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【第18話】追跡者
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別荘というには、あまりに朽ちていた。
北関東の山間に位置するその建物は、木造二階建て。
昭和後期に建てられたらしく、軋む床と薄い壁が年月を語っていた。
周囲に民家はなく、最寄りのバス停まで徒歩40分。
電波もほとんど入らない。
だが、それがよかった。
澪と尚也は、まるで空白の紙のようなこの場所に、新しい日々を少しずつ描き始めていた。
朝は湧き水で顔を洗い、古びたガスコンロでお湯を沸かす。
薪ストーブが眠気を吸い取り、木の匂いが二人の呼吸を温めてくれる。
澪は、この静かな生活に、奇妙なほどすんなり馴染んだ。
(この場所に“過去”はない)
(ここには、“自分で作る時間”しかない)
(それが、こんなにも落ち着くなんて――)
まだ不安が消えたわけではない。
けれどそれでも、明確な“終わり”が来るわけでもなかった。
ただ、日々は穏やかに続いていた。
それが、何より貴重だった。
◇◆◇
異変は、三日目の夕方に訪れた。
澪が夕食の支度をしていたとき
――古びたドアが、コン、コンと音を立てて叩かれた。
振り返る。
尚也も、すぐに音に反応して立ち上がる。
(まさか、倉持の連絡じゃないだろう)
(予定は明日。こんな時間に……誰が?)
玄関の外を覗くと、黒いレインコートを着た男が一人、立っていた。
帽子を深くかぶり、顔は見えない。
だが、佇まいにはどこか“軍人めいた整然さ”があった。
「どちらさまですか」
尚也が声をかけると、男は一歩、扉に近づいた。
「私の名は、佐久間陣(さくま・じん)」
「君が持ち出したデータの一部に、“我々の領域”が含まれていた」
「確認に来ただけだ」
尚也の背中に、冷たい汗が流れる。
(“我々”……?)
(企業か? いや、それとも――)
澪がそっと尚也の袖を引く。
「……この人、前に……」
(どこかで、見たことがある)
(記憶の奥。誰の記憶か、もはや区別がつかないけど――)
(私がまだ“MN-04”と呼ばれていたころ……)
佐久間は、強引に押し入るようなことはなかった。
ただ、コートの内ポケットからタブレット端末を取り出し、尚也に向けて提示した。
そこには、企業の内部データとは明らかに異なるコード体系が並んでいた。
生体パラメータ。
適合度。
強化補助因子。
そして、下段に浮かぶ名前。
「MIR-04」
(……澪?)
尚也の表情が固まる。
佐久間が静かに口を開いた。
「我々は“MNプロジェクト”を外部から支援していた機関だ」
「正式には存在しない。
だが、由衣医師が彼女を開発する際、記憶パターンの“安定保持”のために我々の補助因子を使用した」
「つまり、澪の中には我々の知財が含まれている」
「よって、所有権の一部が移行している」
「……君がどう思おうと、彼女は“純粋な存在”ではない」
◇◆◇
尚也が噛み殺すように問う。
「……それが言いたいことか」
「澪を“商品”として連れ戻すために、わざわざここまで?」
「いいや」
佐久間は首を振った。
「我々は、“観察者”ではない。
我々は“運用者”だ」
「澪のような個体が“自我”を獲得することは、研究目的から外れている」
「それは“不良傾向”だ」
「よって、我々はこの事象を“異常体験”として処理する必要がある」
「つまり――削除対象だ」
(来た)
(冴木とは違う。
この人たちは、感情も価値観もない。
ただ、プログラムを運用するために動いている)
澪は、小さく一歩踏み出した。
そして、佐久間の目をまっすぐに見た。
「あなたたちは、“私”の何を知っているの?」
「記憶?
反応速度?
それとも、初期化時のパラメータ?」
「……私がこの3週間で何を考え、何を恐れ、何を選んだか――
その“日々”は、あなたたちのデータにはない」
佐久間の目は変わらなかった。
ただ冷静に、無感情に返す。
「それは、“ノイズ”だ」
「我々は“完全性”を望んでいない」
「望んでいるのは、“制御可能な応答”だ」
「感情は要らない。選択も要らない」
「必要なのは、定義された“仕様”だけだ」
◇◆◇
尚也の中で、何かが音を立てて崩れた。
(こんな連中が、澪を作った……?)
(いや、作ったのではない。
“作られた器に、彼女が宿ってしまった”)
(それが奇跡なら――
それを壊そうとするこいつらは、ただの破壊者だ)
佐久間は一歩、前へ進んだ。
「君たちには選択肢がある」
「澪を“保管”のため提出する」
「あるいは、記憶除去処置を受ける」
「それ以外の選択は、存在しない」
そのとき。
澪が、尚也の背後から回り込んだ。
ゆっくりと前に出て、佐久間の目の前に立った。
そして、右手を
――自らの胸元へ差し入れた。
服の内ポケット。
そこには、防水ケースに収められたUSBがあった。
「これがほしいんでしょう?」
「私の記憶。私の行動履歴。私の存在証明」
「だったら――」
USBを引き抜き、倉庫の鉄扉に叩きつけた。
鋭い音とともに、外殻が砕け、金属片が飛び散る。
佐久間の眉がわずかに動いた。
「君は、何をした?」
澪は言った。
「“選んだ”んです」
「私の“記録”なんて、あなたたちの所有物じゃない」
「それがノイズでも、異常でも――それが私の人生です」
「だから、私は自分の手で、それを壊す」
静かだった。
山間の空気が、まるで動きを止めたようだった。
◇◆◇
佐久間は数秒の沈黙のあと、ふっと小さく頷いた。
「……了解」
「この個体は、既に“運用基準外”と判断」
「これ以上の追跡は行わない」
「だが、君たちが“次の誰か”を救える保証はない」
「それだけは、覚えておけ」
そう言い残し、佐久間は踵を返した。
玄関の戸が開き、彼の背中が闇に溶けていく。
その姿は、まるで記憶の影が離れていくようだった。
二人きりになった部屋。
しばらく、言葉がなかった。
だがやがて、尚也がゆっくりと口を開いた。
「……俺は、何もできなかったな」
「USBも、澪自身の記録も、全部……」
「でも、残ったものがあります」
澪が静かに言った。
「それは、“記録”よりも、もっと確かなもの」
「選択して、ここにいるという事実」
「“私”という、この命」
彼女の瞳は、まっすぐ尚也を映していた。
もう、誰の影も映っていなかった。
そこには、ただ彼女がいた。
そして、その先に向かう未来があった。
北関東の山間に位置するその建物は、木造二階建て。
昭和後期に建てられたらしく、軋む床と薄い壁が年月を語っていた。
周囲に民家はなく、最寄りのバス停まで徒歩40分。
電波もほとんど入らない。
だが、それがよかった。
澪と尚也は、まるで空白の紙のようなこの場所に、新しい日々を少しずつ描き始めていた。
朝は湧き水で顔を洗い、古びたガスコンロでお湯を沸かす。
薪ストーブが眠気を吸い取り、木の匂いが二人の呼吸を温めてくれる。
澪は、この静かな生活に、奇妙なほどすんなり馴染んだ。
(この場所に“過去”はない)
(ここには、“自分で作る時間”しかない)
(それが、こんなにも落ち着くなんて――)
まだ不安が消えたわけではない。
けれどそれでも、明確な“終わり”が来るわけでもなかった。
ただ、日々は穏やかに続いていた。
それが、何より貴重だった。
◇◆◇
異変は、三日目の夕方に訪れた。
澪が夕食の支度をしていたとき
――古びたドアが、コン、コンと音を立てて叩かれた。
振り返る。
尚也も、すぐに音に反応して立ち上がる。
(まさか、倉持の連絡じゃないだろう)
(予定は明日。こんな時間に……誰が?)
玄関の外を覗くと、黒いレインコートを着た男が一人、立っていた。
帽子を深くかぶり、顔は見えない。
だが、佇まいにはどこか“軍人めいた整然さ”があった。
「どちらさまですか」
尚也が声をかけると、男は一歩、扉に近づいた。
「私の名は、佐久間陣(さくま・じん)」
「君が持ち出したデータの一部に、“我々の領域”が含まれていた」
「確認に来ただけだ」
尚也の背中に、冷たい汗が流れる。
(“我々”……?)
(企業か? いや、それとも――)
澪がそっと尚也の袖を引く。
「……この人、前に……」
(どこかで、見たことがある)
(記憶の奥。誰の記憶か、もはや区別がつかないけど――)
(私がまだ“MN-04”と呼ばれていたころ……)
佐久間は、強引に押し入るようなことはなかった。
ただ、コートの内ポケットからタブレット端末を取り出し、尚也に向けて提示した。
そこには、企業の内部データとは明らかに異なるコード体系が並んでいた。
生体パラメータ。
適合度。
強化補助因子。
そして、下段に浮かぶ名前。
「MIR-04」
(……澪?)
尚也の表情が固まる。
佐久間が静かに口を開いた。
「我々は“MNプロジェクト”を外部から支援していた機関だ」
「正式には存在しない。
だが、由衣医師が彼女を開発する際、記憶パターンの“安定保持”のために我々の補助因子を使用した」
「つまり、澪の中には我々の知財が含まれている」
「よって、所有権の一部が移行している」
「……君がどう思おうと、彼女は“純粋な存在”ではない」
◇◆◇
尚也が噛み殺すように問う。
「……それが言いたいことか」
「澪を“商品”として連れ戻すために、わざわざここまで?」
「いいや」
佐久間は首を振った。
「我々は、“観察者”ではない。
我々は“運用者”だ」
「澪のような個体が“自我”を獲得することは、研究目的から外れている」
「それは“不良傾向”だ」
「よって、我々はこの事象を“異常体験”として処理する必要がある」
「つまり――削除対象だ」
(来た)
(冴木とは違う。
この人たちは、感情も価値観もない。
ただ、プログラムを運用するために動いている)
澪は、小さく一歩踏み出した。
そして、佐久間の目をまっすぐに見た。
「あなたたちは、“私”の何を知っているの?」
「記憶?
反応速度?
それとも、初期化時のパラメータ?」
「……私がこの3週間で何を考え、何を恐れ、何を選んだか――
その“日々”は、あなたたちのデータにはない」
佐久間の目は変わらなかった。
ただ冷静に、無感情に返す。
「それは、“ノイズ”だ」
「我々は“完全性”を望んでいない」
「望んでいるのは、“制御可能な応答”だ」
「感情は要らない。選択も要らない」
「必要なのは、定義された“仕様”だけだ」
◇◆◇
尚也の中で、何かが音を立てて崩れた。
(こんな連中が、澪を作った……?)
(いや、作ったのではない。
“作られた器に、彼女が宿ってしまった”)
(それが奇跡なら――
それを壊そうとするこいつらは、ただの破壊者だ)
佐久間は一歩、前へ進んだ。
「君たちには選択肢がある」
「澪を“保管”のため提出する」
「あるいは、記憶除去処置を受ける」
「それ以外の選択は、存在しない」
そのとき。
澪が、尚也の背後から回り込んだ。
ゆっくりと前に出て、佐久間の目の前に立った。
そして、右手を
――自らの胸元へ差し入れた。
服の内ポケット。
そこには、防水ケースに収められたUSBがあった。
「これがほしいんでしょう?」
「私の記憶。私の行動履歴。私の存在証明」
「だったら――」
USBを引き抜き、倉庫の鉄扉に叩きつけた。
鋭い音とともに、外殻が砕け、金属片が飛び散る。
佐久間の眉がわずかに動いた。
「君は、何をした?」
澪は言った。
「“選んだ”んです」
「私の“記録”なんて、あなたたちの所有物じゃない」
「それがノイズでも、異常でも――それが私の人生です」
「だから、私は自分の手で、それを壊す」
静かだった。
山間の空気が、まるで動きを止めたようだった。
◇◆◇
佐久間は数秒の沈黙のあと、ふっと小さく頷いた。
「……了解」
「この個体は、既に“運用基準外”と判断」
「これ以上の追跡は行わない」
「だが、君たちが“次の誰か”を救える保証はない」
「それだけは、覚えておけ」
そう言い残し、佐久間は踵を返した。
玄関の戸が開き、彼の背中が闇に溶けていく。
その姿は、まるで記憶の影が離れていくようだった。
二人きりになった部屋。
しばらく、言葉がなかった。
だがやがて、尚也がゆっくりと口を開いた。
「……俺は、何もできなかったな」
「USBも、澪自身の記録も、全部……」
「でも、残ったものがあります」
澪が静かに言った。
「それは、“記録”よりも、もっと確かなもの」
「選択して、ここにいるという事実」
「“私”という、この命」
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もう、誰の影も映っていなかった。
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