幻影の婚約者

naomikoryo

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番外編⑤『幻影のもう一人』

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「ねえ、君は信じるかい? 自分の記憶が、本当に“自分のもの”だって」

その男は、静かに笑いながらそう言った。
名前は名乗らなかった。
ただ、「彼の山荘から逃げたもう一人」だとだけ、語った。

葛城誠二の山荘から、白骨死体としてではなく──かろうじて生還した男が、実在した。
警察の記録には残っていない。
なぜなら、彼は“遺体の山の中から”見つけ出されたのではなく、火災の一ヶ月前、自力で逃げ出していたからだ。

俺は、ある地方紙の記者だ。
山荘事件の真相を追っていたとき、匿名で送られてきた一通の手紙がきっかけだった。
そこには、こう書かれていた。

──「彼は、人を殺すことに迷い続けていた」
──「本当は、誰かを“守るために”牙を持っていたんだ」

葛城誠二が、人を殺していた。
それは間違いない。
証拠も遺体も、あまりにもはっきりと物語っていた。

けれど、彼に“人間らしさ”がなかったかと言えば、それは違う。
俺は、この手紙の送り主と会って、話を聞く価値があると思った。

待ち合わせ場所は、市外の古びた喫茶店だった。
昼間にも関わらず、店内は陰鬱で、重たいピアノのBGMが流れていた。

男は、痩せていた。
目の下に深い隈を浮かべ、手首には古傷の痕。
何より、声に張りがなかった。
まるで、自分がまだ“この世界に属していない”かのようだった。

彼は、語り始めた。


──あれは、四年前の冬だったという。

「俺は、死のうと思ってたんだよ。全部が嫌になってな。誰にも必要とされてないって、そう思ってた」

当時、彼は仕事を辞め、住む場所も失い、首に巻いたロープを握りしめて山へと入った。
そして、そこで葛城誠二に拾われた。

「“生きてるか?”って言われた。あの時の声、忘れられない。ひどく乾いてて、でも、温かかった」

葛城は、山荘に彼を招き入れた。
食料を分け与え、薪ストーブの前に毛布を敷いて眠らせた。
名前も聞かず、事情も尋ねず、ただ黙って、彼の世話をした。

「不思議だったよ。こんな場所に、人間が一人きりで暮らしてるなんて。しかも、何も訊かない」

ただ、夜になると、葛城は一人で地下へ降りていった。
そして、翌朝には目の下に隈を作って、何事もなかったように朝食を作る。


数日経って、男は気づいた。
この家は、何かがおかしい。
ときおり聞こえる、悲鳴のような音。
風もないのに、軋む床の音。
地下から漂う、鉄のような匂い。

そしてある晩、葛城が風呂に入っている隙に、男は地下室の鍵を盗んだ。

「……見てしまったんだよ。人の骨、縄、血の跡。ああ、ここは、地獄だったんだって思った」

逃げなければならない──そう思った。
だが、部屋に戻ると、葛城が立っていた。
風呂にも入らず、全身びしょ濡れのまま、静かにこう言ったという。

「見たな」

男は、震えながら謝った。
許してくれ、俺は誰にも言わない、と。

すると葛城は、しばらく黙った後に、ぽつりと言った。

「死にたいと思ってたんだろ? 俺も同じだ」

それから、葛城は酒を持ち出してきて、二人で飲んだ。
その夜のことを、男はずっと語らなかった。
だが、最後にこう言った。

「……あれは、ただの殺人鬼の顔じゃなかった。自分を壊して、壊して、それでも誰かの記憶を守ろうとした、哀しい顔だった」


翌朝、葛城はいなかった。
机の上には、封筒が置かれていた。
中には、数万円の現金と、こう書かれたメモ。

──「死ぬな。お前はまだ、生きていい」

男は、それを握りしめて山を降りた。
その後、葛城の事件が報道されるたびに、彼はテレビを見て泣いたという。

「あの人は、優しい人だった。壊れた人間だったけど、悪人じゃなかった。
あの山荘で見た“地獄”より、俺の胸の中にある“幻影”の方が、よほど苦しい」

俺は訊いた。

「あなたにとって、葛城誠二は何だったんですか?」

男は、しばらく黙ってから、ふっと笑った。

「命の恩人だよ。そう答えたい。けど──それだけじゃない。
彼は、俺の人生を奪った存在でもあった。
なぜなら、今の俺の人生は、あの“幻影”の続きでしかないからだ」

彼の目には、怨みも感謝もない。
あるのは、ただ“記憶に取り憑かれた人間”の表情だった。

「きっと、沙織さんも、あの人の幻影を見たんだと思うよ。
それがどんな姿だったかは、俺には分からないけど……きっと、彼女だけの幻影だったんだろう」

俺は、それ以上は何も訊けなかった。
あの山荘には、彼女と葛城だけではなく、“もう一人の幻影”がいた。
誰にも知られず、誰にも語られず、それでも生き残ってしまった者がいた。


──この話は、誰も知らなくていいのかもしれない。
けれど、記録として、残しておきたい。

これは、ただの犯罪の記録ではない。
人が人の中に生き続けてしまう、そんな“想念”の物語だ。

あの山荘には、確かに幻影がいた。
沙織の幻影。
葛城の幻影。
そして、この男の中に今も生きている、もう一人の幻影が。

それをどう呼ぶかは、もう俺たちには決められない。
ただひとつだけ言えるのは──

誰かの想いが強すぎたとき、人は、現実よりも幻を信じるのだ。
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