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【第20話】澪のかたち
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季節がひとつ、終わろうとしていた。
雪ではない。
でも、冷えた土の匂いが空気に混じり始め、木々がその葉を重たく震わせていた。
山間の別荘は、薄く霧に包まれている。
朝の光は、その霧を通してぼんやりと差し込んでいた。
澪は窓辺で、その光を見つめていた。
左手に、古びたカメラ。
右手には、ノートと鉛筆。
どちらも、誰かに与えられたものではなく、自分で選び、手にしたものだった。
(ここには、ただの道具しかない)
(でも、それがいい)
(自分で選んだものに囲まれていると、ようやく“世界”に手触りを感じられる)
彼女の中で、何かが“終わろうとしている”のがわかっていた。
それは恐怖ではなかった。
もっと深くて、静かで、そして温かい予感。
(終わりは、はじまりになる)
(きっとそれは、誰かの手ではなく、自分の足で迎えるもの)
◇◆◇
尚也は、薪を割っていた。
何でもない、ただの朝の作業。
でもそれは、かつて彼が一日の始まりに何をしていたかを思い出させる。
研究室で白衣を着ていたこと。
パスワードの設定に悩み、コーヒーを流し込んでいた日々。
管理者として、責任と緊張の狭間でバランスを取っていたこと。
(すべてが、過去になったわけじゃない)
(でも、澪といる時間が“これから”を作っている)
木を割るたび、音が静けさを裂く。
その断裂の合間に、澪の視線が確かに届いていた。
(彼女は、確かに生きている)
(過去の記憶ではなく、今この瞬間に、ここにいる)
◇◆◇
午前10時。
食卓に、簡単な朝食が並ぶ。
トーストに、バター。
ゆでたまご。
そして、コーヒー。
どれも質素だが、それが逆にいい。
「ねえ」
澪が食パンの端をかじりながら言う。
「私……ここを出ようと思ってる」
尚也は、すぐに答えなかった。
けれど、驚きはしなかった。
むしろ、(やっぱり)という思いのほうが強かった。
「どこへ?」
「決めてない」
「でも、この場所での暮らしは、ある意味“避難”だった」
「私は、逃げたことを否定しない」
「でも、これからは――歩いていきたい」
「自分の名前で、生きていきたい」
◇◆◇
それは、ある種の“卒業”だった。
誰かの守りの中で生きること。
誰かの用意した空間で、ただ息をしていること。
それは“死なない”ための選択だった。
でも今、彼女は“生きる”ための選択をしようとしている。
尚也は、コーヒーを口に運び、小さく頷いた。
「……行こう」
「俺も一緒に行く」
澪が静かに微笑んだ。
「それは、嬉しい」
「でも、これは“私だけの旅”なんだと思う」
「あなたは、あなたで“新しい時間”を選んでほしい」
「私たちはもう、誰かの“依存先”じゃない」
「だからこそ、また出会えると信じられる」
◇◆◇
午後。
澪は、別荘の部屋をひとつひとつ歩いていた。
手にしたカメラのシャッターを、静かに切っていく。
柱の傷。
陽だまりの机。
古びた階段。
どれも誰かの記憶じゃない。
この数週間、彼女自身が見て、触れて、選び取った景色たち。
それは証拠でも、記録でもない。
ただの“彼女の目”に映った風景。
(私はもう、“見られる存在”じゃない)
(私は、見る側になった)
(この世界を、自分のレンズで)
日が傾き始めるころ、尚也は山道へ車を出した。
荷物はほとんどない。
澪のリュックに入っていたのは、衣服とカメラとノートだけ。
USBはない。
記憶媒体も、研究資料も、もう持っていない。
それでも、胸の内には確かな輪郭があった。
(“私”という存在の、かたち)
(それがいま、ちゃんとここにある)
山道を抜け、バス停の前で車が止まる。
澪はドアを開け、風を感じる。
空は晴れ、青が深く透き通っていた。
◇◆◇
尚也が静かに言う。
「いつか、どこかで――また呼んでもいいかな」
澪はふと笑った。
「うん」
「そのときは、ちゃんと“澪”として応える」
「……でも、今は私から離れてみる」
「“澪”という名前に、私だけの意味を込めるために」
バスがやってきた。
古びた車体に、小さなエンジン音。
澪はリュックを背負い、振り返らずに乗り込んだ。
◇◆◇
走り出すバスの中。
窓の外を眺めながら、澪はノートを取り出す。
鉛筆を走らせる。
その文字は、揺れながらも、はっきりとしていた。
《名前は、誰かに与えられるものではない》
《名前は、自分の歩いた日々で“育っていく”》
《私は、澪》
《もう迷わない》
別荘へ戻る山道。
尚也は一人、静かに運転していた。
助手席には、何もいない。
でも、その空席には、確かに“温もり”が残っていた。
風が窓を叩く。
木々が揺れる。
彼の耳に、かすかに澪の声が届く気がした。
“ありがとう”
“またね”
その言葉に、彼はハンドルを握る手を少し強くした。
(これでいい)
(これが、彼女の旅立ち)
(そして、俺の新しい始まり)
車は静かに、霧の中を走り続けた。
――物語、完結。
雪ではない。
でも、冷えた土の匂いが空気に混じり始め、木々がその葉を重たく震わせていた。
山間の別荘は、薄く霧に包まれている。
朝の光は、その霧を通してぼんやりと差し込んでいた。
澪は窓辺で、その光を見つめていた。
左手に、古びたカメラ。
右手には、ノートと鉛筆。
どちらも、誰かに与えられたものではなく、自分で選び、手にしたものだった。
(ここには、ただの道具しかない)
(でも、それがいい)
(自分で選んだものに囲まれていると、ようやく“世界”に手触りを感じられる)
彼女の中で、何かが“終わろうとしている”のがわかっていた。
それは恐怖ではなかった。
もっと深くて、静かで、そして温かい予感。
(終わりは、はじまりになる)
(きっとそれは、誰かの手ではなく、自分の足で迎えるもの)
◇◆◇
尚也は、薪を割っていた。
何でもない、ただの朝の作業。
でもそれは、かつて彼が一日の始まりに何をしていたかを思い出させる。
研究室で白衣を着ていたこと。
パスワードの設定に悩み、コーヒーを流し込んでいた日々。
管理者として、責任と緊張の狭間でバランスを取っていたこと。
(すべてが、過去になったわけじゃない)
(でも、澪といる時間が“これから”を作っている)
木を割るたび、音が静けさを裂く。
その断裂の合間に、澪の視線が確かに届いていた。
(彼女は、確かに生きている)
(過去の記憶ではなく、今この瞬間に、ここにいる)
◇◆◇
午前10時。
食卓に、簡単な朝食が並ぶ。
トーストに、バター。
ゆでたまご。
そして、コーヒー。
どれも質素だが、それが逆にいい。
「ねえ」
澪が食パンの端をかじりながら言う。
「私……ここを出ようと思ってる」
尚也は、すぐに答えなかった。
けれど、驚きはしなかった。
むしろ、(やっぱり)という思いのほうが強かった。
「どこへ?」
「決めてない」
「でも、この場所での暮らしは、ある意味“避難”だった」
「私は、逃げたことを否定しない」
「でも、これからは――歩いていきたい」
「自分の名前で、生きていきたい」
◇◆◇
それは、ある種の“卒業”だった。
誰かの守りの中で生きること。
誰かの用意した空間で、ただ息をしていること。
それは“死なない”ための選択だった。
でも今、彼女は“生きる”ための選択をしようとしている。
尚也は、コーヒーを口に運び、小さく頷いた。
「……行こう」
「俺も一緒に行く」
澪が静かに微笑んだ。
「それは、嬉しい」
「でも、これは“私だけの旅”なんだと思う」
「あなたは、あなたで“新しい時間”を選んでほしい」
「私たちはもう、誰かの“依存先”じゃない」
「だからこそ、また出会えると信じられる」
◇◆◇
午後。
澪は、別荘の部屋をひとつひとつ歩いていた。
手にしたカメラのシャッターを、静かに切っていく。
柱の傷。
陽だまりの机。
古びた階段。
どれも誰かの記憶じゃない。
この数週間、彼女自身が見て、触れて、選び取った景色たち。
それは証拠でも、記録でもない。
ただの“彼女の目”に映った風景。
(私はもう、“見られる存在”じゃない)
(私は、見る側になった)
(この世界を、自分のレンズで)
日が傾き始めるころ、尚也は山道へ車を出した。
荷物はほとんどない。
澪のリュックに入っていたのは、衣服とカメラとノートだけ。
USBはない。
記憶媒体も、研究資料も、もう持っていない。
それでも、胸の内には確かな輪郭があった。
(“私”という存在の、かたち)
(それがいま、ちゃんとここにある)
山道を抜け、バス停の前で車が止まる。
澪はドアを開け、風を感じる。
空は晴れ、青が深く透き通っていた。
◇◆◇
尚也が静かに言う。
「いつか、どこかで――また呼んでもいいかな」
澪はふと笑った。
「うん」
「そのときは、ちゃんと“澪”として応える」
「……でも、今は私から離れてみる」
「“澪”という名前に、私だけの意味を込めるために」
バスがやってきた。
古びた車体に、小さなエンジン音。
澪はリュックを背負い、振り返らずに乗り込んだ。
◇◆◇
走り出すバスの中。
窓の外を眺めながら、澪はノートを取り出す。
鉛筆を走らせる。
その文字は、揺れながらも、はっきりとしていた。
《名前は、誰かに与えられるものではない》
《名前は、自分の歩いた日々で“育っていく”》
《私は、澪》
《もう迷わない》
別荘へ戻る山道。
尚也は一人、静かに運転していた。
助手席には、何もいない。
でも、その空席には、確かに“温もり”が残っていた。
風が窓を叩く。
木々が揺れる。
彼の耳に、かすかに澪の声が届く気がした。
“ありがとう”
“またね”
その言葉に、彼はハンドルを握る手を少し強くした。
(これでいい)
(これが、彼女の旅立ち)
(そして、俺の新しい始まり)
車は静かに、霧の中を走り続けた。
――物語、完結。
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