25歳差の恋愛指南、それは人生最大の不覚でした

naomikoryo

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第八話:ごめんなさい、社長……私、もうできません

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朝の出社前、鏡の前でいつもより時間をかけてメイクをした。

肌の赤みをコンシーラーで隠し、目元には淡いブラウンのアイシャドウ。
ぱっと見ではわからないように、昨日泣き腫らした目をどうにかごまかした。

(大丈夫。言うだけ言ったら、ちゃんと謝ろう。怒られても、笑われてもいい)

昨日の夜、自分の中で繰り返し言い聞かせた言葉だった。
でも、胸の奥はずっと冷たいままで、心のどこかではまだ“やめたい”と言えずにいた自分もいた。

それでも、今日こそは——と決めていた。

会社に着いて、デスクに荷物を置いた後、私は意を決して、社長室の前へ向かった。

ドアの前で一度深呼吸する。
ゆっくりとノックをする音が、自分でも聞こえるくらいに頼りなくて、心細かった。

「どうぞ」

ドア越しに聞こえた、落ち着いた声。

(ああ、やっぱり、綺麗な声……)

私はドアを開けた。

理奈社長は、グレーのスーツに身を包み、朝の日差しの中で書類に目を通していた。
その横顔はいつものように隙がなく、穏やかで、やっぱり少し遠かった。

「……吉田さん?」

私の顔を見て、すぐに様子が違うことに気づいたらしい。

「どうしたの? 顔、少し赤いわよ」

「……あの……すみません。お時間、少しいただいても……?」

「ええ、もちろん。座って」

ソファに腰を下ろした瞬間、緊張で膝が震えた。
指先に力が入らず、バッグを抱えたまま、何度も言葉を探した。

でも、うまく出てこなかった。

沈黙が流れる。

その沈黙に、ぽとりと涙がこぼれた。

「あ……す、すみません……」

慌ててハンカチを取り出す。けれど、涙は止まらなかった。
心が崩れる音が、自分にだけはっきり聞こえた。

理奈社長は驚いた顔を一瞬だけ見せたけれど、すぐにそっと立ち上がり、私の隣に座った。
テーブルの上のティッシュを一枚、手渡してくれる。

その仕草があまりに優しくて、余計に涙が止まらなくなった。

「……ごめんなさい……ほんとに、もう、無理です……」

なんとか、絞り出すようにそう言った。

理奈社長は、少しだけ眉をひそめた。

「純くんと……うまくいかなかった?」

私は、小さく頷いた。

「……頑張ろうとしたんです。社長にお願いされたことだし、きっと意味があるって思って……でも……」

声がかすれる。

「彼……私のこと、全然見てないんです」

「……そう」

「ちゃんと目を見て話してくれたこと、ありません。いつも下を向いてて、私が何を言っても……“はい”か“そうですね”だけで……」

言葉が途切れ、もう一度涙がこぼれた。

「……それって、ただの“取材”なんじゃないかって、思っちゃって……私、恋愛ごっこの相手にすらなれてないんだなって……」

理奈社長は、黙って聞いてくれていた。
その静けさが、逆に心地よかった。

「……そして、昨日。彼のスマホの画面が見えたんです。検索してて……“年上女性 恋愛 小説 ネタ”って」

一瞬、理奈社長の指がピクリと動いた。
でも、表情は変えなかった。

「……あ、もう、なんとなく気づいてました。彼……社長のこと、見てるんだなって」

理奈社長は、ふっと小さく息を吐いた。

「……そう、かもしれないわね」

「でも、別に……それが悪いとか、そういうんじゃなくて。私が……ただ、無理だっただけで」

私は膝の上で手を握りしめた。

「だから、申し訳ないんですけど……この“擬似恋愛レッスン”、辞退させてください。私じゃ、もう……続けられません」

**

少しの沈黙の後、理奈社長はゆっくりと頷いた。

「……わかったわ。ありがとう、吉田さん」

「……え?」

「ちゃんと、自分の気持ちを言葉にしてくれて、ありがとう。それだけで、もう十分よ」

私は驚いた。
怒られると思っていた。
せめて、“もう少し頑張ってみたら?”と言われると。

でも、社長は笑っていた。
それは、“あの時の涙”を知っている人の微笑みだった。

「……あなたは、優しすぎるのよ。きっと、“誰かのために頑張る”ことが、習慣になってるのね」

私は、少しだけ泣き笑いになった。

「社長に、そう言ってもらえて……ちょっとだけ、救われました」

「私もね、わかってるのよ。純くんのこと。あの子は……人の心に対して、まだ無自覚すぎる」

その言葉に、私はほんの少しだけ、ほっとした。

「……でも、ね」

「はい」

「きっと、あの子も、自分の中で……何かに気づきはじめてるわ」

そう言って、理奈社長は自分の左手を見下ろした。
そこには、金の結婚指輪があった。

静かに、でも確かに——心に触れる光。

私にはわからない“何か”が、そこにある気がした。

でももう、私はそこに関わるべきじゃない。

**

「……ありがとうございました、社長。ほんとに」

最後にもう一度深く頭を下げて、私は社長室を出た。

胸の奥にまだ残る痛みと、一緒に。

でも、不思議と足取りは軽かった。

私は、ちゃんと“言えた”。

もう、それでいいんだと思えた。
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