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第三十八話:「本当に欲しかったのは、愛されることじゃなかった。愛していいと言ってくれる人だった」
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「……考える時間をください」
その一文を送った夜から、数日が経った。
純くんはそれ以上何も言ってこない。
追いかけてもこなければ、催促もしない。
たった一言「了解です」とだけ返して、
それきりだった。
その優しさが、今は胸に痛い。
彼の中では、もう私の気持ちの在処など、
すべて見通しているのかもしれない。
なのに、私のほうが――まだ、何も決められない。
**
昼下がりの編集部。
仕事は山積み。
若手作家のスケジュール調整、新刊の表紙案の確認、営業の打ち合わせ。
頭ではすべて処理しているのに、
心がまったく別の場所にある。
どんなに集中しようとしても、
ページの行間に、メールの隙間に、
あの子の声が響く。
(理奈さん。……僕は、あなたが好きです)
繰り返される記憶の再生に、
ため息ひとつ、またひとつ。
そんな自分に、誰より自分自身が驚いている。
49歳。
これまでにいくつもの決断をしてきた。
社員の生活を預かる社長として、
いつも冷静で、的確で、感情より理性を優先してきた。
なのに、
「一人の女性」としての自分は、
たった一人の青年の告白に、
こんなにも無防備だった。
**
(――怖かったんだ)
自分の中の“正しさ”を壊すのが。
“愛される”ことを受け入れてしまったら、
それが「報い」になる気がしていた。
(夫を愛した人生に、泥を塗るような)
でも本当は――
私はずっと、誰かを“愛する”ことに飢えていた。
愛されることが怖かったんじゃない。
愛していいと、誰かに許されることを望んでいたんだ。
そして、それをくれたのが純だった。
彼は、
私に何も強制せず、
何も奪おうとせず、
ただ黙って「待っている」と言ってくれた。
それがどれほど、救いだったか。
**
夕方、社内が少しざわついていた。
スタッフのひとりが言った。
「あれ? 佐久間さん、今日は直帰ですか?」
「うん、原稿の確認あるから、
新田くんのところ寄ってから帰るって言ってた」
その瞬間、全身に冷たい電流が走った。
(……彼の、家に?)
脳が一気に警告音を鳴らす。
原稿の確認。それは名目だ。
凛華のこれまでの言動を知っていれば、
本当の目的が“それだけ”じゃないのは明らかだった。
社長である私に対して、
「今なら私とも合うんじゃないですか?」とまで言い放った女。
あの子の変化に一番早く気づいたのも、凛華だった。
(止めなきゃ。……でも、どうやって?)
口を出せない。
立場的にも、感情的にも。
「作家に色目使うな」なんて言えるわけがない。
それでも、
純があの状況をどう受け止めるのかを想像するだけで、
胸がかきむしられそうになる。
(彼は、断れる……わよね?)
自問した瞬間、
自分がどれほど彼を“信じたくて仕方ない”かに気づく。
でも同時に、
彼を試してしまいたくなる醜い感情が、喉の奥に滞っていた。
**
夜。
部屋の明かりを落としたまま、
ソファでひとり、スマートフォンを手にしていた。
連絡する理由はいくらでもある。
原稿の件。
次回の会議。
……あるいは、ただ“様子を見たくて”という理由でも。
でも、打ちかけては消して、
打ちかけては消して――
結局、何も送れなかった。
(私にその資格があるの?)
あの子の気持ちを受け止めるどころか、
待たせたまま何も返せない人間に、
彼を誰かから“守る権利”なんてあるのだろうか。
(……だけど)
涙がにじむ。
あの子が誰かに奪われていく光景を想像するだけで、
心が引き裂かれそうになる。
(私は……)
静かに目を閉じて、
胸に手を置いた。
(私は、あの子が欲しい)
(あの子に、選ばれたい)
その一文を送った夜から、数日が経った。
純くんはそれ以上何も言ってこない。
追いかけてもこなければ、催促もしない。
たった一言「了解です」とだけ返して、
それきりだった。
その優しさが、今は胸に痛い。
彼の中では、もう私の気持ちの在処など、
すべて見通しているのかもしれない。
なのに、私のほうが――まだ、何も決められない。
**
昼下がりの編集部。
仕事は山積み。
若手作家のスケジュール調整、新刊の表紙案の確認、営業の打ち合わせ。
頭ではすべて処理しているのに、
心がまったく別の場所にある。
どんなに集中しようとしても、
ページの行間に、メールの隙間に、
あの子の声が響く。
(理奈さん。……僕は、あなたが好きです)
繰り返される記憶の再生に、
ため息ひとつ、またひとつ。
そんな自分に、誰より自分自身が驚いている。
49歳。
これまでにいくつもの決断をしてきた。
社員の生活を預かる社長として、
いつも冷静で、的確で、感情より理性を優先してきた。
なのに、
「一人の女性」としての自分は、
たった一人の青年の告白に、
こんなにも無防備だった。
**
(――怖かったんだ)
自分の中の“正しさ”を壊すのが。
“愛される”ことを受け入れてしまったら、
それが「報い」になる気がしていた。
(夫を愛した人生に、泥を塗るような)
でも本当は――
私はずっと、誰かを“愛する”ことに飢えていた。
愛されることが怖かったんじゃない。
愛していいと、誰かに許されることを望んでいたんだ。
そして、それをくれたのが純だった。
彼は、
私に何も強制せず、
何も奪おうとせず、
ただ黙って「待っている」と言ってくれた。
それがどれほど、救いだったか。
**
夕方、社内が少しざわついていた。
スタッフのひとりが言った。
「あれ? 佐久間さん、今日は直帰ですか?」
「うん、原稿の確認あるから、
新田くんのところ寄ってから帰るって言ってた」
その瞬間、全身に冷たい電流が走った。
(……彼の、家に?)
脳が一気に警告音を鳴らす。
原稿の確認。それは名目だ。
凛華のこれまでの言動を知っていれば、
本当の目的が“それだけ”じゃないのは明らかだった。
社長である私に対して、
「今なら私とも合うんじゃないですか?」とまで言い放った女。
あの子の変化に一番早く気づいたのも、凛華だった。
(止めなきゃ。……でも、どうやって?)
口を出せない。
立場的にも、感情的にも。
「作家に色目使うな」なんて言えるわけがない。
それでも、
純があの状況をどう受け止めるのかを想像するだけで、
胸がかきむしられそうになる。
(彼は、断れる……わよね?)
自問した瞬間、
自分がどれほど彼を“信じたくて仕方ない”かに気づく。
でも同時に、
彼を試してしまいたくなる醜い感情が、喉の奥に滞っていた。
**
夜。
部屋の明かりを落としたまま、
ソファでひとり、スマートフォンを手にしていた。
連絡する理由はいくらでもある。
原稿の件。
次回の会議。
……あるいは、ただ“様子を見たくて”という理由でも。
でも、打ちかけては消して、
打ちかけては消して――
結局、何も送れなかった。
(私にその資格があるの?)
あの子の気持ちを受け止めるどころか、
待たせたまま何も返せない人間に、
彼を誰かから“守る権利”なんてあるのだろうか。
(……だけど)
涙がにじむ。
あの子が誰かに奪われていく光景を想像するだけで、
心が引き裂かれそうになる。
(私は……)
静かに目を閉じて、
胸に手を置いた。
(私は、あの子が欲しい)
(あの子に、選ばれたい)
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