、尚也は倉持詩織を呼び出した。
システム監査室の主任。情報の痕跡を追うことにかけては社内でも随一。
彼女は手帳を開いたまま、アイスティーを口にしながら言った。
「名前、もう一回いい? “葉山澪”で合ってるよね」
「ああ」
詩織は小さく息をつき、声を落とした。
「先に言っておくとね、検索かけたときに“見つからない”ということはよくあるの。でもね――今回のこれは、そういうレベルじゃない」
「……というと?」
「“痕跡を消してる”の。意図的に」
「削除痕、改ざんログ、時系列の矛盾。履歴の痕跡は本来、消しても“残る”。でも彼女の記録は、“存在しなかったように振る舞ってる”」
「たとえば何か?」
「彼女のIDは“派遣職員”扱いなんだけど、最初から社内フルアクセスの権限があるの。つまり、上層部の誰かが“内部から”用意したってこと」
「それとね――もっと奇妙なことに気づいた」
詩織はタブレットをこちらに傾けた。
「この顔、見覚えある?」
そこには、五年前の医療学会の記録映像が表示されていた。
学会ロゴの横で立っている女性――白衣、細い首、肩までの黒髪。
笑っていた。
その顔は――間違いなく澪だった。
(嘘だ……)
「日付は2019年3月。彼女の経歴上では、まだ大学に在学してる頃のはず」
「だけどこの映像だと、彼女は“プロジェクトの助手”として記録されてる。正式に名前も出てないし、発言もないけど、立ち位置が妙に不自然」
「それってつまり……」
「彼女は、もっと前からこのプロジェクトに関与してた可能性がある。履歴書よりも、過去から」
「それも、“名前を持たない形”で」
◇◆◇
オフィスに戻ると、尚也のデスクの上に小さな封筒が置かれていた。
差出人はない。
だが、見覚えのある筆跡だった。
(由衣の……)
震える指で開封する。
中には、1枚の紙と、古びた診察カードが入っていた。
紙にはこう書かれていた。
《「彼女の名前は“葉山澪”ではありません」》
《「彼女は名前を与えられただけ。最初に目を覚ました場所には、番号しかなかった」》
《「Y.I.は、自分の一部を“彼女”に渡しました」》
《「あなたが見つけた記憶、それはまだ“始まり”にすぎません」》
診察カードには、古い病院名。
桐谷総合神経研究センター
裏面には、患者コード:MN-04
(……“MN”)
(ミラー・ニューロン? それとも“ミオ・ナンバー”?)
(いや、プロトタイプコードだ)
尚也はPCを開き、かつて由衣が籍を置いていた医療法人の関連施設を検索した。
その中に、桐谷センターの名があった。
既に閉鎖されている施設。
5年前に「設備トラブルによる火災事故」で一部焼失している。
(澪は、そこで……“目覚めた”)
◇◆◇
その晩。
尚也は夢を見た。
ただし、それは今までと違っていた。
夢の中に出てきたのは、由衣でも澪でもない。
それは、誰か“第三の女”だった。
白衣を着て、無表情にこちらを見ていた。
言葉はない。
だが、その目は“自分が誰か分かっていない”という哀しみで満ちていた。
彼女の背後には、ガラス張りの培養ポッドがいくつも並んでいた。
番号が振られ、液体の中で揺れる肉体の数々。
そして、最後列に立つ一つのポッドに、名札があった。
「MIO」
目が覚めると、天井の隅にいつかと同じ、小型カメラの赤い点滅があった。
点滅はしていない。
もう電源は落とされている。
誰かが、俺の“見ている夢”すらも――観測していた。
(澪は誰だ)
(俺は、誰を見ている)
夢と現実の境界が、今夜もまたひとつ、崩れた。
リビングの明かりを点けたまま、尚也はディスプレイの前に座っていた。
熱いブラックコーヒーをすするたび、舌の奥に苦味がまとわりついて離れない。
眠気はとうに過ぎ、代わりに研ぎ澄まされた焦燥だけが、骨の内側から響いていた。
(澪の中に、俺の記憶がある)
(由衣の記憶もある)
(……なのに、彼女自身の“記憶”は、どこにもない)
その違和感に気づいたのは、昨日のことだ。
夢の中で澪が発した、「自分の子ども時代が曖昧なんです」という言葉。
何気なく聞き流しそうになったその一言が、今になって耳の奥で鈍く響いていた。
(本当に、彼女の“過去”は存在しているのか?)
もし、彼女が人工的に作られた“存在”ならば――経歴すらも偽物だということになる。
そしてその証拠は、きっと“データではなく、記録の“空白”として現れるはずだ。
尚也は自作のセキュリティクラックプログラムを走らせ、東洋医科大学の学籍管理サーバーにアクセスした。
葉山澪の履歴書には、「2011年、東洋医大・生化学専攻卒」と記載されていた。
ならば、2011年度の卒業生データベースに名前があるはずだ。
だが――検索結果に「葉山 澪」の名前はなかった。
姓を「葉山」で再検索しても、10件程度のヒットしかない。
そのどれにも、彼女の名前は存在しない。
(おかしい)
名義違いの可能性を考慮して、今度は全国の学籍データベースを横断照会。
それでも該当なし。
年齢、出生地、生年月日、親の職業……履歴書に記載された情報すべてが、“存在していないかのように空白”だった。
(……全部、作られた情報だ)
(いや、もしかしたら彼女自身が“記憶”を後付けされた結果、履歴と記憶が一致していないのかもしれない)
そこまで考えたとき、肌にじっとりと冷たい汗が滲んだ。
(彼女は、“自分”を生きていない)
◇◆◇
翌朝、いつもより早く出社した尚也は、システム管理室にある仮想ログサーバーに接続した。
ここには、社員の入退室ログや社内端末の操作記録が日次単位で蓄積されている。
澪の社内ID――“mio.hayama@crebio”の動きを調べる。
前日、彼女がアクセスしたファイル一覧には、不可解なものがあった。
「Kisaragi_Yui - 医療記録(CONFIDENTIAL)」
(……由衣の記録に、アクセスしていた?)
開けるはずのない機密レベル。
彼女の権限では到底到達できないはずの場所だ。
(どうやって入った?)
(誰かが許可を与えた? それとも……最初から“中の人間”だった?)
◇◆◇
その日の午後。
社員食堂で、尚也は倉持詩織を呼び出した。
システム監査室の主任。情報の痕跡を追うことにかけては社内でも随一。
彼女は手帳を開いたまま、アイスティーを口にしながら言った。
「名前、もう一回いい? “葉山澪”で合ってるよね」
「ああ」
詩織は小さく息をつき、声を落とした。
「先に言っておくとね、検索かけたときに“見つからない”ということはよくあるの。でもね――今回のこれは、そういうレベルじゃない」
「……というと?」
「“痕跡を消してる”の。意図的に」
「削除痕、改ざんログ、時系列の矛盾。履歴の痕跡は本来、消しても“残る”。でも彼女の記録は、“存在しなかったように振る舞ってる”」
「たとえば何か?」
「彼女のIDは“派遣職員”扱いなんだけど、最初から社内フルアクセスの権限があるの。つまり、上層部の誰かが“内部から”用意したってこと」
「それとね――もっと奇妙なことに気づいた」
詩織はタブレットをこちらに傾けた。
「この顔、見覚えある?」
そこには、五年前の医療学会の記録映像が表示されていた。
学会ロゴの横で立っている女性――白衣、細い首、肩までの黒髪。
笑っていた。
その顔は――間違いなく澪だった。
(嘘だ……)
「日付は2019年3月。彼女の経歴上では、まだ大学に在学してる頃のはず」
「だけどこの映像だと、彼女は“プロジェクトの助手”として記録されてる。正式に名前も出てないし、発言もないけど、立ち位置が妙に不自然」
「それってつまり……」
「彼女は、もっと前からこのプロジェクトに関与してた可能性がある。履歴書よりも、過去から」
「それも、“名前を持たない形”で」
◇◆◇
オフィスに戻ると、尚也のデスクの上に小さな封筒が置かれていた。
差出人はない。
だが、見覚えのある筆跡だった。
(由衣の……)
震える指で開封する。
中には、1枚の紙と、古びた診察カードが入っていた。
紙にはこう書かれていた。
《「彼女の名前は“葉山澪”ではありません」》
《「彼女は名前を与えられただけ。最初に目を覚ました場所には、番号しかなかった」》
《「Y.I.は、自分の一部を“彼女”に渡しました」》
《「あなたが見つけた記憶、それはまだ“始まり”にすぎません」》
診察カードには、古い病院名。
桐谷総合神経研究センター
裏面には、患者コード:MN-04
(……“MN”)
(ミラー・ニューロン? それとも“ミオ・ナンバー”?)
(いや、プロトタイプコードだ)
尚也はPCを開き、かつて由衣が籍を置いていた医療法人の関連施設を検索した。
その中に、桐谷センターの名があった。
既に閉鎖されている施設。
5年前に「設備トラブルによる火災事故」で一部焼失している。
(澪は、そこで……“目覚めた”)
◇◆◇
その晩。
尚也は夢を見た。
ただし、それは今までと違っていた。
夢の中に出てきたのは、由衣でも澪でもない。
それは、誰か“第三の女”だった。
白衣を着て、無表情にこちらを見ていた。
言葉はない。
だが、その目は“自分が誰か分かっていない”という哀しみで満ちていた。
彼女の背後には、ガラス張りの培養ポッドがいくつも並んでいた。
番号が振られ、液体の中で揺れる肉体の数々。
そして、最後列に立つ一つのポッドに、名札があった。
「MIO」
目が覚めると、天井の隅にいつかと同じ、小型カメラの赤い点滅があった。
点滅はしていない。
もう電源は落とされている。
誰かが、俺の“見ている夢”すらも――観測していた。
(澪は誰だ)
(俺は、誰を見ている)
夢と現実の境界が、今夜もまたひとつ、崩れた。
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