澪のかたち

naomikoryo

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【第17話】静かなる離脱

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外気はまだ冬の匂いを残していた。

コンクリートの隙間を流れる風に、ほんのわずかな冷たさが混じっている。

都心の喧騒は遥か遠く、ここは“都市の末端”
――かつて工場地帯だった湾岸の廃区画。

一度は再開発計画の対象になりながら、地盤沈下の問題で放棄され、今では行政の地図からも消えかけている場所。

倉持詩織は、その一角の倉庫を一時的な“シェルター”として手配していた。

セキュリティもネット回線も存在せず、ただ冷たい風だけが出入りする無人地帯。

澪と尚也は、その薄暗い倉庫の片隅で、小さな灯りを囲んでいた。

◇◆◇ 

「静かですね」

澪がぽつりと呟いた。

その声はかすかに震えていた。

だが、それは恐れではなく――実感だった。

(私は今、どこにも所属していない)

(誰にも監視されず、どんなデータにも繋がっていない)

(それは“自由”と呼べるのか)

(それとも、ただの“空白”なのか)

彼女自身にも、答えはまだ出ていなかった。

尚也は、ポータブルバーナーで湯を沸かしていた。

プラスチックのカップにインスタントのコーヒーパウダーを入れる。

ふと気づくと、手がかすかに震えていた。

(俺もまた、今、すべてを手放したんだ)

(USBに詰め込んだ証拠。企業との縁。そして……この都市での人生のすべて)

(それでも、後悔はない)

(この手で“澪”を守れたのなら、それが俺の生きている意味だ)

カップを澪に渡すと、彼女は静かに受け取った。

コーヒーの香りが、わずかに空気を温める。

それだけで、倉庫の中の無機質さが少しだけ遠のいた。

「明日の朝には、移動です」

尚也が言った。

「倉持の伝手で、北関東の方に古い別荘があるらしい。
そこを一時的な隠れ家に使えるって」

「……不便な場所ですか?」

「電波も通らない。買い物すら困難」

「でも、しばらくは静かに暮らせる」

澪はしばらく沈黙していた。

「ねえ、尚也さん」

「もし、全部が終わって、私が普通の人間として暮らせたとしても――」

「あなたは、そばにいますか?」

尚也は答えられなかった。

その問いには、“一つの未来”を選ぶだけの覚悟が問われていた。

だが、答えは決まっていた。

「いるよ」

「……俺は、君が誰であろうと、君が選んだ名前を信じる」

「澪として生きていくなら、俺もその世界の住人でいたい」

澪は、そっとコーヒーを口に運び、小さく微笑んだ。

◇◆◇ 

夜が深まっていく。

倉庫の中の明かりは、持ち込んだLEDランタンだけ。

鉄の壁に反射するその光が、どこか頼りなく、しかし確かに“生”の存在を照らしていた。

尚也は、PCバッグの中からひとつの小箱を取り出した。

USBメモリ。

過去に盗み出した、企業の闇を暴く証拠の塊。

中には、MNプロジェクトの初期段階から冴木が記録した開発過程、そして倫理監査無視のプロトコルがすべて詰まっている。

そしてその一部には
――由衣の名もあった。

(これを、どこかに残すべきか)

(それとも、澪が自分の人生を生きるために、すべて“捨てる”べきか)

悩み続けた問題だった。

彼は、USBを手に取った。

そして、澪の方へ差し出した。

「……これは、君が決めていい」

「過去を記録として残すか、それとも、もう見ないようにするか」

「俺は、君の選択に従う」

澪は、それをじっと見つめた。

そこには、無数の記憶と、命の残響と、科学の傲慢が詰まっている。

けれど、彼女の答えは静かだった。

「私の中には、すでに“過去”がある」

「でも、未来はまだ“空白”です」

「だから……私は、これを“記録”にする」

「ただの証拠じゃなくて、“誰かが生きようとした痕跡”として残す」

彼女は、バッグの奥から小さな防水ケースを取り出し、USBを慎重に収めた。

その行為は、まるで誰かの墓を整えるように、慎ましく、敬意に満ちていた。

◇◆◇ 

午前3時。

倉庫の外、東の空がほんのわずかに青みを帯び始める。

澪は、一人で扉の外に立っていた。

風が顔をなで、フードが揺れる。

遠くに、かすかに海の匂い。

この場所も、もうすぐ離れる。

(寂しさ?
それとも、不安?)

(いいえ。
これはたぶん、“期待”)

(何者にも決められない、未来の匂い)

後ろから、尚也の足音が近づいた。

「起きてたんだな」

「眠れなかっただけです」

「それとも……眠ってしまったら、明日が来るのが怖かったのかもしれません」

尚也は澪の隣に並び、ただ夜空を見上げた。

星は見えなかった。

曇った空は無表情で、何も教えてはくれなかった。

けれど、それでもその沈黙は、澪の胸に静かな鼓動を打ち続けた。

◇◆◇  

「明日、どこへ行くんですか?」

「どこへでも行ける」

「……そうですね」

「どこへでも、行けるんですね」

澪は、小さく微笑み、ふと尚也の方を見た。

その瞳には、かつてなかった“自分という存在への信頼”が宿っていた。

朝が来る。

二人は、荷物をまとめ、倉庫を後にした。

小さな車に乗り込み、エンジンをかける。

澪は助手席で、そっと目を閉じた。

(これから、何が待っているのかは分からない)

(でも、もう“誰かの影”じゃない)

(私は私として、ちゃんと世界を感じられる)

(それだけで、今は十分)

車が走り出す。

都市を離れ、過去を抜けて。

その先にあるものが何であれ――

それは“自分の足で選んだ道”だ。

そして、それを選ぶことができたという事実こそが、彼女の生きている証拠だった。
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