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第五十九話:「あなたの“待つ力”に、私はまたひとつ恋をしてしまった」
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静かな幸せというものが、
この世に本当に存在するのだとしたら――
それは、きっとこんな時間のことを言うのだと思う。
彼は、何も急がない。
求めない。
焦らせない。
ただ、私のそばに“いる”というだけで、
この恋を育てようとしている。
(……ずるい子ね)
こんなにも大切にされたら、
もう、怖がってるふりなんてできないじゃない。
**
とはいえ、社内での日常は、
まだ“何も始まっていない顔”を続けている。
彼も私も。
あえて互いに距離を詰めすぎない。
誰にも見られないように、気を配る。
だけど、
わかる人には、わかってしまうのだ。
**
昼休み。
清美が私のデスクにやってきた。
手には社食のコーヒーカップを持ったまま、
いたずらっぽい顔で、私の隣に腰を下ろす。
「理奈さん」
「なに?」
「……キス、しました?」
ブッ、とコーヒーを噴き出しそうになった。
口元を押さえながら睨むと、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり! その反応、ずるいわ~!」
「清美、ちょっと声が大きい」
「すみません、でも……マジで最近の理奈さん、ぜんぜん違うんですよ。
顔が、ほぐれてるっていうか。
目元がやさしいっていうか……うーん、やっぱり“恋してる顔”?」
「……」
言葉が出なかった。
否定もできなかった。
「先生、変わりましたよね。
すごく、しっかりした目をするようになった。
人のこと、大切にしようっていう“覚悟の目”になってる。
あれ、たぶん理奈さんのおかげですよ」
(……やめてよ)
そう言いたかったのに、言えなかった。
「でもさぁ……」
清美が少し表情を真面目に変えた。
「待つのもいいけど、
いつか“進む”ことを決めなきゃ、
どっちかが傷ついちゃうかもですよ?」
言い捨てるようにそう言って、
彼女はすっと立ち上がった。
私は、言葉を失っていた。
(進む……?)
私は、進むことを、決められるのだろうか。
**
その日の午後、凜華が営業資料を持って私の部屋を訪れた。
「ねえ理奈さん」
「なに?」
「真面目に聞くけどさ。
“年下と社長”って、そんなに難しいもん?」
私は手を止めて彼女を見つめた。
「難しいわよ。
想像以上にね」
「でも、それって自分が“社長だから”でしょ?
じゃあさ、理奈さんが“ひとりの女の人”としてだけ生きてたら、
その子のこと……選ばない?」
その言葉に、胸がチクリとした。
「選ぶでしょ、絶対」
「……」
「私も最初そうだったよ。
“立場的に無理”とか、“後輩はありえない”とか。
でもね、気づくのよ。
想ってくれる人の“誠実さ”の前には、
自分が積み上げてきたルールなんて、ほんとにちっぽけだって」
彼女は一息ついて、笑った。
「まあ、あたしはうまくいかなかったけどね。
でもさ、理奈さんはその子に“愛されてる”んでしょ?
だったら、ちゃんと……」
言葉を切った彼女が、
最後にぽつりとつぶやいた。
「……幸せ、になってよ」
**
誰にも言ってないのに、
こんなふうに背中を押されることが、
こんなにもこわくて、
そしてあたたかいなんて思わなかった。
私はずっと、“自分で決める”ことにこだわってきた。
誰の助けも借りずに、
誰の意見にも揺さぶられずに。
でも。
彼女たちは――
本気で“私の幸せ”を願ってくれているのだ。
その事実が、
私の胸をそっと溶かしていく。
**
夜。
ソファでひとり、静かにワインを飲みながら、
スマホを手に取った。
そこには、何もメッセージは届いていない。
彼は、何も急かさない。
何も求めてこない。
けれど、
その“待つ力”が――
私を、また一歩、前に進ませようとしている。
(私、この人に、何度恋をしてるんだろう)
今日だって、そう。
何度も、何度も。
彼の沈黙に、彼のやさしさに、
私は恋をしてしまっている。
**
明日。
会ったら、何か伝えよう。
ほんのひとことでもいい。
「会えてうれしい」
「今日の服、似合ってるわね」
「また、キス……してもいい?」
そんなことを、私の口から言える日が来るなんて――
少し前まで、信じられなかった。
でも今は、
ほんの少しだけ、言える気がしている。
この世に本当に存在するのだとしたら――
それは、きっとこんな時間のことを言うのだと思う。
彼は、何も急がない。
求めない。
焦らせない。
ただ、私のそばに“いる”というだけで、
この恋を育てようとしている。
(……ずるい子ね)
こんなにも大切にされたら、
もう、怖がってるふりなんてできないじゃない。
**
とはいえ、社内での日常は、
まだ“何も始まっていない顔”を続けている。
彼も私も。
あえて互いに距離を詰めすぎない。
誰にも見られないように、気を配る。
だけど、
わかる人には、わかってしまうのだ。
**
昼休み。
清美が私のデスクにやってきた。
手には社食のコーヒーカップを持ったまま、
いたずらっぽい顔で、私の隣に腰を下ろす。
「理奈さん」
「なに?」
「……キス、しました?」
ブッ、とコーヒーを噴き出しそうになった。
口元を押さえながら睨むと、彼女は満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり! その反応、ずるいわ~!」
「清美、ちょっと声が大きい」
「すみません、でも……マジで最近の理奈さん、ぜんぜん違うんですよ。
顔が、ほぐれてるっていうか。
目元がやさしいっていうか……うーん、やっぱり“恋してる顔”?」
「……」
言葉が出なかった。
否定もできなかった。
「先生、変わりましたよね。
すごく、しっかりした目をするようになった。
人のこと、大切にしようっていう“覚悟の目”になってる。
あれ、たぶん理奈さんのおかげですよ」
(……やめてよ)
そう言いたかったのに、言えなかった。
「でもさぁ……」
清美が少し表情を真面目に変えた。
「待つのもいいけど、
いつか“進む”ことを決めなきゃ、
どっちかが傷ついちゃうかもですよ?」
言い捨てるようにそう言って、
彼女はすっと立ち上がった。
私は、言葉を失っていた。
(進む……?)
私は、進むことを、決められるのだろうか。
**
その日の午後、凜華が営業資料を持って私の部屋を訪れた。
「ねえ理奈さん」
「なに?」
「真面目に聞くけどさ。
“年下と社長”って、そんなに難しいもん?」
私は手を止めて彼女を見つめた。
「難しいわよ。
想像以上にね」
「でも、それって自分が“社長だから”でしょ?
じゃあさ、理奈さんが“ひとりの女の人”としてだけ生きてたら、
その子のこと……選ばない?」
その言葉に、胸がチクリとした。
「選ぶでしょ、絶対」
「……」
「私も最初そうだったよ。
“立場的に無理”とか、“後輩はありえない”とか。
でもね、気づくのよ。
想ってくれる人の“誠実さ”の前には、
自分が積み上げてきたルールなんて、ほんとにちっぽけだって」
彼女は一息ついて、笑った。
「まあ、あたしはうまくいかなかったけどね。
でもさ、理奈さんはその子に“愛されてる”んでしょ?
だったら、ちゃんと……」
言葉を切った彼女が、
最後にぽつりとつぶやいた。
「……幸せ、になってよ」
**
誰にも言ってないのに、
こんなふうに背中を押されることが、
こんなにもこわくて、
そしてあたたかいなんて思わなかった。
私はずっと、“自分で決める”ことにこだわってきた。
誰の助けも借りずに、
誰の意見にも揺さぶられずに。
でも。
彼女たちは――
本気で“私の幸せ”を願ってくれているのだ。
その事実が、
私の胸をそっと溶かしていく。
**
夜。
ソファでひとり、静かにワインを飲みながら、
スマホを手に取った。
そこには、何もメッセージは届いていない。
彼は、何も急かさない。
何も求めてこない。
けれど、
その“待つ力”が――
私を、また一歩、前に進ませようとしている。
(私、この人に、何度恋をしてるんだろう)
今日だって、そう。
何度も、何度も。
彼の沈黙に、彼のやさしさに、
私は恋をしてしまっている。
**
明日。
会ったら、何か伝えよう。
ほんのひとことでもいい。
「会えてうれしい」
「今日の服、似合ってるわね」
「また、キス……してもいい?」
そんなことを、私の口から言える日が来るなんて――
少し前まで、信じられなかった。
でも今は、
ほんの少しだけ、言える気がしている。
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