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第十五話:雨と傘と、気づかない距離
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レッスン三回目のその日は、朝から雨が降っていた。
小ぶりだけど止みそうにない雨。
重たい雲が空一面に広がっていて、空気の粒がいつもより湿っぽくて、肌にまとわりつく。
僕は、渋谷駅のハチ公口を出たところで足を止めた。
待ち合わせの場所は、駅近くの商業施設の屋上庭園。
本来なら、日差しの下でベンチに座り、植物を眺めながら会話する予定だった。
でも、雨がすべてを変えた。
**
「じゃあ、今日は予定変更ね。傘を差して、少し歩きましょうか」
約束の時間、屋上庭園入口で出会った彼女は、グレージュのトレンチコートを羽織り、黒の長靴を履いていた。
その姿が、雨の中でも驚くほど凛としていて、目が離せなかった。
「濡れるの、平気ですか?」
「ええ。レッスンでしょう?」
理奈社長は、僕の目を見て微笑んだ。
その笑みが、今日の空気の中で、なぜかいつもよりずっと近く感じた。
**
二人で歩き出す。
ビニール傘をそれぞれに差して、屋上の緑道をぐるりと巡る。
雨の音だけが静かに響く中、僕は、彼女の横顔ばかりを見ていた。
「……雨って、好きですか?」
ふと、僕がそう尋ねると、彼女は小さくうなずいた。
「好きよ。景色の輪郭が柔らかくなるから。
音も、匂いも、いつもと違って、少しだけ心が静かになる。
雨の日は、“自分の声”がよく聞こえるの」
「……それ、社長らしいです」
「褒めてるのかしら?」
「もちろん、褒めてます」
たぶん、照れていた。
顔が熱くて、傘の内側がほんの少し曇っていた。
**
途中、小さな東屋で雨宿りすることになった。
濡れたベンチにハンカチを広げてくれる彼女の手は、細くて、動きに無駄がなかった。
風が吹くたびにコートの裾が揺れて、彼女の香水の残り香が、すっと僕の鼻をくすぐった。
「新田くん。今日は、“間を楽しむ”ことを覚えなさい」
「……“間”?」
「そう。“喋らない時間”のこと。
無理に言葉を詰め込まなくてもいいの。
心地よい沈黙って、ふたりの距離を測るものなのよ」
彼女は、そう言って目を閉じた。
しばらく、本当に何も話さなかった。
雨の音、遠くで聞こえる車の走行音、時折傘を打つしずくの音だけ。
でも、不思議と苦しくなかった。
沈黙が怖くない。
むしろ、彼女とならこのままずっと黙っていられる気がした。
(……これが、“誰かと一緒にいる”ってことか)
初めて実感した。
言葉じゃない。沈黙でもない。
“同じ時間を共有している”ことに、こんなにも意味があるなんて。
**
帰り道。
駅までの道を、再び傘を差して並んで歩いた。
ふと、彼女の右手がコートのポケットに入ったままだと気づいた。
「……社長、手、冷たくないですか?」
「少しだけね。でも、平気よ」
「……えっと」
僕は、言おうとして、でも途中でやめた。
「じゃあ、手をつなぎますか?」なんて、言えるわけがなかった。
その代わりに、傘をそっと彼女のほうに傾けた。
「……こっち、持ちます。濡れるとまずいですよね、髪」
「……ありがとう」
それだけで、また胸が熱くなる。
(だめだ……こんなことで)
小説を書きたいだけだった。
“恋愛”を理解するために、始めたレッスンだった。
でも、今はただ——彼女の隣にいたいと思っている。
学ぶためでも、書くためでもなく。
**
駅に着く頃には、雨脚が弱まっていた。
「次回のレッスン、またご連絡します」
「はい」
彼女が改札を抜けていく後ろ姿を、僕は見送った。
淡い香りがまだ残っている気がして、胸の奥がざわついた。
手のひらが濡れていたのは、傘を持っていたせいだけじゃない。
彼女の温度が、また思い出されたから。
そして僕は、少しずつ確信していく。
——これは、恋だ。
たとえ“教育の一環”であっても。
たとえ、“先生”がその気でなくても。
僕の心はもう、勝手に動き始めていた。
小ぶりだけど止みそうにない雨。
重たい雲が空一面に広がっていて、空気の粒がいつもより湿っぽくて、肌にまとわりつく。
僕は、渋谷駅のハチ公口を出たところで足を止めた。
待ち合わせの場所は、駅近くの商業施設の屋上庭園。
本来なら、日差しの下でベンチに座り、植物を眺めながら会話する予定だった。
でも、雨がすべてを変えた。
**
「じゃあ、今日は予定変更ね。傘を差して、少し歩きましょうか」
約束の時間、屋上庭園入口で出会った彼女は、グレージュのトレンチコートを羽織り、黒の長靴を履いていた。
その姿が、雨の中でも驚くほど凛としていて、目が離せなかった。
「濡れるの、平気ですか?」
「ええ。レッスンでしょう?」
理奈社長は、僕の目を見て微笑んだ。
その笑みが、今日の空気の中で、なぜかいつもよりずっと近く感じた。
**
二人で歩き出す。
ビニール傘をそれぞれに差して、屋上の緑道をぐるりと巡る。
雨の音だけが静かに響く中、僕は、彼女の横顔ばかりを見ていた。
「……雨って、好きですか?」
ふと、僕がそう尋ねると、彼女は小さくうなずいた。
「好きよ。景色の輪郭が柔らかくなるから。
音も、匂いも、いつもと違って、少しだけ心が静かになる。
雨の日は、“自分の声”がよく聞こえるの」
「……それ、社長らしいです」
「褒めてるのかしら?」
「もちろん、褒めてます」
たぶん、照れていた。
顔が熱くて、傘の内側がほんの少し曇っていた。
**
途中、小さな東屋で雨宿りすることになった。
濡れたベンチにハンカチを広げてくれる彼女の手は、細くて、動きに無駄がなかった。
風が吹くたびにコートの裾が揺れて、彼女の香水の残り香が、すっと僕の鼻をくすぐった。
「新田くん。今日は、“間を楽しむ”ことを覚えなさい」
「……“間”?」
「そう。“喋らない時間”のこと。
無理に言葉を詰め込まなくてもいいの。
心地よい沈黙って、ふたりの距離を測るものなのよ」
彼女は、そう言って目を閉じた。
しばらく、本当に何も話さなかった。
雨の音、遠くで聞こえる車の走行音、時折傘を打つしずくの音だけ。
でも、不思議と苦しくなかった。
沈黙が怖くない。
むしろ、彼女とならこのままずっと黙っていられる気がした。
(……これが、“誰かと一緒にいる”ってことか)
初めて実感した。
言葉じゃない。沈黙でもない。
“同じ時間を共有している”ことに、こんなにも意味があるなんて。
**
帰り道。
駅までの道を、再び傘を差して並んで歩いた。
ふと、彼女の右手がコートのポケットに入ったままだと気づいた。
「……社長、手、冷たくないですか?」
「少しだけね。でも、平気よ」
「……えっと」
僕は、言おうとして、でも途中でやめた。
「じゃあ、手をつなぎますか?」なんて、言えるわけがなかった。
その代わりに、傘をそっと彼女のほうに傾けた。
「……こっち、持ちます。濡れるとまずいですよね、髪」
「……ありがとう」
それだけで、また胸が熱くなる。
(だめだ……こんなことで)
小説を書きたいだけだった。
“恋愛”を理解するために、始めたレッスンだった。
でも、今はただ——彼女の隣にいたいと思っている。
学ぶためでも、書くためでもなく。
**
駅に着く頃には、雨脚が弱まっていた。
「次回のレッスン、またご連絡します」
「はい」
彼女が改札を抜けていく後ろ姿を、僕は見送った。
淡い香りがまだ残っている気がして、胸の奥がざわついた。
手のひらが濡れていたのは、傘を持っていたせいだけじゃない。
彼女の温度が、また思い出されたから。
そして僕は、少しずつ確信していく。
——これは、恋だ。
たとえ“教育の一環”であっても。
たとえ、“先生”がその気でなくても。
僕の心はもう、勝手に動き始めていた。
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