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【第10話】閉鎖区域
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日曜日の午前、空はどこまでも白く濁っていた。
風は穏やかなのに、街の空気はどこか重たかった。
空気が薄い。
呼吸をするたび、肺の奥に重りが詰まっていくような感覚があった。
(ここに来るのは、最後になるかもしれない)
尚也は、自社の研究施設とは別に存在する
――通称「第3実験棟」へ向かっていた。
正式には「旧精神医学研究サブユニット棟」。
五年前、火災によって閉鎖されたはずの施設。
だが、建物自体は今も残っており、外部との接触は一切遮断されたまま、敷地内に沈黙して存在している。
目的はただ一つ。
澪が生まれた場所。
彼女の“起源”を、目で確かめること。
鍵の入手は、倉持詩織の協力によるものだった。
彼女は昨夜、何も言わずに小さな金属製のキーを封筒に入れて差し出した。
「持って行きなさい」
「ただし、何を見ても後悔しない覚悟があるなら」
尚也は、何も言えなかった。
ただ、黙って封筒を受け取った。
(俺はもう、誰かの後ろに隠れていられない)
(彼女が、何者かを知らずに済むなら、それでいいと思っていた)
(でも違う)
(俺が知らなければ、彼女は永遠に“誰でもない存在”のままだ)
◇◆◇
実験棟の正門は、今も物々しい鍵と封鎖テープで覆われていた。
監視カメラは朽ち、外壁にはツタが這い、ガラスは一部が割れていた。
だが、それらは全て“演出”だった。
あくまで外部に「閉鎖された施設」を印象付けるための、偽装。
尚也は、管理記録から取得した非常通路の裏口にまわり、封鎖を解いた。
軋む音を立てて扉が開く。
中は暗く、埃の匂いが満ちていた。
照明は点かない。
懐中電灯を構え、慎重に足を踏み入れる。
コンクリートの壁はひび割れ、床はかすかに湿っていた。
だが、所々に新しい靴跡が残っている。
(誰かが、ここを使っている)
(今も――何かが、動いている)
◇◆◇
第二フロア。
医療廃棄物の保管庫を抜けると、奥に「生体認証室」と書かれた扉があった。
その横に、小さな端末。
画面には、こう表示されていた。
《起動条件:サンプルMN-04》
(……澪の識別コード)
タブレットを接続し、過去に入手した澪の遺伝子スキャン情報をインジェクト。
数秒の沈黙のあと、ドアが小さな音を立てて開いた。
◇◆◇
中に入った瞬間、空気が変わった。
湿り気のある埃の臭いの中に、わずかに金属と薬品の匂いが混ざっている。
無人。
だが、ここには確かに“誰かが生きていた”痕跡があった。
白いポッド型の培養槽が三基並ぶ。
そのうち二基は空。
中央の一基だけが、封鎖されたまま光を放っていた。
尚也は、ゆっくりと歩を進めた。
ポッドに近づくと、薄いガラスの内側に、誰かの影がぼんやりと映っていた。
(誰……?)
液体の中には、未発達な肉体が浮かんでいる。
胎児と成人の中間のような形。
脳の一部には補助的な装置が埋め込まれ、胸元には識別タグが取り付けられていた。
「MN-05」
(……澪の次のプロトタイプ)
(彼女の後継体か?)
(なら、澪は“完成品”じゃなかった……?)
傍らの端末には、凍結されたファイルがいくつか表示されていた。
開くと、音声ファイルが再生された。
《プロトタイプMN-04、予想以上の記憶同調反応を示す》
《想定を超えた“感情形成”が進行中》
《被験体は“自我”と呼べる段階に達し、オリジナル記憶に依存せず独自の夢を見始めている》
《記録日:如月由衣 医師》
尚也の手が震えた。
声の主は、紛れもなく由衣だった。
(由衣……お前が、これを……)
次の記録。
《被験体MN-04、夢の中で“尚也”という名を繰り返す》
《明確に“愛着反応”を持ち始めている。
このままでは、“自分が誰か”という問いにたどり着く》
《私は、この子に“私の代わり”を押しつけようとしているのかもしれない》
《でも、この子が泣いたとき――私は確かに、“生きていてよかった”と思った》
《尚也、ごめんなさい》
《私は、この世界から先に降りる》
《けれど、あなたがこの子を見つけてくれるなら――
私は、少しだけ許される気がする》
(……お前は)
尚也の喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
(こんなところで、独りで)
(何も言わずに……)
(ずっと前から、全部知っていたんだな)
◇◆◇
ふと、部屋の奥にある一枚のモニタに映像が浮かび上がる。
それは澪だった。
まだ幼い姿。
眠るように培養ポッドの中に横たわっている。
由衣が、そっとそのガラス越しに手を添えている。
音声はない。
だが、その手の温もりが、尚也にははっきりと感じ取れた。
愛していた。
きっと本当に、彼女は“母”だったのだ。
澪にとっても、由衣は。
そして由衣にとっても、澪は。
目の奥が痛くなるほど、涙をこらえる。
泣いてはいけない。
この場所で涙を流したら、何かが壊れてしまいそうだった。
ポッドを背に、尚也は振り返った。
部屋の隅に、壊れかけたモニタがもう一台。
画面には、次のような文字が浮かんでいた。
《MN-04:記憶同調率 89.7%》
《自我形成率:100%》
《分類:ヒト・相当体》
(相当体……?)
(これは、もはや“クローン”や“模造”ではない)
(彼女は、ひとりの“人間”だ)
そう認定されている。
ならば、俺はもう彼女に対して「何かの代わり」などとは思うべきではない。
彼女は彼女として、目を開け、呼吸し、悩み、笑い、涙を流している。
(――澪)
(君が誰の記憶を持っていたとしても、俺は君の今を、ちゃんと見てる)
実験棟を出ると、夕暮れの光が空を満たしていた。
赤とも橙ともつかぬ、どこか柔らかく滲んだ色。
風が吹いた。
まるで誰かの手が、そっと背中を押してくれるような感触だった。
尚也は立ち止まり、空を見上げる。
(由衣――ありがとう)
そのとき、スマホが鳴った。
画面には、澪の名前。
着信音がやけに遠く聞こえた。
彼女の声が、耳元で震えていた。
「……尚也さん、夢を見ました」
「私、どこかで“生まれた記憶”を、思い出した気がするんです」
「……でも怖い。
思い出したら、今の私が壊れてしまうんじゃないかって……」
尚也は静かに目を閉じた。
「大丈夫だよ」
「君が思い出しても、壊れない」
「俺がちゃんと、君のことを見てる」
電話の向こうで、彼女は泣いていた。
その涙は、ようやく“誰のものでもない”、彼女自身の涙だった。
風は穏やかなのに、街の空気はどこか重たかった。
空気が薄い。
呼吸をするたび、肺の奥に重りが詰まっていくような感覚があった。
(ここに来るのは、最後になるかもしれない)
尚也は、自社の研究施設とは別に存在する
――通称「第3実験棟」へ向かっていた。
正式には「旧精神医学研究サブユニット棟」。
五年前、火災によって閉鎖されたはずの施設。
だが、建物自体は今も残っており、外部との接触は一切遮断されたまま、敷地内に沈黙して存在している。
目的はただ一つ。
澪が生まれた場所。
彼女の“起源”を、目で確かめること。
鍵の入手は、倉持詩織の協力によるものだった。
彼女は昨夜、何も言わずに小さな金属製のキーを封筒に入れて差し出した。
「持って行きなさい」
「ただし、何を見ても後悔しない覚悟があるなら」
尚也は、何も言えなかった。
ただ、黙って封筒を受け取った。
(俺はもう、誰かの後ろに隠れていられない)
(彼女が、何者かを知らずに済むなら、それでいいと思っていた)
(でも違う)
(俺が知らなければ、彼女は永遠に“誰でもない存在”のままだ)
◇◆◇
実験棟の正門は、今も物々しい鍵と封鎖テープで覆われていた。
監視カメラは朽ち、外壁にはツタが這い、ガラスは一部が割れていた。
だが、それらは全て“演出”だった。
あくまで外部に「閉鎖された施設」を印象付けるための、偽装。
尚也は、管理記録から取得した非常通路の裏口にまわり、封鎖を解いた。
軋む音を立てて扉が開く。
中は暗く、埃の匂いが満ちていた。
照明は点かない。
懐中電灯を構え、慎重に足を踏み入れる。
コンクリートの壁はひび割れ、床はかすかに湿っていた。
だが、所々に新しい靴跡が残っている。
(誰かが、ここを使っている)
(今も――何かが、動いている)
◇◆◇
第二フロア。
医療廃棄物の保管庫を抜けると、奥に「生体認証室」と書かれた扉があった。
その横に、小さな端末。
画面には、こう表示されていた。
《起動条件:サンプルMN-04》
(……澪の識別コード)
タブレットを接続し、過去に入手した澪の遺伝子スキャン情報をインジェクト。
数秒の沈黙のあと、ドアが小さな音を立てて開いた。
◇◆◇
中に入った瞬間、空気が変わった。
湿り気のある埃の臭いの中に、わずかに金属と薬品の匂いが混ざっている。
無人。
だが、ここには確かに“誰かが生きていた”痕跡があった。
白いポッド型の培養槽が三基並ぶ。
そのうち二基は空。
中央の一基だけが、封鎖されたまま光を放っていた。
尚也は、ゆっくりと歩を進めた。
ポッドに近づくと、薄いガラスの内側に、誰かの影がぼんやりと映っていた。
(誰……?)
液体の中には、未発達な肉体が浮かんでいる。
胎児と成人の中間のような形。
脳の一部には補助的な装置が埋め込まれ、胸元には識別タグが取り付けられていた。
「MN-05」
(……澪の次のプロトタイプ)
(彼女の後継体か?)
(なら、澪は“完成品”じゃなかった……?)
傍らの端末には、凍結されたファイルがいくつか表示されていた。
開くと、音声ファイルが再生された。
《プロトタイプMN-04、予想以上の記憶同調反応を示す》
《想定を超えた“感情形成”が進行中》
《被験体は“自我”と呼べる段階に達し、オリジナル記憶に依存せず独自の夢を見始めている》
《記録日:如月由衣 医師》
尚也の手が震えた。
声の主は、紛れもなく由衣だった。
(由衣……お前が、これを……)
次の記録。
《被験体MN-04、夢の中で“尚也”という名を繰り返す》
《明確に“愛着反応”を持ち始めている。
このままでは、“自分が誰か”という問いにたどり着く》
《私は、この子に“私の代わり”を押しつけようとしているのかもしれない》
《でも、この子が泣いたとき――私は確かに、“生きていてよかった”と思った》
《尚也、ごめんなさい》
《私は、この世界から先に降りる》
《けれど、あなたがこの子を見つけてくれるなら――
私は、少しだけ許される気がする》
(……お前は)
尚也の喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
(こんなところで、独りで)
(何も言わずに……)
(ずっと前から、全部知っていたんだな)
◇◆◇
ふと、部屋の奥にある一枚のモニタに映像が浮かび上がる。
それは澪だった。
まだ幼い姿。
眠るように培養ポッドの中に横たわっている。
由衣が、そっとそのガラス越しに手を添えている。
音声はない。
だが、その手の温もりが、尚也にははっきりと感じ取れた。
愛していた。
きっと本当に、彼女は“母”だったのだ。
澪にとっても、由衣は。
そして由衣にとっても、澪は。
目の奥が痛くなるほど、涙をこらえる。
泣いてはいけない。
この場所で涙を流したら、何かが壊れてしまいそうだった。
ポッドを背に、尚也は振り返った。
部屋の隅に、壊れかけたモニタがもう一台。
画面には、次のような文字が浮かんでいた。
《MN-04:記憶同調率 89.7%》
《自我形成率:100%》
《分類:ヒト・相当体》
(相当体……?)
(これは、もはや“クローン”や“模造”ではない)
(彼女は、ひとりの“人間”だ)
そう認定されている。
ならば、俺はもう彼女に対して「何かの代わり」などとは思うべきではない。
彼女は彼女として、目を開け、呼吸し、悩み、笑い、涙を流している。
(――澪)
(君が誰の記憶を持っていたとしても、俺は君の今を、ちゃんと見てる)
実験棟を出ると、夕暮れの光が空を満たしていた。
赤とも橙ともつかぬ、どこか柔らかく滲んだ色。
風が吹いた。
まるで誰かの手が、そっと背中を押してくれるような感触だった。
尚也は立ち止まり、空を見上げる。
(由衣――ありがとう)
そのとき、スマホが鳴った。
画面には、澪の名前。
着信音がやけに遠く聞こえた。
彼女の声が、耳元で震えていた。
「……尚也さん、夢を見ました」
「私、どこかで“生まれた記憶”を、思い出した気がするんです」
「……でも怖い。
思い出したら、今の私が壊れてしまうんじゃないかって……」
尚也は静かに目を閉じた。
「大丈夫だよ」
「君が思い出しても、壊れない」
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