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第三十二話:「気づかないふりをしていた。彼が“他の誰かのものになる”かもしれないということに」
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オフィスの廊下を歩いていて、
ふと、ある声が聞こえた。
「えー、清美、今度また新田さんとランチ行くの?」
「ちがっ……行こうって言われたんじゃなくて、あたしが“誘ってみようかな”ってだけ!」
「うわ、攻めるねえ~!」
「だって、あの人ほんと変わったもん。顔もだけど……雰囲気? 前はちょっとアレだったけど、今の新田さんなら全然アリだよ」
笑い声。
はしゃぎ混じりの声。
そして——“アリ”という評価の軽さが、やけに刺さった。
(……あなたたちに、あの子の何がわかるの)
理性が、咄嗟に怒りを鎮める。
(彼は、作家志望で、ようやく芽が出始めた大切な新人。社の財産。好意を向けられて困るのは当然。……なのに、なぜ私、こんなにざわついてるの?)
自問は答えずに、深く沈んでいった。
**
ここ最近、彼はよくオフィスに来ていた。
理由はシンプル。
原稿が佳境を迎え、編集スタッフとの擦り合わせが必要になっているから。
……それだけのはずだった。
けれど——
彼が来るたびに、女子社員たちの空気が変わる。
「新田さん、今日もかっこいいですね~」
「そのメガネ、どこで買ったんですか?」
「髪のセット、ほんとに上手ですね。美容師さん、紹介してくださいよ!」
どこか浮足立ったその空気を、私は“見て見ぬふり”をしてきた。
でも。
凛華が、理奈のデスクにふらりと現れ、言った。
「ねえ、社長。ちょっとご相談ってほどでもないんだけど、質問していいですか?」
「なに?」
「新田くんって、社長と“そういう関係”……じゃないですよね?」
不意打ちのような問い。
言葉が喉にひっかかった。
「……どうしてそんなことを?」
「いや、最近さすがに変わったでしょ。あれはもう、社長の教育の成果っていうか……もはやプロデュース?」
「プロデュースって……」
「ほら、よくいるじゃないですか。“私が育てた男が、他の女に取られてくパターン”。
それで、ちょっと惜しくなっちゃったりするやつ。……社長、そういうの、ない?」
微笑みながら、まるで“探り”を入れるように。
理奈は何も返さず、書類に目を戻した。
返事を濁すことでしか、自分を守れなかった。
(……そう。“惜しくなる”なんて、生ぬるい言葉じゃない)
正直に言えば、
あの子を他の誰かに“触れさせたくない”という感情は、もうずっと前からあった。
でも、それを認めてしまえば、
今まで保ってきた距離も、誇りも、立場も——すべて、崩れてしまう気がしていた。
**
彼が来社した日の午後。
編集者と話を終えて、帰ろうとする彼を見かけた。
その横に、凛華の姿がある。
何かを楽しそうに話している。
(今日はもう、話すことはない)
それなのに、
“何か用事を作ってでも、声をかけたくなっている”自分がいた。
(どうして、私は今、あの子に……)
思わず胸に手を当てる。
脈が、速い。
普段はコントロールできるはずの鼓動が、
彼を目で追うだけで、こんなにも乱れてしまう。
(……認めたくない)
でも、もう気づいてしまった。
——彼が、他の誰かのものになってしまうかもしれないという事実に。
そして、それが“耐えられない”という本音に。
**
帰り際、エレベーターで偶然ふたりきりになった。
彼は、少し疲れているような目をしていた。
でも、それでも優しく笑ってくれた。
「社長、今日もお疲れさまでした」
「あなたも。……無理してない?」
「……少しだけ。でも、頑張れるのは社長のおかげです」
(そういう言い方は、やめて)
でも、それも口に出せなかった。
彼の優しさが、今の私には毒すぎて。
ほんの一滴で、平常心が壊れそうになる。
**
この恋は、始めてはいけなかった。
私が“終わらせる側”にならなきゃいけなかった。
でも。
(でも、終わらせるために育てたんじゃない)
彼を育てて、変わっていく姿を見たかっただけじゃない。
その先に、私の名前を呼んでほしかったんだ。
“ありがとう”でも、“先生”でもなく。
ただの——「理奈さん」として。
それだけでよかったはずなのに。
今の私は、
もっと強欲になってしまっている。
ふと、ある声が聞こえた。
「えー、清美、今度また新田さんとランチ行くの?」
「ちがっ……行こうって言われたんじゃなくて、あたしが“誘ってみようかな”ってだけ!」
「うわ、攻めるねえ~!」
「だって、あの人ほんと変わったもん。顔もだけど……雰囲気? 前はちょっとアレだったけど、今の新田さんなら全然アリだよ」
笑い声。
はしゃぎ混じりの声。
そして——“アリ”という評価の軽さが、やけに刺さった。
(……あなたたちに、あの子の何がわかるの)
理性が、咄嗟に怒りを鎮める。
(彼は、作家志望で、ようやく芽が出始めた大切な新人。社の財産。好意を向けられて困るのは当然。……なのに、なぜ私、こんなにざわついてるの?)
自問は答えずに、深く沈んでいった。
**
ここ最近、彼はよくオフィスに来ていた。
理由はシンプル。
原稿が佳境を迎え、編集スタッフとの擦り合わせが必要になっているから。
……それだけのはずだった。
けれど——
彼が来るたびに、女子社員たちの空気が変わる。
「新田さん、今日もかっこいいですね~」
「そのメガネ、どこで買ったんですか?」
「髪のセット、ほんとに上手ですね。美容師さん、紹介してくださいよ!」
どこか浮足立ったその空気を、私は“見て見ぬふり”をしてきた。
でも。
凛華が、理奈のデスクにふらりと現れ、言った。
「ねえ、社長。ちょっとご相談ってほどでもないんだけど、質問していいですか?」
「なに?」
「新田くんって、社長と“そういう関係”……じゃないですよね?」
不意打ちのような問い。
言葉が喉にひっかかった。
「……どうしてそんなことを?」
「いや、最近さすがに変わったでしょ。あれはもう、社長の教育の成果っていうか……もはやプロデュース?」
「プロデュースって……」
「ほら、よくいるじゃないですか。“私が育てた男が、他の女に取られてくパターン”。
それで、ちょっと惜しくなっちゃったりするやつ。……社長、そういうの、ない?」
微笑みながら、まるで“探り”を入れるように。
理奈は何も返さず、書類に目を戻した。
返事を濁すことでしか、自分を守れなかった。
(……そう。“惜しくなる”なんて、生ぬるい言葉じゃない)
正直に言えば、
あの子を他の誰かに“触れさせたくない”という感情は、もうずっと前からあった。
でも、それを認めてしまえば、
今まで保ってきた距離も、誇りも、立場も——すべて、崩れてしまう気がしていた。
**
彼が来社した日の午後。
編集者と話を終えて、帰ろうとする彼を見かけた。
その横に、凛華の姿がある。
何かを楽しそうに話している。
(今日はもう、話すことはない)
それなのに、
“何か用事を作ってでも、声をかけたくなっている”自分がいた。
(どうして、私は今、あの子に……)
思わず胸に手を当てる。
脈が、速い。
普段はコントロールできるはずの鼓動が、
彼を目で追うだけで、こんなにも乱れてしまう。
(……認めたくない)
でも、もう気づいてしまった。
——彼が、他の誰かのものになってしまうかもしれないという事実に。
そして、それが“耐えられない”という本音に。
**
帰り際、エレベーターで偶然ふたりきりになった。
彼は、少し疲れているような目をしていた。
でも、それでも優しく笑ってくれた。
「社長、今日もお疲れさまでした」
「あなたも。……無理してない?」
「……少しだけ。でも、頑張れるのは社長のおかげです」
(そういう言い方は、やめて)
でも、それも口に出せなかった。
彼の優しさが、今の私には毒すぎて。
ほんの一滴で、平常心が壊れそうになる。
**
この恋は、始めてはいけなかった。
私が“終わらせる側”にならなきゃいけなかった。
でも。
(でも、終わらせるために育てたんじゃない)
彼を育てて、変わっていく姿を見たかっただけじゃない。
その先に、私の名前を呼んでほしかったんだ。
“ありがとう”でも、“先生”でもなく。
ただの——「理奈さん」として。
それだけでよかったはずなのに。
今の私は、
もっと強欲になってしまっている。
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