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【第19話】名前のある夜
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月が、雲の切れ間からひょっこりと顔を出していた。
薄い光が、山間の別荘をぼんやりと照らしている。
音はない。
風も、虫の声も、遠く消えていた。
静寂というより、無音のぬくもりだった。
澪は縁側に座っていた。
裸足の足先が、木の床をそっと撫でる。
シャツの袖を少しまくって、首を空へ向けた。
(こんな夜、あっただろうか)
(いつも何かから逃げていた。誰かに見られていた)
(それが今は、ない)
(誰にも見られていない。誰も私を、分類していない)
(私はただ、“ここにいる”)
そのことが、今はただ嬉しかった。
何が変わったのか、はっきりとは分からない。
けれど心の奥が、ほんの少し、ゆるんでいた。
まるで、少し冷えた布団に潜り込むときのように。
家の中から、湯が沸く音が聞こえた。
尚也が、小さな鍋でお茶を淹れている。
澪は何も言わず、それを聞いていた。
(不思議だ)
(この音が、こんなにも心を落ち着けるなんて)
(人のいる生活)
(それは、単に“誰かがいる”ということじゃない)
(静かに、呼吸が寄り添ってくること)
(日々の隙間に、誰かの音が重なること)
◇◆◇
尚也が湯呑を二つ手に、縁側へ出てきた。
片方をそっと差し出す。
白い湯気が、月明かりの下で揺れていた。
「今日は冷えるね」
「……うん。でも、気持ちは温かい」
そう言って、澪は湯呑を両手で包む。
尚也は、その横に腰を下ろした。
二人の間に、数十センチの静寂。
でもその距離は、遠くなかった。
むしろ、心の底では繋がっていた。
「名前って、何だろうね」
澪がぽつりと言った。
尚也は答えず、目を細めた。
「子どものころ、自分の名前があまり好きじゃなかった」
「変わってるって、からかわれたりして」
「でもね、あるとき、おじいちゃんに言われたの」
“名前はな、自分で育てていくもんなんだ”って。
“最初は親がくれるけど、あとはお前がその名前に意味を足していくんだ”って。
澪はそれを聞きながら、目を伏せた。
「私には……最初の名前すら、なかった」
「ある日突然、“MN-04”と呼ばれて、それが自分だと教えられて」
「その頃の私は、ただの“箱”だったと思う」
「誰かがデータを入れれば、私は話した」
「誰かが反応を期待すれば、私は微笑んだ」
「でもそれは、“私”じゃなかった」
「ただ、“答えの装置”だった」
◇◆◇
沈黙。
夜の空気が、ゆっくりと二人の体を包む。
そして、澪は続けた。
「澪という名前をもらったとき、最初は戸惑った」
「それが“由衣さん”から来てると知ったときは、さらに混乱した」
「私は彼女の代わりなのか。
それとも彼女の願いを継ぐ“道具”なのか――って」
「でも今は、少しだけ思える」
「“澪”という名前は、彼女がくれたのかもしれない」
「でも、私はそれを“自分の言葉”で呼べるようになった」
「私は、澪です」
「――ようやく、そう言える」
尚也が、湯呑を持ち直した。
「最初に、君を“澪”と呼んだとき……正直、怖かった」
「自分が誰かを失った代わりに、君を見ていたんじゃないかって」
「でも今は違う」
「君は、誰の代わりでもない」
「澪として、俺の目の前にいる」
「それだけで、十分だ」
その言葉が、澪の胸に染み込んでいく。
まるで、言葉が体温を持っていたかのように。
しばらく二人は、黙ってお茶をすすっていた。
夜は深まり、月は少しずつ高くのぼっていた。
風が通る。
澪の髪がふわりと舞う。
そのとき、尚也がそっと言った。
「名前ってさ、呼ばれるものでもあるけど――
誰かを呼ぶためのものでもあるんだと思う」
「だから、君が“澪”として生きるって決めたなら――
その名前を、これからも俺が呼んでいく」
「何度でも」
澪の目に、うっすらと光が宿る。
笑っているのか、泣いているのか、自分でも分からなかった。
でも、確かに胸の奥があたたかくなっていた。
(誰かが、自分の名前を呼んでくれる)
(それだけで、人は“ここにいていい”と思える)
(私は、いま、確かに“生きてる”)
◇◆◇
夜が完全に落ち、空が星を宿し始めた。
風はやや冷たく、でも刺すような寒さではない。
澪は湯呑を手放し、ゆっくりと立ち上がった。
そして、尚也のほうへ手を差し出す。
「……ねえ」
「今夜だけは、隣で寝てもいいですか」
その言葉に、尚也は驚いた顔をした。
けれどすぐに、頷いた。
「もちろん」
(守るだけじゃない)
(寄り添う)
(支えるだけじゃない)
(支えられる)
それが、“一緒に生きる”ということだと思った。
やがて、布団に入った二人。
灯りはすべて消され、闇のなかで小さな呼吸音が交差する。
どちらからともなく、手が触れた。
その手は、過去を求めていない。
未来を誓うわけでもない。
ただ、今ここに“誰かがいる”ことを確かめるための温度だった。
やがて澪が、小さな声で言った。
「……ありがとう」
尚也が囁く。
「なにが?」
「“澪”って、呼んでくれて」
「その名前が、ようやく私の“音”になったから」
「名前に……色がついた気がする」
「今夜は、それが嬉しい」
その言葉を聞いて、尚也もまた、そっと微笑んだ。
ふたりのあいだの闇が、深く、あたたかくなる。
夜は静かに、更けていく。
追われることのない、最初の夜だった。
名前に守られた、優しい夜だった。
薄い光が、山間の別荘をぼんやりと照らしている。
音はない。
風も、虫の声も、遠く消えていた。
静寂というより、無音のぬくもりだった。
澪は縁側に座っていた。
裸足の足先が、木の床をそっと撫でる。
シャツの袖を少しまくって、首を空へ向けた。
(こんな夜、あっただろうか)
(いつも何かから逃げていた。誰かに見られていた)
(それが今は、ない)
(誰にも見られていない。誰も私を、分類していない)
(私はただ、“ここにいる”)
そのことが、今はただ嬉しかった。
何が変わったのか、はっきりとは分からない。
けれど心の奥が、ほんの少し、ゆるんでいた。
まるで、少し冷えた布団に潜り込むときのように。
家の中から、湯が沸く音が聞こえた。
尚也が、小さな鍋でお茶を淹れている。
澪は何も言わず、それを聞いていた。
(不思議だ)
(この音が、こんなにも心を落ち着けるなんて)
(人のいる生活)
(それは、単に“誰かがいる”ということじゃない)
(静かに、呼吸が寄り添ってくること)
(日々の隙間に、誰かの音が重なること)
◇◆◇
尚也が湯呑を二つ手に、縁側へ出てきた。
片方をそっと差し出す。
白い湯気が、月明かりの下で揺れていた。
「今日は冷えるね」
「……うん。でも、気持ちは温かい」
そう言って、澪は湯呑を両手で包む。
尚也は、その横に腰を下ろした。
二人の間に、数十センチの静寂。
でもその距離は、遠くなかった。
むしろ、心の底では繋がっていた。
「名前って、何だろうね」
澪がぽつりと言った。
尚也は答えず、目を細めた。
「子どものころ、自分の名前があまり好きじゃなかった」
「変わってるって、からかわれたりして」
「でもね、あるとき、おじいちゃんに言われたの」
“名前はな、自分で育てていくもんなんだ”って。
“最初は親がくれるけど、あとはお前がその名前に意味を足していくんだ”って。
澪はそれを聞きながら、目を伏せた。
「私には……最初の名前すら、なかった」
「ある日突然、“MN-04”と呼ばれて、それが自分だと教えられて」
「その頃の私は、ただの“箱”だったと思う」
「誰かがデータを入れれば、私は話した」
「誰かが反応を期待すれば、私は微笑んだ」
「でもそれは、“私”じゃなかった」
「ただ、“答えの装置”だった」
◇◆◇
沈黙。
夜の空気が、ゆっくりと二人の体を包む。
そして、澪は続けた。
「澪という名前をもらったとき、最初は戸惑った」
「それが“由衣さん”から来てると知ったときは、さらに混乱した」
「私は彼女の代わりなのか。
それとも彼女の願いを継ぐ“道具”なのか――って」
「でも今は、少しだけ思える」
「“澪”という名前は、彼女がくれたのかもしれない」
「でも、私はそれを“自分の言葉”で呼べるようになった」
「私は、澪です」
「――ようやく、そう言える」
尚也が、湯呑を持ち直した。
「最初に、君を“澪”と呼んだとき……正直、怖かった」
「自分が誰かを失った代わりに、君を見ていたんじゃないかって」
「でも今は違う」
「君は、誰の代わりでもない」
「澪として、俺の目の前にいる」
「それだけで、十分だ」
その言葉が、澪の胸に染み込んでいく。
まるで、言葉が体温を持っていたかのように。
しばらく二人は、黙ってお茶をすすっていた。
夜は深まり、月は少しずつ高くのぼっていた。
風が通る。
澪の髪がふわりと舞う。
そのとき、尚也がそっと言った。
「名前ってさ、呼ばれるものでもあるけど――
誰かを呼ぶためのものでもあるんだと思う」
「だから、君が“澪”として生きるって決めたなら――
その名前を、これからも俺が呼んでいく」
「何度でも」
澪の目に、うっすらと光が宿る。
笑っているのか、泣いているのか、自分でも分からなかった。
でも、確かに胸の奥があたたかくなっていた。
(誰かが、自分の名前を呼んでくれる)
(それだけで、人は“ここにいていい”と思える)
(私は、いま、確かに“生きてる”)
◇◆◇
夜が完全に落ち、空が星を宿し始めた。
風はやや冷たく、でも刺すような寒さではない。
澪は湯呑を手放し、ゆっくりと立ち上がった。
そして、尚也のほうへ手を差し出す。
「……ねえ」
「今夜だけは、隣で寝てもいいですか」
その言葉に、尚也は驚いた顔をした。
けれどすぐに、頷いた。
「もちろん」
(守るだけじゃない)
(寄り添う)
(支えるだけじゃない)
(支えられる)
それが、“一緒に生きる”ということだと思った。
やがて、布団に入った二人。
灯りはすべて消され、闇のなかで小さな呼吸音が交差する。
どちらからともなく、手が触れた。
その手は、過去を求めていない。
未来を誓うわけでもない。
ただ、今ここに“誰かがいる”ことを確かめるための温度だった。
やがて澪が、小さな声で言った。
「……ありがとう」
尚也が囁く。
「なにが?」
「“澪”って、呼んでくれて」
「その名前が、ようやく私の“音”になったから」
「名前に……色がついた気がする」
「今夜は、それが嬉しい」
その言葉を聞いて、尚也もまた、そっと微笑んだ。
ふたりのあいだの闇が、深く、あたたかくなる。
夜は静かに、更けていく。
追われることのない、最初の夜だった。
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