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第五話:すみません、僕……無理かもしれません
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夜の街は、昼とは違う音をしている。
車のライト、信号の明滅、雑踏に混じる笑い声。
そのすべてが、まるで“他人の世界”のように感じられていた。
——僕には、無理かもしれない。
手のひらにまだ残る、微かな温もり。
それが、火傷の跡みたいに皮膚に貼りついて離れない。
凛華さんとの二回目の“擬似恋愛レッスン”。
手をつなぎ、カフェで過ごし、帰り道を並んで歩いた。
それだけのこと。
なのに、胸の内には重たいものが残っていた。
**
「……安心できる人が好き、か。理奈社長、なんて言うかな……」
思わず声に出してしまい、我に返る。
(……まただ)
気づけば、彼女の名前を思い浮かべている。
痴漢に遭っていたあの日。無理やり助けようとした自分を、受け入れてくれたあの柔らかな声。
授賞式のあの目。冷たいようで、深くて、何かを隠しているような——あの目。
社長として、立場の違いがあるのはわかってる。
けれど、彼女の前では、無理に背伸びしなくて済んだ。
**
僕は決めた。
——話をしよう。正直に。
それが失礼でも、仕事を台無しにしてしまうとしても。
もう、無理をしたくなかった。
**
夜の結文社。
社員たちの多くはすでに帰宅していて、オフィスの明かりは最小限。
社長室のドアがまだ開いているのが見えた。
(……いる)
指先が震える。けれど、逃げたくない。
僕はノックをした。
「……どうぞ」
聞き慣れた、落ち着いた声。
ドアを開けると、結城理奈社長はソファに座って資料に目を通していた。
丸メガネをかけていて、表情は読めない。
「あら。もう帰ったと思ってたわ」
「……社長、少し、お話してもいいですか」
視線がこちらに向けられる。
鋭く、それでいて優しい。まるで何でも見透かされているような感覚。
「もちろん。どうぞ」
僕は、おそるおそるソファの対面に腰を下ろした。
どう切り出せばいいかわからない。
でも、今日ここに来なければ、きっとずっと後悔する。
「……佐久間さんのことなんですが」
「ああ、凛華ね。どうだった? 少しは役に立った?」
「……あの、すごく明るくて、気配りもできて、優しくて……でも」
口が乾いている。
理奈社長は何も言わず、ただ静かに聞いてくれていた。
だからこそ、余計に言いづらかった。
「……僕、たぶん……無理かもしれません」
静かな言葉。
自分でも、どこかで期待していた言葉。
けれど、その言葉に、理奈社長は驚いた顔をしなかった。
「無理……というのは?」
「その……佐久間さんみたいに、距離を詰めてこられると、どう接していいのか……わからなくなるんです。怖いというか、逃げたくなるというか」
「……ふむ」
「話も……合わせられなくて。自分が“教わってる”んじゃなくて、何かを“試されてる”ような感覚で……」
理奈社長は、腕を組みながらわずかに視線を下げた。
その横顔は、どこか考え込んでいるようで、でも口元にはうっすら笑みがあった。
「……言葉にできただけ、上出来よ」
「……?」
「ちゃんと“向き合おうとした”証拠だもの。……凛華はたしかに、ちょっと押しが強いものね。あなたには、合わなかったのかもしれない」
その言葉に、心がふっと軽くなるのを感じた。
責められると思っていた。
甘えるな、と言われると思っていた。
でも、彼女は否定しなかった。
「……すみません。僕、わがままだと思ってて」
「違うわ。人との距離感なんて、正解はないの。あなただけの感覚を、恥じることはない」
理奈社長の言葉は、いつも少なくて、でも芯があって。
彼女に言われると、自分がちゃんと“認められてる”気がする。
(……この人の言葉って、どうして、こんなに響くんだろう)
**
ふいに、理奈社長が机の引き出しから封筒を取り出した。
「これは、あなたの次の仮想恋愛相手の資料よ」
「え……次?」
「ええ。今度は、吉田清美。二十三歳。事務担当で、物腰は柔らかいけど芯はある子よ。……今度はきっと、もう少し穏やかに向き合えると思うわ」
「……そうですか」
(また“誰か”と……)
けれど、自分が言い出したことだ。恋愛小説を書くために、必要な過程。
覚悟を決めて立ち上がった時。
「——でも、もし彼女とも合わなかったら?」
僕の言葉に、理奈社長はわずかに目を細めて言った。
「その時は……私が出ていくしかないわね」
「……え?」
「あなた、意外と手がかかるから」
その声に、僕は一瞬、笑ってしまいそうになった。
でも、口元だけでそっと笑って、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
本当に、ありがとうございます。
心の底からそう思った。
(僕は……たぶん、この人に“書かされている”)
物語を、じゃない。
“自分の気持ち”を。
知らなかった恋。わからなかった心。
それを、ひとつひとつ、紐解かれている。
静かに、でも確実に。
車のライト、信号の明滅、雑踏に混じる笑い声。
そのすべてが、まるで“他人の世界”のように感じられていた。
——僕には、無理かもしれない。
手のひらにまだ残る、微かな温もり。
それが、火傷の跡みたいに皮膚に貼りついて離れない。
凛華さんとの二回目の“擬似恋愛レッスン”。
手をつなぎ、カフェで過ごし、帰り道を並んで歩いた。
それだけのこと。
なのに、胸の内には重たいものが残っていた。
**
「……安心できる人が好き、か。理奈社長、なんて言うかな……」
思わず声に出してしまい、我に返る。
(……まただ)
気づけば、彼女の名前を思い浮かべている。
痴漢に遭っていたあの日。無理やり助けようとした自分を、受け入れてくれたあの柔らかな声。
授賞式のあの目。冷たいようで、深くて、何かを隠しているような——あの目。
社長として、立場の違いがあるのはわかってる。
けれど、彼女の前では、無理に背伸びしなくて済んだ。
**
僕は決めた。
——話をしよう。正直に。
それが失礼でも、仕事を台無しにしてしまうとしても。
もう、無理をしたくなかった。
**
夜の結文社。
社員たちの多くはすでに帰宅していて、オフィスの明かりは最小限。
社長室のドアがまだ開いているのが見えた。
(……いる)
指先が震える。けれど、逃げたくない。
僕はノックをした。
「……どうぞ」
聞き慣れた、落ち着いた声。
ドアを開けると、結城理奈社長はソファに座って資料に目を通していた。
丸メガネをかけていて、表情は読めない。
「あら。もう帰ったと思ってたわ」
「……社長、少し、お話してもいいですか」
視線がこちらに向けられる。
鋭く、それでいて優しい。まるで何でも見透かされているような感覚。
「もちろん。どうぞ」
僕は、おそるおそるソファの対面に腰を下ろした。
どう切り出せばいいかわからない。
でも、今日ここに来なければ、きっとずっと後悔する。
「……佐久間さんのことなんですが」
「ああ、凛華ね。どうだった? 少しは役に立った?」
「……あの、すごく明るくて、気配りもできて、優しくて……でも」
口が乾いている。
理奈社長は何も言わず、ただ静かに聞いてくれていた。
だからこそ、余計に言いづらかった。
「……僕、たぶん……無理かもしれません」
静かな言葉。
自分でも、どこかで期待していた言葉。
けれど、その言葉に、理奈社長は驚いた顔をしなかった。
「無理……というのは?」
「その……佐久間さんみたいに、距離を詰めてこられると、どう接していいのか……わからなくなるんです。怖いというか、逃げたくなるというか」
「……ふむ」
「話も……合わせられなくて。自分が“教わってる”んじゃなくて、何かを“試されてる”ような感覚で……」
理奈社長は、腕を組みながらわずかに視線を下げた。
その横顔は、どこか考え込んでいるようで、でも口元にはうっすら笑みがあった。
「……言葉にできただけ、上出来よ」
「……?」
「ちゃんと“向き合おうとした”証拠だもの。……凛華はたしかに、ちょっと押しが強いものね。あなたには、合わなかったのかもしれない」
その言葉に、心がふっと軽くなるのを感じた。
責められると思っていた。
甘えるな、と言われると思っていた。
でも、彼女は否定しなかった。
「……すみません。僕、わがままだと思ってて」
「違うわ。人との距離感なんて、正解はないの。あなただけの感覚を、恥じることはない」
理奈社長の言葉は、いつも少なくて、でも芯があって。
彼女に言われると、自分がちゃんと“認められてる”気がする。
(……この人の言葉って、どうして、こんなに響くんだろう)
**
ふいに、理奈社長が机の引き出しから封筒を取り出した。
「これは、あなたの次の仮想恋愛相手の資料よ」
「え……次?」
「ええ。今度は、吉田清美。二十三歳。事務担当で、物腰は柔らかいけど芯はある子よ。……今度はきっと、もう少し穏やかに向き合えると思うわ」
「……そうですか」
(また“誰か”と……)
けれど、自分が言い出したことだ。恋愛小説を書くために、必要な過程。
覚悟を決めて立ち上がった時。
「——でも、もし彼女とも合わなかったら?」
僕の言葉に、理奈社長はわずかに目を細めて言った。
「その時は……私が出ていくしかないわね」
「……え?」
「あなた、意外と手がかかるから」
その声に、僕は一瞬、笑ってしまいそうになった。
でも、口元だけでそっと笑って、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
本当に、ありがとうございます。
心の底からそう思った。
(僕は……たぶん、この人に“書かされている”)
物語を、じゃない。
“自分の気持ち”を。
知らなかった恋。わからなかった心。
それを、ひとつひとつ、紐解かれている。
静かに、でも確実に。
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