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第四話『魂を奏でる琴』
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その日、月詠堂に持ち込まれたのは、一つの古い琴だった。
依頼主は、久保詩織と名乗る、旧家の奥様らしき気品のある婦人。彼女は、桐の立派な箱に納められたその琴を、どこか忌まわしげなものを見る目で見ていた。
「夜になりますと、これが勝手に鳴り出すのです。誰もいない蔵の中で、それはそれは悲しい音色で…」
『鳴き龍』の銘を持つその琴は、見事な蒔絵と螺鈿の装飾が施された、まさしく家宝と呼ぶにふさわしい逸品だった。しかし、詩織は「気味が悪いので、もう金輪際鳴らないようにしてほしいのです。いっそ、壊してしまっても構わないとさえ…」とまで思い詰めている様子だった。
時也が、そっと琴に触れる。
その瞬間、指先から叩きつけられるような、激しい感情の奔流が流れ込んできた。恋人を奪われた深い悲しみ。裏切られたことへの怒り。そして、己を陥れた者とその血筋に対する、殺意にも似た激しい憎悪。
「……これは」
並のあやかしではない。長い年月を経て、その怨念は強力な呪いへと変質しかけている。
「分かりました。この琴、お預かりします」
時也は、静かにそう告げた。
◆◇◆
店の奥で、時也は改めて琴の記憶を深く読み解いた。
視えたのは、江戸の夜。盲目の、しかし類稀なる才能を持った琴の奏者。彼は、ある武家の娘と深く愛し合っていた。だが、同じ娘を想う裕福な商人がその恋を妬み、男を騙して夜の崖へと誘い出し、その背中を突き落としたのだ。
――*アア、許セヌ。アノ男モ、ソノ血ヲ引ク者モ、未来永劫呪ッテヤル。*
――*モウ一度、アノ人ニ会イタイ。私ノ唄ヲ、聞イテホシイ。*
復讐心と未練。二つの相反する強い想いが、琴を危険な存在へと変えていた。
翌日、時也が突き止めた事実を詩織に電話で伝えると、彼女は息を呑み、そして震える声で告白した。自分の嫁ぎ先である久保家が、まさにその物語に出てくる商人の一族の末裔である、と。
「では、あの琴は、我が家を呪うために…?」
「そうとも言えます。しかし、同時に、ただ恋しい人に会いたいと願う、悲しい魂でもあるのです」
時也がそう答えた、その日の夕方のことだった。
からん、と店の引き戸が開き、場違いなほど洗練された、モダンなスーツを着こなした青年が立っていた。
「やあ。素晴らしい『ゴースト』がここにあると聞いてね」
有栖川玲。会員制ギャラリーのオーナーという表の顔と、曰く付きの品を売りさばく闇ブローカーという裏の顔を持つ男。時也とは、これまでにも何度か、あやかしの品を巡ってニアミスを繰り返してきた因縁の相手だった。
「久保家の蔵が出入りする業者から、面白い噂を聞きつけてね。夜な夜な鳴り出す、呪いの琴。…まさか、君のような古物商が横から掻っ攫っていくとは思わなかったな」
有栖川は、店の中を見回し、琴を見つけると、愉しげに目を細めた。
「これは素晴らしい! この悲しみ、この怨念! これこそが一級品の『ゴースト』の証だ!」
彼は琴を、まるで芸術品でも鑑定するように眺めると、時也に向き直って言い放った。
「この琴、僕に譲ってくれないか? 海外の有名な音楽プロデューサーが、こういう『本物』のホラー楽器を血眼で探しているんだ。数千万の値はつくだろう。君も、その方が儲かるだろう?」
「断る。これは、鎮めるべき魂だ。商品じゃない」
「感傷的だなあ」
有栖川は心底つまらなそうに肩をすくめると、ジャケットの内ポケットから特殊な金属でできた、一本の音叉を取り出した。彼はそれを軽く指で弾き、琴のそばにかざす。
キィン、という甲高い金属音。それに呼応するように、琴が、ぎぃん!と弦が軋むほどの音を立て、これまで以上に激しく、そして悲痛な音色を店内に響かせ始めた。
「ほら、素晴らしい音楽だ。これがこの品の真の価値なんだよ」
◆◇◆
有栖川の「チューニング」と彼が呼ぶ行為によって、琴のあやかしは完全に暴走を始めた。増幅された復讐の念が、標的である商人の末裔、久保詩織の気配を嗅ぎつけ、牙を剥く。
店の外から、甲高い悲鳴が聞こえた。時也が表に飛び出すと、月詠堂の様子を見に来たのであろう詩織が、店の前で腰を抜かしていた。彼女の目の前で、琴の弦が、内側からの力で数本、凄まじい勢いで切れ、その鋭い切っ先が詩織に向かって飛来する。
「危ない!」
時也が咄嗟に詩織をかばい、飛んできた弦が彼の腕を浅く切り裂いた。赤い血が、着物の袖を濡らす。
「これが君のやり方か!」
時也は、傍らで面白そうにその光景を眺めている有栖川に怒りをぶつけた。
「もちろん違うさ。これは、この『ゴースト』自身のやり方だよ。面白いショーじゃないか。商品価値が上がっていくのがリアルタイムで見られるなんて、最高だ」
有栖川は、目を輝かせながらそう言った。彼の目には、詩織の恐怖も、時也の痛みも、一切映っていない。ただ、現象としての「あやかしの暴走」を観察し、その価値を値踏みしているだけだ。
暴走したあやかしの力は強力で、時也一人では抑えきれない。背後から、顕現した玄翁の怒声が飛んだ。
「小僧! 物に宿るは持ち主の念だけではない! それを作り上げた職人の魂も宿っておるわ! それを思い出せ!」
◆◇◆
玄翁の言葉に、時也ははっとした。そうだ。この琴には、盲目の奏者の怨念だけではなく、この琴を何十年もかけて作り上げた名工の、純粋な想いも眠っているはずだ。
『良い音を奏でてほしい』
『多くの人の心を、この音色で癒してほしい』
時也は、奏者の記憶ではなく、その奥にある、作り手の魂に心で語りかけた。力を貸してくれ、と。
そして、彼は、自らの血が滲む指で、琴の弦を、そっと弾いた。
ぽろん、と鳴った音は、奏者が生前、ただ一人、愛する女性のためだけに奏でた、穏やかで優しいオリジナルの愛の唄だった。
作り手の想いと、奏者の純粋な恋の記憶が共鳴し、復讐の念に染まっていたあやかしの心が、ゆっくりと、しかし確実に鎮まっていく。
琴の音色が、激しい憎悪のものから、穏やかで、どこか寂しさを残した美しい愛の旋律に変わっていく。やがて、あやかしは深い眠りにつき、琴は完全に沈黙した。
「……チッ。一級品の『ゴースト』を、ただのガラクタにしちまったか」
面白くなさそうに、有栖川玲が吐き捨てた。
「君は本当に、商売が下手だね、月詠時也」
彼はそう言い残し、つまらなそうに踵を返すと、闇の中へと消えていった。
◆◇◆
後日。
詩織が再び月詠堂を訪れ、
「あの琴を、どうかここで預かっていただけないでしょうか。そして時々、弾いてあげてください」
と時也に深く頭を下げた。
時也は、静かになった『鳴き龍』を、店の奥の間に置いた。
そして時折、自分でその弦を弾いては、叶わなかった恋の唄を、鎮魂歌のように、静かに奏でてやるのだった。
依頼主は、久保詩織と名乗る、旧家の奥様らしき気品のある婦人。彼女は、桐の立派な箱に納められたその琴を、どこか忌まわしげなものを見る目で見ていた。
「夜になりますと、これが勝手に鳴り出すのです。誰もいない蔵の中で、それはそれは悲しい音色で…」
『鳴き龍』の銘を持つその琴は、見事な蒔絵と螺鈿の装飾が施された、まさしく家宝と呼ぶにふさわしい逸品だった。しかし、詩織は「気味が悪いので、もう金輪際鳴らないようにしてほしいのです。いっそ、壊してしまっても構わないとさえ…」とまで思い詰めている様子だった。
時也が、そっと琴に触れる。
その瞬間、指先から叩きつけられるような、激しい感情の奔流が流れ込んできた。恋人を奪われた深い悲しみ。裏切られたことへの怒り。そして、己を陥れた者とその血筋に対する、殺意にも似た激しい憎悪。
「……これは」
並のあやかしではない。長い年月を経て、その怨念は強力な呪いへと変質しかけている。
「分かりました。この琴、お預かりします」
時也は、静かにそう告げた。
◆◇◆
店の奥で、時也は改めて琴の記憶を深く読み解いた。
視えたのは、江戸の夜。盲目の、しかし類稀なる才能を持った琴の奏者。彼は、ある武家の娘と深く愛し合っていた。だが、同じ娘を想う裕福な商人がその恋を妬み、男を騙して夜の崖へと誘い出し、その背中を突き落としたのだ。
――*アア、許セヌ。アノ男モ、ソノ血ヲ引ク者モ、未来永劫呪ッテヤル。*
――*モウ一度、アノ人ニ会イタイ。私ノ唄ヲ、聞イテホシイ。*
復讐心と未練。二つの相反する強い想いが、琴を危険な存在へと変えていた。
翌日、時也が突き止めた事実を詩織に電話で伝えると、彼女は息を呑み、そして震える声で告白した。自分の嫁ぎ先である久保家が、まさにその物語に出てくる商人の一族の末裔である、と。
「では、あの琴は、我が家を呪うために…?」
「そうとも言えます。しかし、同時に、ただ恋しい人に会いたいと願う、悲しい魂でもあるのです」
時也がそう答えた、その日の夕方のことだった。
からん、と店の引き戸が開き、場違いなほど洗練された、モダンなスーツを着こなした青年が立っていた。
「やあ。素晴らしい『ゴースト』がここにあると聞いてね」
有栖川玲。会員制ギャラリーのオーナーという表の顔と、曰く付きの品を売りさばく闇ブローカーという裏の顔を持つ男。時也とは、これまでにも何度か、あやかしの品を巡ってニアミスを繰り返してきた因縁の相手だった。
「久保家の蔵が出入りする業者から、面白い噂を聞きつけてね。夜な夜な鳴り出す、呪いの琴。…まさか、君のような古物商が横から掻っ攫っていくとは思わなかったな」
有栖川は、店の中を見回し、琴を見つけると、愉しげに目を細めた。
「これは素晴らしい! この悲しみ、この怨念! これこそが一級品の『ゴースト』の証だ!」
彼は琴を、まるで芸術品でも鑑定するように眺めると、時也に向き直って言い放った。
「この琴、僕に譲ってくれないか? 海外の有名な音楽プロデューサーが、こういう『本物』のホラー楽器を血眼で探しているんだ。数千万の値はつくだろう。君も、その方が儲かるだろう?」
「断る。これは、鎮めるべき魂だ。商品じゃない」
「感傷的だなあ」
有栖川は心底つまらなそうに肩をすくめると、ジャケットの内ポケットから特殊な金属でできた、一本の音叉を取り出した。彼はそれを軽く指で弾き、琴のそばにかざす。
キィン、という甲高い金属音。それに呼応するように、琴が、ぎぃん!と弦が軋むほどの音を立て、これまで以上に激しく、そして悲痛な音色を店内に響かせ始めた。
「ほら、素晴らしい音楽だ。これがこの品の真の価値なんだよ」
◆◇◆
有栖川の「チューニング」と彼が呼ぶ行為によって、琴のあやかしは完全に暴走を始めた。増幅された復讐の念が、標的である商人の末裔、久保詩織の気配を嗅ぎつけ、牙を剥く。
店の外から、甲高い悲鳴が聞こえた。時也が表に飛び出すと、月詠堂の様子を見に来たのであろう詩織が、店の前で腰を抜かしていた。彼女の目の前で、琴の弦が、内側からの力で数本、凄まじい勢いで切れ、その鋭い切っ先が詩織に向かって飛来する。
「危ない!」
時也が咄嗟に詩織をかばい、飛んできた弦が彼の腕を浅く切り裂いた。赤い血が、着物の袖を濡らす。
「これが君のやり方か!」
時也は、傍らで面白そうにその光景を眺めている有栖川に怒りをぶつけた。
「もちろん違うさ。これは、この『ゴースト』自身のやり方だよ。面白いショーじゃないか。商品価値が上がっていくのがリアルタイムで見られるなんて、最高だ」
有栖川は、目を輝かせながらそう言った。彼の目には、詩織の恐怖も、時也の痛みも、一切映っていない。ただ、現象としての「あやかしの暴走」を観察し、その価値を値踏みしているだけだ。
暴走したあやかしの力は強力で、時也一人では抑えきれない。背後から、顕現した玄翁の怒声が飛んだ。
「小僧! 物に宿るは持ち主の念だけではない! それを作り上げた職人の魂も宿っておるわ! それを思い出せ!」
◆◇◆
玄翁の言葉に、時也ははっとした。そうだ。この琴には、盲目の奏者の怨念だけではなく、この琴を何十年もかけて作り上げた名工の、純粋な想いも眠っているはずだ。
『良い音を奏でてほしい』
『多くの人の心を、この音色で癒してほしい』
時也は、奏者の記憶ではなく、その奥にある、作り手の魂に心で語りかけた。力を貸してくれ、と。
そして、彼は、自らの血が滲む指で、琴の弦を、そっと弾いた。
ぽろん、と鳴った音は、奏者が生前、ただ一人、愛する女性のためだけに奏でた、穏やかで優しいオリジナルの愛の唄だった。
作り手の想いと、奏者の純粋な恋の記憶が共鳴し、復讐の念に染まっていたあやかしの心が、ゆっくりと、しかし確実に鎮まっていく。
琴の音色が、激しい憎悪のものから、穏やかで、どこか寂しさを残した美しい愛の旋律に変わっていく。やがて、あやかしは深い眠りにつき、琴は完全に沈黙した。
「……チッ。一級品の『ゴースト』を、ただのガラクタにしちまったか」
面白くなさそうに、有栖川玲が吐き捨てた。
「君は本当に、商売が下手だね、月詠時也」
彼はそう言い残し、つまらなそうに踵を返すと、闇の中へと消えていった。
◆◇◆
後日。
詩織が再び月詠堂を訪れ、
「あの琴を、どうかここで預かっていただけないでしょうか。そして時々、弾いてあげてください」
と時也に深く頭を下げた。
時也は、静かになった『鳴き龍』を、店の奥の間に置いた。
そして時折、自分でその弦を弾いては、叶わなかった恋の唄を、鎮魂歌のように、静かに奏でてやるのだった。
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