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第六話『蔵からの声』
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その異変は、夏の盛りの、蝉時雨が容赦なく降り注ぐ昼下がりに始まった。
じっとりとした湿気と熱気が支配するはずの月詠堂の店内に、どこからか、ひやりとした冷気が漂い始めたのだ。
床を撫でるその冷気は、まるで意思を持つ生き物のように、店の最も奥、裏庭に面した白壁の土蔵の方から、静かに這い出してきているようだった。
「…何だか、嫌な感じがするわね」
琥珀が、いつもの悪戯っぽい笑みを消し、眉をひそめた。
彼女だけではない。
店のあやかしたちが、皆、落ち着きをなくしていた。
普段は物怖じ一つしない玄翁でさえ、店の奥を睨みつけ、厳しい顔で腕を組んでいる。
そして、白磁の君は、何かにひどく怯えるように、時也の着物の袖を固く、固く握りしめていた。
夜になると、異変はさらに顕著になった。
蔵の中から、声が聞こえるのだ。
それは誰か一人の声ではない。
まるで、大勢の人間が同時に、しかし何を言っているのか聞き取れないほど小さく囁くような、あるいは、地の底から直接脳に響いてくるような、不気味な声だった。
ちり、ちり、と風鈴が鳴る涼やかな音に混じって、その囁き声は、月詠堂の静寂をじわじわと、確実に蝕んでいった。
◆◇◆
数日が経ち、囁き声はもはや無視できないほど大きくなっていた。
時也は意を決し、月詠堂の禁域である、蔵の前に立った。
重厚な観音開きの扉。
そこには、祖父が自らの手で書いたであろう、梵字が連なる護符が幾重にも貼られている。
子供の頃、祖父から「この蔵だけは、決して興味本位で開けてはならない」と、ただ一度だけ、真剣な顔で言い含められた場所。
時也も、その言いつけをずっと守ってきた。
時也が、覚悟を決め、扉の護符に手を触れる。
その瞬間、叩きつけられた。
これまで感じたことのない、あまりに強大で、混沌とした念の奔流に。
それは、特定の個人の記憶や感情ではなかった。
憎悪、悲哀、渇望、嫉妬、後悔。
様々な時代の、無数の人間の、およそありとあらゆる負の感情が、巨大な一つの塊となって渦巻いている。
これは、あやかしなどという生易しいものではない。怨念の集合体そのものだ。
「ぐっ…!」
時也は、そのあまりの力に思わず後ずさった。
蔵の中身に直接触れるのは危険すぎる。
彼は方針を変え、扉に貼られた「護符」そのものに意識を集中させた。
そこに込められた、祖父の記憶を読み解くために。
時也の脳裏に、数十年以上前の、嵐の夜の光景が流れ込んできた。
若き日の祖父が、髪を振り乱し、血を吐くような形相で、蔵の扉に次々と護符を貼り付けていく。
彼は一人ではなかった。
見たこともない、数人の僧侶や修験者のような者たちが、皆、必死の形相で経文を唱え、何かを封じ込める儀式を行っている。
いつも悠然と笑っていた、時也の記憶の中の祖父とは似ても似つかない。
恐怖と焦りに顔を歪ませた、初めて見る祖父の姿だった。
『――すまない…ワシの手に余る…!これ以上は無理だ、封じるしかない!』
祖父の悲痛な叫びと共に、蔵の扉は固く、固く閉ざされた。
時也は、そこで意識を引き戻した。
全身に、冷たい汗が噴き出している。
祖父がただ、曰く付きの品々を保護し、宥め、すかしていただけではなかったこと。
そして自分の知らない、壮絶な「戦い」があったことを、彼は初めて知った。
◆◇◆
蔵の異変は、日を追うごとに強くなっていく。
護符の力が弱まっているのか、扉がひとりでにガタガタと激しく揺れ、内側から何か巨大なものが扉を叩くような、重い衝撃音が月詠堂全体に響き渡るようになった。
あやかしたちも、もはや顕現した姿を保つことさえ辛そうにしていた。
そんな緊迫した月詠堂に、あの男は、まるで招待客のようにふらりと現れた。
「素晴らしいじゃないか、月詠くん。これほどのエネルギーの奔流は、僕も初めてだ。一体、何が起きているんだい?」
有栖川玲。
彼は、恐怖するどころか、未知の現象を前にした科学者のように、子供のように目を輝かせている。
月詠堂に渦巻く、この禍々しいまでの力を、彼は即座に感知していた。
「これは、一級品のゴーストどころじゃないな。まるで無数の魂が寄り集まった、神話級の存在…言うなれば『レギオン』だ」
有栖川は、恍惚とした表情で蔵を見つめ、そう評した。
彼の目的は、もはや金儲けなどという下世話なものではない。
その規格外の力を自分の支配下に置くこと。
あるいは、その力が解放される瞬間を最後まで観測し、貴重なデータとして収集すること。
ただ、それだけだった。
◆◇◆
「帰れ、有栖川。ここは、君のような人間がいていい場所じゃない」
時也は、怒りを込めて言った。だが、有栖川は面白そうに肩をすくめるだけだ。
「何を言っているんだい? これから、この世界で最も刺激的なショーが始まるかもしれないんだ。特等席で見させてもらうよ」
その挑発的な言動に、時也の怒りが頂点に達した、まさにその瞬間だった。
ぱりん。
乾いた、薄いガラスが割れるような、小さな音がした。
見ると、蔵の扉に貼られていた護符の一枚が、中央からくっきりと裂けている。
そして、その裂け目から、どす黒い煙のような怨念が、まるで意思を持つ生き物のように、するりと漏れ出した。
次の瞬間、蔵全体が、地震のように大きく震動した。
ミシリ、と、建物全体が嫌な音を立てて軋む。
そして、重厚な扉の真ん中に、一本の、大きな亀裂が入った。
中から、これまでとは比べ物にならないほどの、濃密な怨念と、骨身を刺すような冷気が、濁流となって溢れ出してきた。
「おっと、ショーの始まりか」
有栖川は面白そうに呟き、店の入り口近くまで下がって、腕を組み、傍観の体勢に入った。
「せいぜい、楽しませてくれよ、月詠時也」
時也は、溢れ出す怨念の奔流を前に、立ち尽くす。
これは、これまでのように個人の想いを解き放てば済む話ではない。
祖父が、その仲間たちと共に、命懸けで封じた月詠堂最大の禁忌。
時也は、自分がその存在理由すら知らなかった「負の遺産」と、今、たった一人で向き合わなければならないことを悟った。
ライバルが見守る中で、月詠堂の最も長く、そして暗い夜が、始まろうとしていた。
じっとりとした湿気と熱気が支配するはずの月詠堂の店内に、どこからか、ひやりとした冷気が漂い始めたのだ。
床を撫でるその冷気は、まるで意思を持つ生き物のように、店の最も奥、裏庭に面した白壁の土蔵の方から、静かに這い出してきているようだった。
「…何だか、嫌な感じがするわね」
琥珀が、いつもの悪戯っぽい笑みを消し、眉をひそめた。
彼女だけではない。
店のあやかしたちが、皆、落ち着きをなくしていた。
普段は物怖じ一つしない玄翁でさえ、店の奥を睨みつけ、厳しい顔で腕を組んでいる。
そして、白磁の君は、何かにひどく怯えるように、時也の着物の袖を固く、固く握りしめていた。
夜になると、異変はさらに顕著になった。
蔵の中から、声が聞こえるのだ。
それは誰か一人の声ではない。
まるで、大勢の人間が同時に、しかし何を言っているのか聞き取れないほど小さく囁くような、あるいは、地の底から直接脳に響いてくるような、不気味な声だった。
ちり、ちり、と風鈴が鳴る涼やかな音に混じって、その囁き声は、月詠堂の静寂をじわじわと、確実に蝕んでいった。
◆◇◆
数日が経ち、囁き声はもはや無視できないほど大きくなっていた。
時也は意を決し、月詠堂の禁域である、蔵の前に立った。
重厚な観音開きの扉。
そこには、祖父が自らの手で書いたであろう、梵字が連なる護符が幾重にも貼られている。
子供の頃、祖父から「この蔵だけは、決して興味本位で開けてはならない」と、ただ一度だけ、真剣な顔で言い含められた場所。
時也も、その言いつけをずっと守ってきた。
時也が、覚悟を決め、扉の護符に手を触れる。
その瞬間、叩きつけられた。
これまで感じたことのない、あまりに強大で、混沌とした念の奔流に。
それは、特定の個人の記憶や感情ではなかった。
憎悪、悲哀、渇望、嫉妬、後悔。
様々な時代の、無数の人間の、およそありとあらゆる負の感情が、巨大な一つの塊となって渦巻いている。
これは、あやかしなどという生易しいものではない。怨念の集合体そのものだ。
「ぐっ…!」
時也は、そのあまりの力に思わず後ずさった。
蔵の中身に直接触れるのは危険すぎる。
彼は方針を変え、扉に貼られた「護符」そのものに意識を集中させた。
そこに込められた、祖父の記憶を読み解くために。
時也の脳裏に、数十年以上前の、嵐の夜の光景が流れ込んできた。
若き日の祖父が、髪を振り乱し、血を吐くような形相で、蔵の扉に次々と護符を貼り付けていく。
彼は一人ではなかった。
見たこともない、数人の僧侶や修験者のような者たちが、皆、必死の形相で経文を唱え、何かを封じ込める儀式を行っている。
いつも悠然と笑っていた、時也の記憶の中の祖父とは似ても似つかない。
恐怖と焦りに顔を歪ませた、初めて見る祖父の姿だった。
『――すまない…ワシの手に余る…!これ以上は無理だ、封じるしかない!』
祖父の悲痛な叫びと共に、蔵の扉は固く、固く閉ざされた。
時也は、そこで意識を引き戻した。
全身に、冷たい汗が噴き出している。
祖父がただ、曰く付きの品々を保護し、宥め、すかしていただけではなかったこと。
そして自分の知らない、壮絶な「戦い」があったことを、彼は初めて知った。
◆◇◆
蔵の異変は、日を追うごとに強くなっていく。
護符の力が弱まっているのか、扉がひとりでにガタガタと激しく揺れ、内側から何か巨大なものが扉を叩くような、重い衝撃音が月詠堂全体に響き渡るようになった。
あやかしたちも、もはや顕現した姿を保つことさえ辛そうにしていた。
そんな緊迫した月詠堂に、あの男は、まるで招待客のようにふらりと現れた。
「素晴らしいじゃないか、月詠くん。これほどのエネルギーの奔流は、僕も初めてだ。一体、何が起きているんだい?」
有栖川玲。
彼は、恐怖するどころか、未知の現象を前にした科学者のように、子供のように目を輝かせている。
月詠堂に渦巻く、この禍々しいまでの力を、彼は即座に感知していた。
「これは、一級品のゴーストどころじゃないな。まるで無数の魂が寄り集まった、神話級の存在…言うなれば『レギオン』だ」
有栖川は、恍惚とした表情で蔵を見つめ、そう評した。
彼の目的は、もはや金儲けなどという下世話なものではない。
その規格外の力を自分の支配下に置くこと。
あるいは、その力が解放される瞬間を最後まで観測し、貴重なデータとして収集すること。
ただ、それだけだった。
◆◇◆
「帰れ、有栖川。ここは、君のような人間がいていい場所じゃない」
時也は、怒りを込めて言った。だが、有栖川は面白そうに肩をすくめるだけだ。
「何を言っているんだい? これから、この世界で最も刺激的なショーが始まるかもしれないんだ。特等席で見させてもらうよ」
その挑発的な言動に、時也の怒りが頂点に達した、まさにその瞬間だった。
ぱりん。
乾いた、薄いガラスが割れるような、小さな音がした。
見ると、蔵の扉に貼られていた護符の一枚が、中央からくっきりと裂けている。
そして、その裂け目から、どす黒い煙のような怨念が、まるで意思を持つ生き物のように、するりと漏れ出した。
次の瞬間、蔵全体が、地震のように大きく震動した。
ミシリ、と、建物全体が嫌な音を立てて軋む。
そして、重厚な扉の真ん中に、一本の、大きな亀裂が入った。
中から、これまでとは比べ物にならないほどの、濃密な怨念と、骨身を刺すような冷気が、濁流となって溢れ出してきた。
「おっと、ショーの始まりか」
有栖川は面白そうに呟き、店の入り口近くまで下がって、腕を組み、傍観の体勢に入った。
「せいぜい、楽しませてくれよ、月詠時也」
時也は、溢れ出す怨念の奔流を前に、立ち尽くす。
これは、これまでのように個人の想いを解き放てば済む話ではない。
祖父が、その仲間たちと共に、命懸けで封じた月詠堂最大の禁忌。
時也は、自分がその存在理由すら知らなかった「負の遺産」と、今、たった一人で向き合わなければならないことを悟った。
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