25歳差の恋愛指南、それは人生最大の不覚でした

naomikoryo

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第九話:教育係、やってもらえませんか

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社内の空調の音が、今日はやけに耳に残った。
朝の編集部はいつも通りで、誰もがパソコンに向かっていて、静かなタイピング音がリズムのように響いていた。

でも、自分だけが、どこかこの“日常”からズレてしまっているような気がしていた。

(もう……二人とも、いなくなったんだ)

佐久間さんも、吉田さんも。

僕の“擬似恋愛”の相手。
彼女たちはどちらも、僕の不器用さや鈍さに傷ついて、去っていった。

正確には、自分から逃げたのかもしれない。
“人と向き合う”という行為の重さを、僕は甘く見ていた。

(恋愛って、こんなに……苦しいんだな)

彼女たちの前では、ただ“学ぶ”だけで済むと思っていた。
でも、本当は——僕が一番、心を閉ざしていた。

向き合うべきは、他人じゃなくて、自分自身だったのに。

**

昼過ぎ。
社長室の前に立っていた。

数日前、吉田さんが泣きながらこの部屋に入っていった姿が、まだ記憶に新しい。

(……僕が、泣かせた)

そんな自覚があるからこそ、この扉の向こうに立つのが怖かった。

でも、それでも、伝えなければならないことがある。

ノックする手が震える。
でも、止めなかった。

「どうぞ」

静かな声。
相変わらず、落ち着いていて、凛としている。

ドアを開けると、結城理奈社長は、机に向かって書類に目を通していた。
視線を上げると、その目が僕を捉えた。

「……新田くん。どうしたの?」

「少し……お話、させていただいてもいいですか」

「ええ、どうぞ。座って」

椅子に腰を下ろすと、身体の重みがやけにずしりと響いた。
心まで疲れているのがわかった。

「……すみません。佐久間さんにも、吉田さんにも……僕、うまくできませんでした」

理奈社長は、静かに頷いた。

「話は聞いてるわ。……無理に、続けるものじゃないものね」

「……はい。でも」

僕は少しだけ息を飲み込んで、それから顔を上げた。

「——それでも、恋愛小説は、書きたいんです」

「……」

「だけど、もう誰かを巻き込むのは、怖い。期待させて、傷つけて、失望させるのが……嫌なんです」

理奈社長は、何も言わずに、僕の目を見ていた。
その視線が、まっすぐで、でも冷たくなくて。

だから、ちゃんと言えた。

「……だから、社長。お願いがあります」

「お願い?」

「——僕に、“恋愛”を教えてもらえませんか」

沈黙が落ちた。

社内の喧騒は遠く、時計の針の音だけがはっきり聞こえる。

「あなたが、本気でそれを言ってるのなら」

理奈社長が、静かに口を開いた。

「……簡単なことじゃないのは、わかってるのよね?」

「……はい」

「相手は、年齢も、立場も、経験も、あなたとはまるで違う。しかも、私は……“恋愛の教師”になるには、あまりにも……」

少しだけ言葉を詰まらせた。

でも、僕は頷いた。

「それでも、理奈社長に……お願いしたいんです」

「なぜ?」

「……社長だけが、僕のことを、ちゃんと“人”として見てくれたからです」

理奈社長の目が、少しだけ揺れた。

「佐久間さんは、僕を“教える対象”として扱いました。吉田さんは、“空気を読むこと”を頑張ってくれた。でも、社長だけが……僕が何も言わなくても、ちゃんと……」

言葉がうまくまとまらない。
でも、それでも、今まで言えなかったことを、今なら言える気がした。

「——怖がらずに、近づいてきてくれたんです。あの電車の中で、僕が勝手に話しかけたのに、社長は……“ありがとう”って、言ってくれた」

理奈社長は、目を閉じた。

その指先が、机の上に置かれた書類の端をそっと押さえていた。

「……ずるいわね、あなたって」

「……すみません」

「違うの。あなたの言葉じゃなくて、そのまっすぐさが……ずるいのよ」

ゆっくりと彼女は立ち上がり、窓の方へ歩いていった。

秋の光が、社長の輪郭を柔らかく包む。

「……教えるだけよ? “恋人”になるわけじゃない」

「もちろんです」

「私の言うことには、ちゃんと従うこと。反抗は、一切禁止」

「わかりました」

「週に一度、私の指定する時間に、予定を空けておくこと。取材という名の“恋愛レッスン”を行うわ」

「はい……!」

「——それで、小説が書けなかったら、私に言いなさい。怒るから」

僕は、思わず笑ってしまった。
自分でも、こんな風に自然に笑えるとは思っていなかった。

理奈社長も、ほんの少しだけ微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かがふわりとほどけるのを感じた。

(ああ……やっと、始まるんだ)

本当の“恋”というものが、どういうものなのか。
これからきっと、知っていくんだ。

それは、きっと——小説よりずっと複雑で、優しくて、残酷で、愛おしい。

でも、もう逃げない。

僕は、あなたの言葉で、育っていきたいと思った。
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