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第二十二話:このままじゃ、恋になる。だから、少しだけ壊してしまいたくなる
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人に感情を見せないようになったのは、いつからだっただろう。
夫が亡くなったとき?
社長として一人で立ち続けるようになったとき?
それとももっと前、生まれつきの“性分”だったのか。
どちらにしても、私は「平気なふり」をするのが上手だった。
“綺麗な仕事を、綺麗にやり遂げる”
それが私の流儀で、信念で、誰にも文句を言わせないための鎧だった。
けれど——
(……このままじゃ、恋になる)
純くんの目が、そう言っていた。
彼はもう、完全に“私”を見ている。
社長でも、教育係でも、年上の女性でもなく。
“結城理奈”というひとりの人間を、まっすぐに見ようとしていた。
それが、どうしようもなく怖かった。
**
「……“恋って、どこから始まるんですか”って、聞かれてしまったのよ」
夜、ワイングラスを片手にぼやくように口にした言葉は、誰にも届かない。
窓の外は冷たい夜。
東京の街はまだ灯りがまばらに瞬いている。
(“始まってる”に決まってるでしょう……)
彼の視線を思い出す。
揺れない瞳。
遠慮のない距離。
そして、感情を隠そうとしない顔。
“このままじゃ、壊れる”と思った。
私が保ってきたすべての理性が、歯止めが、境界線が。
(……なら、いっそ、少しだけ先に壊してしまおうか)
**
次のレッスンを、カフェではなく自宅で提案したのは、私だった。
理由は簡単だった。
「執筆に集中できるように、落ち着いた場所で」と言えば、納得してくれると思った。
もちろん、社員には「対面編集」という名目でスケジュールを通した。
普段から若手作家の育成をしている私にとって、不自然なことではない。
でも、その裏にある“もう一つの感情”を、私はちゃんと知っていた。
——試してみたくなった。
彼が、どこまで私に踏み込むつもりなのか。
そして私自身が、それにどう反応するのか。
少しだけ、壊してしまいたかった。
きちんと積み上げてきたこの距離を、境界を、緊張感を。
彼のことを“好きにならないため”に。
**
レッスン当日。
午後二時。
インターホンが鳴った瞬間、心臓が跳ねた。
白いニットに、ストレートのロングスカート。
普段よりも少し柔らかい服を選んだ。
メイクも、やや薄め。
指輪は……今日も、外さなかった。
「ようこそ。上がって」
ドアを開けた瞬間の彼の表情は、緊張と、どこか高揚が混じっていた。
玄関の匂い、室内の空気、私の家に彼が“踏み込んだ”瞬間——
確かに、空気が変わった。
(ほら……これが“危うい”ってことよ)
**
ダイニングテーブルに並んで座り、
いつものように“文章の組み立て方”についてレクチャーを始めた。
「恋愛小説は、台詞の温度がすべて。
何を言ったかより、どう言ったかが重要」
「……なるほど」
彼は頷きながら、ノートにメモを取っていた。
真面目だ。
本当に、どこまでも。
だからこそ、少しだけ揺さぶってみたくなる。
「たとえば……“好きだよ”って言葉。
どんなふうに、どのタイミングで言えば、読者の心に刺さると思う?」
「……それは……」
彼が顔を上げる。
目が合う。
——逸らさなかった。
彼はもう、ちゃんと私を見るようになっていた。
「……たぶん、“普通の時”に言うんだと思います。
特別じゃない日、特別な出来事がなくても、唐突に。
でも、それが一番“本物”な気がするから」
(……どうして、そんな答えを出せるの)
本当に、恋を知らないの?
私のこと、ちゃんと“教材”として見てるの?
……それとも。
**
レッスンの終わり、玄関先で。
彼がコートを着ようとした時、私はふいに言った。
「ねえ、新田くん」
「はい?」
「……あなた、“私のこと”どう思ってるの?」
空気が止まる。
彼はコートを持ったまま、硬直した。
「……それ、レッスンですか?」
「さあ。……どっちだと思う?」
彼の喉が、ぐっと動いた。
その反応が嬉しくて、どこか悲しくて。
(ねえ、純くん。あなたの中にあるこれは、恋なの?)
私が少しだけ壊してしまいたかったのは、
もしかすると、“彼の未完成な気持ち”だったのかもしれない。
恋になる前に。
本気になる前に。
私が、きちんと終わらせるために。
けれど——
彼の目が、また揺らがずにこちらを見返した。
「社長のことは……怖いくらいに、綺麗だと思っています」
その言葉に、私は“ぞくり”とした。
心が震えた。
言葉じゃなく、“目”が震わせた。
(……これは、だめ)
本当にだめ。
でも、心がもう、冷静でいられなかった。
だから、笑ってごまかした。
「……それ、レッスン合格ね。とてもいい台詞だったわ」
そして、ドアを閉めた。
ゆっくり、静かに、鍵をかけて。
背中を預けた扉の向こうで、呼吸を整えた。
(壊したのは、私だった)
でも、私が壊したかったのは……
距離でも、感情でもなく、
たぶん、「自分だけ平気なふりをしていられる」という思い上がりだった。
夫が亡くなったとき?
社長として一人で立ち続けるようになったとき?
それとももっと前、生まれつきの“性分”だったのか。
どちらにしても、私は「平気なふり」をするのが上手だった。
“綺麗な仕事を、綺麗にやり遂げる”
それが私の流儀で、信念で、誰にも文句を言わせないための鎧だった。
けれど——
(……このままじゃ、恋になる)
純くんの目が、そう言っていた。
彼はもう、完全に“私”を見ている。
社長でも、教育係でも、年上の女性でもなく。
“結城理奈”というひとりの人間を、まっすぐに見ようとしていた。
それが、どうしようもなく怖かった。
**
「……“恋って、どこから始まるんですか”って、聞かれてしまったのよ」
夜、ワイングラスを片手にぼやくように口にした言葉は、誰にも届かない。
窓の外は冷たい夜。
東京の街はまだ灯りがまばらに瞬いている。
(“始まってる”に決まってるでしょう……)
彼の視線を思い出す。
揺れない瞳。
遠慮のない距離。
そして、感情を隠そうとしない顔。
“このままじゃ、壊れる”と思った。
私が保ってきたすべての理性が、歯止めが、境界線が。
(……なら、いっそ、少しだけ先に壊してしまおうか)
**
次のレッスンを、カフェではなく自宅で提案したのは、私だった。
理由は簡単だった。
「執筆に集中できるように、落ち着いた場所で」と言えば、納得してくれると思った。
もちろん、社員には「対面編集」という名目でスケジュールを通した。
普段から若手作家の育成をしている私にとって、不自然なことではない。
でも、その裏にある“もう一つの感情”を、私はちゃんと知っていた。
——試してみたくなった。
彼が、どこまで私に踏み込むつもりなのか。
そして私自身が、それにどう反応するのか。
少しだけ、壊してしまいたかった。
きちんと積み上げてきたこの距離を、境界を、緊張感を。
彼のことを“好きにならないため”に。
**
レッスン当日。
午後二時。
インターホンが鳴った瞬間、心臓が跳ねた。
白いニットに、ストレートのロングスカート。
普段よりも少し柔らかい服を選んだ。
メイクも、やや薄め。
指輪は……今日も、外さなかった。
「ようこそ。上がって」
ドアを開けた瞬間の彼の表情は、緊張と、どこか高揚が混じっていた。
玄関の匂い、室内の空気、私の家に彼が“踏み込んだ”瞬間——
確かに、空気が変わった。
(ほら……これが“危うい”ってことよ)
**
ダイニングテーブルに並んで座り、
いつものように“文章の組み立て方”についてレクチャーを始めた。
「恋愛小説は、台詞の温度がすべて。
何を言ったかより、どう言ったかが重要」
「……なるほど」
彼は頷きながら、ノートにメモを取っていた。
真面目だ。
本当に、どこまでも。
だからこそ、少しだけ揺さぶってみたくなる。
「たとえば……“好きだよ”って言葉。
どんなふうに、どのタイミングで言えば、読者の心に刺さると思う?」
「……それは……」
彼が顔を上げる。
目が合う。
——逸らさなかった。
彼はもう、ちゃんと私を見るようになっていた。
「……たぶん、“普通の時”に言うんだと思います。
特別じゃない日、特別な出来事がなくても、唐突に。
でも、それが一番“本物”な気がするから」
(……どうして、そんな答えを出せるの)
本当に、恋を知らないの?
私のこと、ちゃんと“教材”として見てるの?
……それとも。
**
レッスンの終わり、玄関先で。
彼がコートを着ようとした時、私はふいに言った。
「ねえ、新田くん」
「はい?」
「……あなた、“私のこと”どう思ってるの?」
空気が止まる。
彼はコートを持ったまま、硬直した。
「……それ、レッスンですか?」
「さあ。……どっちだと思う?」
彼の喉が、ぐっと動いた。
その反応が嬉しくて、どこか悲しくて。
(ねえ、純くん。あなたの中にあるこれは、恋なの?)
私が少しだけ壊してしまいたかったのは、
もしかすると、“彼の未完成な気持ち”だったのかもしれない。
恋になる前に。
本気になる前に。
私が、きちんと終わらせるために。
けれど——
彼の目が、また揺らがずにこちらを見返した。
「社長のことは……怖いくらいに、綺麗だと思っています」
その言葉に、私は“ぞくり”とした。
心が震えた。
言葉じゃなく、“目”が震わせた。
(……これは、だめ)
本当にだめ。
でも、心がもう、冷静でいられなかった。
だから、笑ってごまかした。
「……それ、レッスン合格ね。とてもいい台詞だったわ」
そして、ドアを閉めた。
ゆっくり、静かに、鍵をかけて。
背中を預けた扉の向こうで、呼吸を整えた。
(壊したのは、私だった)
でも、私が壊したかったのは……
距離でも、感情でもなく、
たぶん、「自分だけ平気なふりをしていられる」という思い上がりだった。
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