真夜中のリグレット ~あやかし骨董店と記憶の器~

naomikoryo

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第三話『開けてはならない手箱』

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その日、月詠堂の引き戸を静かに開けたのは、背筋のすっと伸びた、上品な老婦人だった。
薄化粧の顔には深い悲しみの色が滲んでいたが、その立ち居振る舞いには、凛とした気品が感じられた。
高遠静子と名乗った彼女は、紫色の袱紗(ふくさ)に丁重に包まれた一つの古い手箱を、そっと桐のカウンターの上に置いた。

「こちらを、拝見していただけませんでしょうか」

それは、見事な螺鈿細工が施された、黒塗りの手箱だった。
夜の闇に蝶が舞うような、幻想的な意匠。
しかし、その豪奢な美しさとは裏腹に、箱は重く、冷たい沈黙を保っている。

「先日、主人が亡くなりまして。これは、その主人の遺品にございます」

静子の夫、高遠正一は、誰に対しても誠実で、仏のように温厚な人物として知られていたという。
だが、この箱のことになると、人が変わったように頑なになった。

「私が死んでも、これだけは絶対に開けるな」
そう、何度も、強く念を押されていた、と。

「主人の遺言は守りたいのです。でも…」
静子は、そっと箱の表面を撫でた。
その指先は、愛情と、そして少しの寂しさを滲ませている。

「あの人が、私に生涯隠し通した秘密が、この中にあるような気がして。そう思うと、夜も眠れないのです。…どうか、この箱を開けずに、中に何が入っているかを知ることはできませんでしょうか」

その切実な問いに、時也は静かに頷き、手箱に手を伸ばした。

◆◇◆

時也が手箱に触れると、指先を押し返すような、強い「守り」の念を感じた。
それは呪いのような邪悪なものではない。
何かを、かけがえのない何かを大切に封じ込め、誰の目からも隠し通そうとする、悲痛で、あまりに切実な想いの力だった。

そして、その強固な守りの奥から、別の念が伝わってくる。
それは、時也の傍らにいつの間にか立っていた、白磁の君の顕現した姿が感じ取っているのと同じ種類の、か細く、凍えるような「寂しさ」の念だった。

時也は目を閉じ、意識を集中させる。
守りの念はなおも抵抗するが、構わずその記憶のさらに奥深くへと降りていく。

視えたのは、終戦直後の、一面の焼け野原。
そこで、一人の少年が、瓦礫の中を一人で彷徨っていた。
若き日の、高遠正一だ。
空襲で家族を全て亡くし、彼は天涯孤独の身だった。

腹を空かせ、生きる気力も失いかけていた彼の前に、ひょこりと現れたのは、一人の名も知らぬ少女だった。
彼より二つ、三つ、年下だろうか。
少女は、自分の分のけちな芋を半分、無言で彼に差し出した。

短い間だったが、二人は実の兄妹のように寄り添い、飢えを凌いだ。
少女はいつも、母親の形見だという小さな鈴を大切そうに握りしめていた。
ちり、ちり、と鳴るその音だけが、絶望的な世界の中の、唯一の慰めだった。
しかし、その慰めも、長くは続かない。

少女はもともと体が弱かったのだろう。
栄養失調と病で、日に日に衰弱していった。
ある寒い夜、正一の腕の中で、少女はか細い息も絶え絶えに、彼に自分の宝物である鈴を託した。

「…わすれないで」

それが、少女の最期の言葉だった。

少年だった正一は、慟哭した。
少女を救えなかった罪悪感。
彼女を忘れてしまうことへの恐怖。
その全ての想いを、彼は少女の鈴と共に、偶然手に入れた美しい手箱に封じ込めた。

「開けてはならない」という言葉は、愛する妻にさえ見せられない、辛い過去の記憶を蘇らせたくないという自己防衛。
そして同時に、少女との短い思い出を誰にも汚されたくないという、彼だけの神聖な領域(サンクチュアリ)だったのだ。

◆◇◆

時也から真実を聞かされた静子は、言葉を失った。
両手で口元を覆い、その肩が小さく震えている。

「あの人が……そんな、辛い過去を…」
五十年以上連れ添った夫が、たった一人で抱え込んできた秘密の重さ。
その事実に、彼女は静かに衝撃を受けていた。
時也はそれ以上何も言わず、静子が自分の力で事実を受け止めるのを、ただ待った。

その夜、月詠堂の電話が鳴った。
受話器の向こうから、静子の切迫した声が聞こえる。

「月詠さん…! 箱が、箱が光っているんです!」
時也が屋敷に駆けつけると、客間に置かれた手箱が、青白い光を放っていた。
そして、中から聞こえる鈴の音が、ちり、ちり、と、次第に大きく、そして悲しげに鳴り響いている。

主である正一を失ったことで、箱に宿った少女の「寂しい」「忘れないで」という想いと、今は亡き正一の「忘れたくない」という強い想いが、行き場をなくして共鳴し、暴走しかけていたのだ。
このままでは、家全体が過去の悲しい記憶に囚われ、静子の心までもが蝕まれてしまう。

◆◇◆

時也は、光る手箱の前に立ち尽くす静子に、静かに語りかけた。

「この箱を開けられるのは、おそらく、あなただけです」
「…私に?」
「旦那さんが本当に隠したかったのは、過去の辛い記憶そのものではないのかもしれません。あなたという温かい光と、幸せな家庭を得て…その辛い記憶とどう向き合えばいいのか分からなくなってしまった、彼の弱い心だったのではないでしょうか」

時也の言葉に、静子ははっとしたように顔を上げた。
彼女は意を決し、夫の遺影に優しく語りかけながら、光を放つ手箱にそっと両手を添えた。

「あなた、もういいんですよ。もう一人で、抱え込まないで。その子の分まで、私があなたをずっと、ずっと愛していましたから。これからも、愛していますから」

静子の五十年分の夫婦の愛。
夫の秘密を、その痛みも弱さも丸ごと受け入れる、海のようにより深く、そして温かい理解の念。
その想いが手箱に触れた瞬間、箱を縛り付けていた強固な「守り」の力が、ふっと陽炎のように和らいだ。

今までびくともしなかった蓋が、静子の手で、何の抵抗もなく、いとも簡単に開いた。

光が収まった箱の中には、古びて黒ずんだ、一つの小さな鈴が、ぽつんと入っているだけだった。

りん、と一度だけ、夜の静寂に吸い込まれるように澄んだ音がすると、鈴の音はもう二度と聞こえなかった。
少女の魂は、正一の長年の想いと、静子の優しい愛によって、ようやく安らかに天へと昇っていったのだ。

◆◇◆

後日。

静子が、晴れやかな顔で再び月詠堂を訪れた。

「月詠さんのおかげで、ようやく主人と本当の意味で一つになれた気がします」
彼女は、夫と、そして名も知らぬ少女の生きた証として、あの鈴を今、自分の手元で大切に供養しているという。

静子が帰った後、時也は一人、店で茶を啜っていた。
いつの間にか、彼の傍らには白磁の君が、ちょこんと座っている。
時也は、その小さな頭をそっと撫でた。

「…寂しく、なかったな」
それは、手箱の少女へ向けた言葉か、目の前のあやかしへ向けた言葉か。

白磁の君は、こくりと一つ頷くと、時也の着物の袖を、いつもより少しだけ強く、小さな手で握りしめるのだった。
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