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第九話:教育係、やってもらえませんか
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社内の空調の音が、今日はやけに耳に残った。
朝の編集部はいつも通りで、誰もがパソコンに向かっていて、静かなタイピング音がリズムのように響いていた。
でも、自分だけが、どこかこの“日常”からズレてしまっているような気がしていた。
(もう……二人とも、いなくなったんだ)
佐久間さんも、吉田さんも。
僕の“擬似恋愛”の相手。
彼女たちはどちらも、僕の不器用さや鈍さに傷ついて、去っていった。
正確には、自分から逃げたのかもしれない。
“人と向き合う”という行為の重さを、僕は甘く見ていた。
(恋愛って、こんなに……苦しいんだな)
彼女たちの前では、ただ“学ぶ”だけで済むと思っていた。
でも、本当は——僕が一番、心を閉ざしていた。
向き合うべきは、他人じゃなくて、自分自身だったのに。
**
昼過ぎ。
社長室の前に立っていた。
数日前、吉田さんが泣きながらこの部屋に入っていった姿が、まだ記憶に新しい。
(……僕が、泣かせた)
そんな自覚があるからこそ、この扉の向こうに立つのが怖かった。
でも、それでも、伝えなければならないことがある。
ノックする手が震える。
でも、止めなかった。
「どうぞ」
静かな声。
相変わらず、落ち着いていて、凛としている。
ドアを開けると、結城理奈社長は、机に向かって書類に目を通していた。
視線を上げると、その目が僕を捉えた。
「……新田くん。どうしたの?」
「少し……お話、させていただいてもいいですか」
「ええ、どうぞ。座って」
椅子に腰を下ろすと、身体の重みがやけにずしりと響いた。
心まで疲れているのがわかった。
「……すみません。佐久間さんにも、吉田さんにも……僕、うまくできませんでした」
理奈社長は、静かに頷いた。
「話は聞いてるわ。……無理に、続けるものじゃないものね」
「……はい。でも」
僕は少しだけ息を飲み込んで、それから顔を上げた。
「——それでも、恋愛小説は、書きたいんです」
「……」
「だけど、もう誰かを巻き込むのは、怖い。期待させて、傷つけて、失望させるのが……嫌なんです」
理奈社長は、何も言わずに、僕の目を見ていた。
その視線が、まっすぐで、でも冷たくなくて。
だから、ちゃんと言えた。
「……だから、社長。お願いがあります」
「お願い?」
「——僕に、“恋愛”を教えてもらえませんか」
沈黙が落ちた。
社内の喧騒は遠く、時計の針の音だけがはっきり聞こえる。
「あなたが、本気でそれを言ってるのなら」
理奈社長が、静かに口を開いた。
「……簡単なことじゃないのは、わかってるのよね?」
「……はい」
「相手は、年齢も、立場も、経験も、あなたとはまるで違う。しかも、私は……“恋愛の教師”になるには、あまりにも……」
少しだけ言葉を詰まらせた。
でも、僕は頷いた。
「それでも、理奈社長に……お願いしたいんです」
「なぜ?」
「……社長だけが、僕のことを、ちゃんと“人”として見てくれたからです」
理奈社長の目が、少しだけ揺れた。
「佐久間さんは、僕を“教える対象”として扱いました。吉田さんは、“空気を読むこと”を頑張ってくれた。でも、社長だけが……僕が何も言わなくても、ちゃんと……」
言葉がうまくまとまらない。
でも、それでも、今まで言えなかったことを、今なら言える気がした。
「——怖がらずに、近づいてきてくれたんです。あの電車の中で、僕が勝手に話しかけたのに、社長は……“ありがとう”って、言ってくれた」
理奈社長は、目を閉じた。
その指先が、机の上に置かれた書類の端をそっと押さえていた。
「……ずるいわね、あなたって」
「……すみません」
「違うの。あなたの言葉じゃなくて、そのまっすぐさが……ずるいのよ」
ゆっくりと彼女は立ち上がり、窓の方へ歩いていった。
秋の光が、社長の輪郭を柔らかく包む。
「……教えるだけよ? “恋人”になるわけじゃない」
「もちろんです」
「私の言うことには、ちゃんと従うこと。反抗は、一切禁止」
「わかりました」
「週に一度、私の指定する時間に、予定を空けておくこと。取材という名の“恋愛レッスン”を行うわ」
「はい……!」
「——それで、小説が書けなかったら、私に言いなさい。怒るから」
僕は、思わず笑ってしまった。
自分でも、こんな風に自然に笑えるとは思っていなかった。
理奈社長も、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かがふわりとほどけるのを感じた。
(ああ……やっと、始まるんだ)
本当の“恋”というものが、どういうものなのか。
これからきっと、知っていくんだ。
それは、きっと——小説よりずっと複雑で、優しくて、残酷で、愛おしい。
でも、もう逃げない。
僕は、あなたの言葉で、育っていきたいと思った。
朝の編集部はいつも通りで、誰もがパソコンに向かっていて、静かなタイピング音がリズムのように響いていた。
でも、自分だけが、どこかこの“日常”からズレてしまっているような気がしていた。
(もう……二人とも、いなくなったんだ)
佐久間さんも、吉田さんも。
僕の“擬似恋愛”の相手。
彼女たちはどちらも、僕の不器用さや鈍さに傷ついて、去っていった。
正確には、自分から逃げたのかもしれない。
“人と向き合う”という行為の重さを、僕は甘く見ていた。
(恋愛って、こんなに……苦しいんだな)
彼女たちの前では、ただ“学ぶ”だけで済むと思っていた。
でも、本当は——僕が一番、心を閉ざしていた。
向き合うべきは、他人じゃなくて、自分自身だったのに。
**
昼過ぎ。
社長室の前に立っていた。
数日前、吉田さんが泣きながらこの部屋に入っていった姿が、まだ記憶に新しい。
(……僕が、泣かせた)
そんな自覚があるからこそ、この扉の向こうに立つのが怖かった。
でも、それでも、伝えなければならないことがある。
ノックする手が震える。
でも、止めなかった。
「どうぞ」
静かな声。
相変わらず、落ち着いていて、凛としている。
ドアを開けると、結城理奈社長は、机に向かって書類に目を通していた。
視線を上げると、その目が僕を捉えた。
「……新田くん。どうしたの?」
「少し……お話、させていただいてもいいですか」
「ええ、どうぞ。座って」
椅子に腰を下ろすと、身体の重みがやけにずしりと響いた。
心まで疲れているのがわかった。
「……すみません。佐久間さんにも、吉田さんにも……僕、うまくできませんでした」
理奈社長は、静かに頷いた。
「話は聞いてるわ。……無理に、続けるものじゃないものね」
「……はい。でも」
僕は少しだけ息を飲み込んで、それから顔を上げた。
「——それでも、恋愛小説は、書きたいんです」
「……」
「だけど、もう誰かを巻き込むのは、怖い。期待させて、傷つけて、失望させるのが……嫌なんです」
理奈社長は、何も言わずに、僕の目を見ていた。
その視線が、まっすぐで、でも冷たくなくて。
だから、ちゃんと言えた。
「……だから、社長。お願いがあります」
「お願い?」
「——僕に、“恋愛”を教えてもらえませんか」
沈黙が落ちた。
社内の喧騒は遠く、時計の針の音だけがはっきり聞こえる。
「あなたが、本気でそれを言ってるのなら」
理奈社長が、静かに口を開いた。
「……簡単なことじゃないのは、わかってるのよね?」
「……はい」
「相手は、年齢も、立場も、経験も、あなたとはまるで違う。しかも、私は……“恋愛の教師”になるには、あまりにも……」
少しだけ言葉を詰まらせた。
でも、僕は頷いた。
「それでも、理奈社長に……お願いしたいんです」
「なぜ?」
「……社長だけが、僕のことを、ちゃんと“人”として見てくれたからです」
理奈社長の目が、少しだけ揺れた。
「佐久間さんは、僕を“教える対象”として扱いました。吉田さんは、“空気を読むこと”を頑張ってくれた。でも、社長だけが……僕が何も言わなくても、ちゃんと……」
言葉がうまくまとまらない。
でも、それでも、今まで言えなかったことを、今なら言える気がした。
「——怖がらずに、近づいてきてくれたんです。あの電車の中で、僕が勝手に話しかけたのに、社長は……“ありがとう”って、言ってくれた」
理奈社長は、目を閉じた。
その指先が、机の上に置かれた書類の端をそっと押さえていた。
「……ずるいわね、あなたって」
「……すみません」
「違うの。あなたの言葉じゃなくて、そのまっすぐさが……ずるいのよ」
ゆっくりと彼女は立ち上がり、窓の方へ歩いていった。
秋の光が、社長の輪郭を柔らかく包む。
「……教えるだけよ? “恋人”になるわけじゃない」
「もちろんです」
「私の言うことには、ちゃんと従うこと。反抗は、一切禁止」
「わかりました」
「週に一度、私の指定する時間に、予定を空けておくこと。取材という名の“恋愛レッスン”を行うわ」
「はい……!」
「——それで、小説が書けなかったら、私に言いなさい。怒るから」
僕は、思わず笑ってしまった。
自分でも、こんな風に自然に笑えるとは思っていなかった。
理奈社長も、ほんの少しだけ微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かがふわりとほどけるのを感じた。
(ああ……やっと、始まるんだ)
本当の“恋”というものが、どういうものなのか。
これからきっと、知っていくんだ。
それは、きっと——小説よりずっと複雑で、優しくて、残酷で、愛おしい。
でも、もう逃げない。
僕は、あなたの言葉で、育っていきたいと思った。
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