真夜中のリグレット ~あやかし骨董店と記憶の器~

naomikoryo

文字の大きさ
7 / 25

第七話『澱の名』

しおりを挟む
ぱりん、と乾いた音が響いたその瞬間、月詠堂の時は止まった。
蔵の扉に走った亀裂から、どす黒い煙が、まるで意思を持つように溢れ出す。
それは単なる煙ではなかった。
無数の囁き声と、嘆きと、呪詛が混じり合った不協和音を響かせながら、月詠堂の床を、壁を、天井を、黒く、黒く染め上げていく。
怨念の集合体――時也は、そのあまりの禍々しさに、直感的に名をつけた。
これは、あらゆる魂が腐り落ちて底に溜まった、「澱(おり)」だと。

店内の空気が、鉛のように重くなる。
いや、空気だけではない。
空間そのものが、澱の怨念によって捻じ曲げられていくかのようだ。
店の奥にいた琥珀と玄翁が、うめき声と共にその場に膝をついた。
顕現した姿が陽炎のように揺らぎ、その輪郭を保つことさえできなくなっている。

「主様…っ!」

琥珀のかすれた声が響く。
そして、時也の袖を固く握りしめていた白磁の君は、まるで猛毒に当てられたかのように小さく震え、その姿が急速に透け始めていた。
彼女の純粋な魂は、このどこまでも淀んだ怨念に対して、最も抵抗力がなかった。

◆◇◆

澱は、明確な意思を持って、最も純粋で、最も弱い魂を持つ白磁の君を最初の標的として定めた。
黒い煙の一部が、ぬるりと、一本の黒い触手のように形を変え、消え入りそうな白磁の君を吸収せんと迫る。

「――させるか!」

時也は咄嗟に、自らの霊力の全てを、青白い光の防壁として展開した。
淡い光のドームが、時也と、彼の背後にいる三体のあやかしを、かろうじて包み込む。

だが、その防壁は、澱が奔流のように押し寄せると、ガラス細工のように激しく揺らぎ、軋んだ。
これまで時也が相手にしてきたのは、物語を持つ、個の魂だった。
だが、これは違う。
無数の魂が、それぞれの物語を失い、ただの負の感情の塊と化したもの。
そのあまりの質量に、時也の力が真っ向から押し返される。
立っているだけで、魂が削られていくような感覚だった。

「無駄なことを」

店の入り口で腕を組んで傍観していた有栖川が、心底面白そうに呟いた。

「それは一個の『ゴースト』じゃない。君がこれまで相手にしてきたような、感傷的なおとぎ話の住人じゃないんだ。それは、無数の後悔が寄り集まっただけの、ただの『澱』だよ。君の得意な『対話』とやらができる相手じゃないぞ」

有栖川の言葉は、冷たい刃物のように、時也にこの脅威がこれまでとは全く異質であることを突きつけた。

◆◇◆

有栖川の言う通りだった。
澱には、読み解くべき中心的な記憶も、物語も存在しない。
時也が防壁越しに澱に触れても、脳裏に流れ込んでくるのは、憎悪、悲しみ、苦しみ、嫉妬、後悔――無数の魂の、おぞましい断末魔の叫びだけ。
その奔流に、時也自身の意識も飲み込まれ、引き裂かれそうになる。

防壁を維持しながらでは、じきに霊力が尽きる。
それは、誰の目にも明らかだった。

「主様、もうおよしになって! あなたまで…!」
「小僧!無茶だ!」

琥珀と玄翁の悲痛な叫びが聞こえる。
だが、ここで防壁を解けば、最も弱っている白磁の君が、一瞬で澱に飲み込まれるだろう。
絶望的な状況の中、時也は一縷の望みをかけて、最後の賭けに出た。
あえて自らの意識を、危険極まりない怨念の奔流の、さらに奥深くへと投じたのだ。
澱の「核」――あるいは、「発生源」を見つけ出すために。

憎悪の渦の中心へ、さらに中心へ。
意識が何千もの声に引き裂かれそうになる。
だが、時也はその苦痛に耐え、さらに深くへと潜っていった。
そして、見つけた。
怨念の奔流の中に、たった一つだけ、異質な「祈り」の念が混じっているのを。

それは、暗黒の海に灯る、か細い灯台の光のようだった。
時也はその光を頼りに、澱の渦の中心へとたどり着く。
そこに在ったのは、おびただしい黒い怨念に染まり、その表情さえも判然としなくなっていたが、しかし、静かに座禅を組む、一つの石像だった。
子供や旅人を見守る守護尊、「地蔵菩薩像」。

◆◇◆

その姿を見た瞬間、時也は直感した。
この地蔵像こそが、祖父が澱を封じるために、蔵の中心に置いた最後の切り札だったのだと。

地蔵像は、本来、溢れ出す怨念をその身に吸収し、鎮めるための慈悲の「器」だった。
しかし、あまりに長い年月、あまりに強大な怨念を吸い続けた結果、その慈悲の心さえも怨念に飲み込まれ、澱の発生源となる「呪われた核」へと変貌してしまっていたのだ。

澱そのものは浄化できない。
だが、核である地蔵像を解放し、その本来の力を取り戻させることさえできれば、澱は拠り所を失い、霧散するかもしれない。
時也は、絶望の暗闇の中に、一条の光を見出した。

だが、時也の意図を察したかのように、澱の動きが、がらりと変わった。
これまで無作為に防壁を叩いていた怨念が、明確な殺意をもって、時也の張った防壁の一点に、津波のように集中した。

バキンッ!!

甲高い音と共に、時也の霊力の壁が、粉々に打ち砕かれた。

「ぐっ…ぁっ!」

防壁を破られ、凄まじい怨念の奔流に直接叩きつけられた時也は、激しく咳き込み、その場に片膝をついた。
その一瞬の隙を突き、澱の黒い触手が、蛇のように、最も弱っている白磁の君に襲いかかる。

「面白い。実に面白いじゃないか、月詠時也」

有栖川は、その絶望的な光景を前に、恍惚とした笑みを浮かべていた。
為す術なく、目の前で「家族」が吸収されようとしている。
時也は、ただそれを見ていることしかできないのか。

月詠堂の、最も暗い夜は、まだ明ける気配すらなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

身代わり召喚された俺は四人の支配者に溺愛される〜囲い込まれて逃げられません〜

たら昆布
BL
間違って異世界召喚された青年が4人の男に愛される話

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

人間嫌いの狐王に、契約妻として嫁いだら溺愛が止まりません

由香
ファンタジー
人間嫌いで知られる狐族の王・玄耀に、“契約上の妻”として嫁いだ少女・紗夜。 「感情は不要。契約が終われば離縁だ」 そう告げられたはずなのに、共に暮らすうち、冷酷な王は彼女だけに甘さを隠さなくなっていく。 やがて結ばれる“番”の契約、そして王妃宣言――。 契約結婚から始まる、人外王の溺愛が止まらない和風あやかし恋愛譚。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

【完結】あやかし団地 管理人見習い日誌

双月ねむる
キャラ文芸
就活全滅で「自分には社会性がない」と思い込む凛は、遠縁の親戚に紹介され、昭和レトロな巨大団地・さくらヶ丘第一団地の『管理人見習い』として住み込みで働くことに。しかしその団地には、中庭の「靴鳴らし」、エレベーター表示盤に棲む狐など、団地限定あやかし達が当たり前のように暮らしていた。 最初は逃げ腰の凛だったが、すねた空き部屋や、ベランダの風鈴が告げるSOSなど、人とあやかしのトラブルに巻き込まれながら、少しずつ『共同体』に関わる勇気を取り戻していく。

処理中です...