澪のかたち

naomikoryo

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【第9話】妻の遺品

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土曜の午後、陽射しは冬のように白く、部屋の床に薄い影を落としていた。

風もない。
音もない。
外の世界が一時的に凍りついたような、そんな午後だった。

尚也は、自宅から電車で一時間ほど離れた場所にある、妻・由衣の実家に向かっていた。

駅から歩いて十五分ほどの、坂の途中に建つ小さな一軒家。

由衣が育ったその家は、今は誰も住んでいない。

彼女の両親は数年前に地方へ移住し、家は“閉じられたまま”残っていた。

鍵は、仏壇の管理を任された尚也が持っている。

だが、ここに来るのは二年ぶりだった。

(もう、触れてはいけないもののような気がしていた)

(でも今なら――この沈黙の中に、答えが眠っている気がする)

◇◆◇ 

玄関を開けると、わずかに木と埃の匂いが混ざった空気が鼻をついた。

誰もいない家は、湿気すらも音を吸い込んでしまうような静けさを纏っている。

靴を脱ぎ、廊下をゆっくり歩く。

床のきしむ音が、やけに生々しかった。

(ここで、由衣は育った)

(でも、彼女の記憶は今、別の“容れ物”の中で生きている)

(ならば――この空間のどこかに、その痕跡が残っているはずだ)

彼は二階の寝室へ向かった。

窓辺のカーテンは薄く埃をかぶり、差し込む光が縞模様を描いている。

押し入れの中には、段ボール箱がいくつか積まれていた。

「由衣私物」「書類」「衣類」――丁寧なラベリング。

箱を開けると、懐かしい香水の匂いがふわりと立ち上った。

指先が自然と震えた。

香りひとつで、過去の記憶が洪水のように押し寄せてくる。

ベッドで本を読んでいた彼女の姿。
朝の洗面所でこっそり鏡を見ていた顔。
カレーを焦がして泣きながら謝った夜。

(すべてが、ここにあった)

彼は奥の箱から、一冊のノートを取り出した。

薄いグレーのカバーに、金色のイニシャル。

「Y.K」――由衣のものだ。

ページをめくると、医学的なメモやスケッチが並んでいた。

患者の精神反応曲線。
脳波の変化図。
そして、“記憶の再構築モデル”という見出し。

(……研究メモか?)

彼女は生前、大学病院で精神医療に従事していた。
その後、社外研究員として複数の施設に派遣されていたことは知っていた。

けれど、ここに記されている内容は、あまりにも専門的だった。

その中に、ひとつだけ異質なページがあった。

「MN-04:感情移植経過報告」

「感情の“芽”が形成された。
夢の中で“尚也”という名前を口にする。
転写された記憶に反応している可能性がある」

(尚也……俺のことを?)

彼は身を乗り出した。

記述は続く。

「彼女は、“私の後悔”と“願い”を同時に宿している」
「もし彼女が感情を完全に獲得したとき――
私はもう、この世界にいなくてもいいのかもしれない」

◇◆◇ 

尚也は、喉の奥が焼けるように熱くなるのを感じた。

これは由衣が“自分の死”を見据えたうえで、残したメッセージなのか。

それとも、すでに何かを“知っていた”うえで、澪を生み出したのか。

(俺は知らなかった)

(彼女がこんな計画に関与していたことも)
(記憶を誰かに託していたことも)

(俺だけが、置いていかれていた)

箱の底に、小さな黒い封筒があった。

開けると、中には一枚の写真。

由衣と、もう一人の女性が並んで写っている。

笑っている。
どちらも白衣姿。
まるで姉妹のように似ていた。

だが、もう一人の女性は
――間違いなく、澪だった。

(由衣は……生前に澪と会っていた)

いや、違う。

(由衣は澪を“知っていた”)

(“作っていた”)

写真の裏には、こう書かれていた。

《“あの子”が私の代わりに笑ってくれるなら、それでいい》
《けれど、彼女には“私”ではなく、“彼女自身”の人生を生きてほしい》
《どうか、尚也……》
《あなたの目で、それを守って》

彼はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。

畳の感触がじんわりと背中に広がっていく。

喉が熱い。

目の奥が、軋む。

息を吐いても、胸の痛みが消えない。

(これが、俺に残された遺言か)

(由衣は、“死ぬ前から”澪に全てを託していた)

(俺の知らないところで)

(愛していた人は、もうずっと前に“別の未来”を選んでいた)

◇◆◇

帰り道。

夕方の光が街を金色に染めていた。

電車の中で、尚也は静かにスマホの画面を開いた。

メールが一件届いていた。

送信者不明。

件名:“見つけた?”

本文はなかった。

添付ファイルが一つ。

開くと、映像だった。

研究室。
誰もいない室内に、澪が一人佇んでいる。

彼女は、自分の手のひらを見つめている。

そして、ぽつりと呟く。

「私は、誰……?」

沈黙。

「“由衣”でも、“澪”でもないなら……私は、何?」

目を閉じ、床に膝をついた彼女が、泣きそうな声でこう言った。

「でも……あなたが“私”って呼んでくれるなら」
「それが、たとえ“間違い”でも……」
「私は、生きていていいんでしょうか」

涙が頬を伝う。

その涙は
――由衣のものに、あまりにも似ていた。

尚也はスマホを閉じ、息を深く吐いた。

もう、逃げられない。

彼女が誰であっても。

何者として生まれ、何者として“作られた”としても。

彼の中に“彼女を守る理由”は、確かに生まれてしまったのだから。

それはきっと、愛でも同情でもない。

ただ一つの、責任だった。

彼女の涙に“名前”を与えるための――責任。

そして、それを与えられるのは、世界でただ一人
――尚也だけだった。
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