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第八話『地蔵の祈り』
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時也の霊力によって張られた防壁が、ガラスのように砕け散った。
その瞬間、澱の黒い触手が、蛇のように、最も弱っている白磁の君に襲いかかる。
もはや抵抗する力も残っていない時也は、ただ、目の前の絶望的な光景を見つめることしかできなかった。
「――主様!」
琥珀の悲鳴が響く。
だが、彼女も金縛りにあったように動けない。
終わりだ。
時也がそう思った、その刹那。
「――主様の前で、好き勝手はさせんッ!!」
地の底から響くような、怒りの咆哮。
時也の前に、巨大な影が立ちはだかった。
玄翁である。
「玄翁!」
顕現した姿のまま、彼は、怨念の塊である澱の触手の前に、まるで城門の如く仁王立ちしていた。
物理的な攻撃など、この形のない怨念に通じるはずがない。
だが、彼の全身から放たれる、凄まじい気迫――何百年もの間、ただひたすらに「物を創り、守り抜いてきた職人の魂」そのものが、澱の混沌とした怨念の進行を、確かに、一瞬だけ怯ませ、鈍らせた。
◆◇◆
玄翁が稼いだのは、わずか一秒か、二秒。
だが、それは、時也を絶望の淵から引き戻すには十分な時間だった。
(核を…あの地蔵を浄化するしかない…!)
だが、霊力はほぼ尽きている。
時間も、ない。
万策尽きた。
いや――
時也は、最後の力を振り絞り、部屋の隅で、この世の終わりのような光景を、恍惚と観察している唯一の協力者候補に叫んだ。
「有栖川ッ…! 時間を稼いでくれ!」
有栖川は、一瞬、きょとんとした顔で時也を見た後、心底おかしそうに噴き出した。
「はっ! 僕に何の得がある? このまま君たちが、あの美しい『澱』と一つになるのを見る方が、よほど面白いじゃないか」
「このままでは、ここにあるもの全てが、お前の言う『観測装置』ごと、壊れるぞ!」
時也の叫びに、有栖川の表情が、初めてわずかに変わった。
彼の持つ異常なまでの分析能力が、時也の言葉を肯定していた。
澱の力が、もはや月詠堂という空間だけに留まらず、外の世界の理(ことわり)そのものにまで、悪影響を及ぼし始めていることを。
彼の言う「ショー」が、舞台ごと崩壊しかねないことを。
「……チッ。観測装置が壊れてしまっては元も子もないか」
彼の目的は、あくまで「観測」と「支配」。
制御不能な混沌は、彼の美学に反する。
「いいだろう。ただし、これは貸しだからな。利子は高くつくぞ、月詠時也」
有栖川はそう言うと、ジャケットの内側から、何本もの銀色の音叉を取り出した。
彼はそれを、澱を取り囲むように店の各所に、まるで結界を張るかのように突き立てると、全てを同時に、指先で弾いた。
キィィィン、という、耳を劈くような高周波。
澱の力の波長を無理やり同調(シンクロ)させ、その動きを一時的に封じ込める、彼ならではの冷徹で、計算され尽くした荒業だった。
澱の動きが、確かに、鈍る。
◆◇◆
有栖川が澱の動きを封じ込めている、わずかな時間。
時也は、残った全ての力を、最後の一滴まで振り絞り、再び澱の核である地蔵像へと、その意識を集中させた。
憎悪と怨嗟の濁流を振り切り、彼は地蔵像の魂の、さらに奥深くへと潜っていく。
そこで彼が視たのは、地蔵像自身の「記憶」だった。
蔵の中で、何十年、何百年もの間、おびただしい数の曰く付きの品々から、ひっきりなしに発せられる負の念を、ただひたすらに、その身に吸い続け、その苦しみを和らげようとしてきた地蔵菩薩の、あまりに永い、孤独な慈悲の行いだった。
一体、一体の魂を救おうと、その声を聞き、その痛みを受け止め続けた。
しかし、救えども救えども、蔵に投げ込まれる魂は後を絶たない。
やがて、あまりにも多くの魂の叫びを吸いすぎた結果、地蔵像は、救済者であることから疲れ果て、諦め、そして、ついには怨念の濁流に飲み込まれてしまったのだ。
『――もう、救えない』
『――いっそ、全て、無に帰ればいい』
それが、地蔵像の最後の「祈り」であり、この巨大な澱の核となった、絶望の正体だった。
◆◇◆
「一人で、背負うなッ!」
時也は、心の中で叫んだ。
それは、目の前の地蔵に、そして、これまで一人で全てを解決しようとしてきた自分自身に、言い聞かせる言葉だった。
彼は、祖父から受け継いだ記憶、これまで出会った人々やあやかしたちの想い、そして、目の前で自分を信じ、戦ってくれている仲間たちの存在、その全てを、かき集めた最後の霊力に乗せた。
そして、それを、絶望に染まった地蔵像の魂へと、注ぎ込んだ。
「あんたは救済者なんかじゃない! あんたはただ、そこにいてくれるだけで、良かったんだ!」
時也の、混じり気のない純粋な想いが、地蔵像の魂に届く。
その瞬間、黒い怨念に染まっていた地蔵像が、その内側から、温かい、柔らかな、黄金の光を放ち始めた。
それは、地蔵菩薩が本来持つ、無償の慈悲と救済の光。
光は、怨念の集合体である澱全体へと、波紋のように広がっていく。
澱を構成していた無数の魂たちは、その光に焼かれるのではなく、優しく包まれ、癒され、浄化されていく。
断末魔の叫びは、安堵のため息へと変わり、月詠堂を満たしていた黒い煙は、無数の光の粒子となって、静かに、静かに、消滅していった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、床にことりと転がる、全ての怨念から解放されて本来の姿に戻った、小さな、穏やかな顔の地蔵像だけだった。
「……はっ…はっ…」
時也は、全ての力を使い果たし、その場に倒れ込んだ。
「……なるほど。センチメンタリズムを触媒にして、エネルギーを相殺したか。非合理的だが…実に興味深い」
有栖川は、目の前で起きた奇跡を、冷静に分析すると、満足げに一つ頷いた。
そして、倒れた時也を一瞥し、「貸しは、必ず返してもらうからな」と言い残して、静かに姿を消した。
時也が次に目を覚ました時、彼は自室の布団の上に寝かされていた。
傍らでは、琥珀、玄翁、そして、しっかりとした輪郭を取り戻した白磁の君が、心配そうに彼を覗き込んでいる。
最大の危機は去った。
しかし、開かれたままになった禁断の蔵、そこに残された謎の地蔵像、そして、最悪の相手に作ってしまった、あまりにも重い「貸し」。
本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。
その瞬間、澱の黒い触手が、蛇のように、最も弱っている白磁の君に襲いかかる。
もはや抵抗する力も残っていない時也は、ただ、目の前の絶望的な光景を見つめることしかできなかった。
「――主様!」
琥珀の悲鳴が響く。
だが、彼女も金縛りにあったように動けない。
終わりだ。
時也がそう思った、その刹那。
「――主様の前で、好き勝手はさせんッ!!」
地の底から響くような、怒りの咆哮。
時也の前に、巨大な影が立ちはだかった。
玄翁である。
「玄翁!」
顕現した姿のまま、彼は、怨念の塊である澱の触手の前に、まるで城門の如く仁王立ちしていた。
物理的な攻撃など、この形のない怨念に通じるはずがない。
だが、彼の全身から放たれる、凄まじい気迫――何百年もの間、ただひたすらに「物を創り、守り抜いてきた職人の魂」そのものが、澱の混沌とした怨念の進行を、確かに、一瞬だけ怯ませ、鈍らせた。
◆◇◆
玄翁が稼いだのは、わずか一秒か、二秒。
だが、それは、時也を絶望の淵から引き戻すには十分な時間だった。
(核を…あの地蔵を浄化するしかない…!)
だが、霊力はほぼ尽きている。
時間も、ない。
万策尽きた。
いや――
時也は、最後の力を振り絞り、部屋の隅で、この世の終わりのような光景を、恍惚と観察している唯一の協力者候補に叫んだ。
「有栖川ッ…! 時間を稼いでくれ!」
有栖川は、一瞬、きょとんとした顔で時也を見た後、心底おかしそうに噴き出した。
「はっ! 僕に何の得がある? このまま君たちが、あの美しい『澱』と一つになるのを見る方が、よほど面白いじゃないか」
「このままでは、ここにあるもの全てが、お前の言う『観測装置』ごと、壊れるぞ!」
時也の叫びに、有栖川の表情が、初めてわずかに変わった。
彼の持つ異常なまでの分析能力が、時也の言葉を肯定していた。
澱の力が、もはや月詠堂という空間だけに留まらず、外の世界の理(ことわり)そのものにまで、悪影響を及ぼし始めていることを。
彼の言う「ショー」が、舞台ごと崩壊しかねないことを。
「……チッ。観測装置が壊れてしまっては元も子もないか」
彼の目的は、あくまで「観測」と「支配」。
制御不能な混沌は、彼の美学に反する。
「いいだろう。ただし、これは貸しだからな。利子は高くつくぞ、月詠時也」
有栖川はそう言うと、ジャケットの内側から、何本もの銀色の音叉を取り出した。
彼はそれを、澱を取り囲むように店の各所に、まるで結界を張るかのように突き立てると、全てを同時に、指先で弾いた。
キィィィン、という、耳を劈くような高周波。
澱の力の波長を無理やり同調(シンクロ)させ、その動きを一時的に封じ込める、彼ならではの冷徹で、計算され尽くした荒業だった。
澱の動きが、確かに、鈍る。
◆◇◆
有栖川が澱の動きを封じ込めている、わずかな時間。
時也は、残った全ての力を、最後の一滴まで振り絞り、再び澱の核である地蔵像へと、その意識を集中させた。
憎悪と怨嗟の濁流を振り切り、彼は地蔵像の魂の、さらに奥深くへと潜っていく。
そこで彼が視たのは、地蔵像自身の「記憶」だった。
蔵の中で、何十年、何百年もの間、おびただしい数の曰く付きの品々から、ひっきりなしに発せられる負の念を、ただひたすらに、その身に吸い続け、その苦しみを和らげようとしてきた地蔵菩薩の、あまりに永い、孤独な慈悲の行いだった。
一体、一体の魂を救おうと、その声を聞き、その痛みを受け止め続けた。
しかし、救えども救えども、蔵に投げ込まれる魂は後を絶たない。
やがて、あまりにも多くの魂の叫びを吸いすぎた結果、地蔵像は、救済者であることから疲れ果て、諦め、そして、ついには怨念の濁流に飲み込まれてしまったのだ。
『――もう、救えない』
『――いっそ、全て、無に帰ればいい』
それが、地蔵像の最後の「祈り」であり、この巨大な澱の核となった、絶望の正体だった。
◆◇◆
「一人で、背負うなッ!」
時也は、心の中で叫んだ。
それは、目の前の地蔵に、そして、これまで一人で全てを解決しようとしてきた自分自身に、言い聞かせる言葉だった。
彼は、祖父から受け継いだ記憶、これまで出会った人々やあやかしたちの想い、そして、目の前で自分を信じ、戦ってくれている仲間たちの存在、その全てを、かき集めた最後の霊力に乗せた。
そして、それを、絶望に染まった地蔵像の魂へと、注ぎ込んだ。
「あんたは救済者なんかじゃない! あんたはただ、そこにいてくれるだけで、良かったんだ!」
時也の、混じり気のない純粋な想いが、地蔵像の魂に届く。
その瞬間、黒い怨念に染まっていた地蔵像が、その内側から、温かい、柔らかな、黄金の光を放ち始めた。
それは、地蔵菩薩が本来持つ、無償の慈悲と救済の光。
光は、怨念の集合体である澱全体へと、波紋のように広がっていく。
澱を構成していた無数の魂たちは、その光に焼かれるのではなく、優しく包まれ、癒され、浄化されていく。
断末魔の叫びは、安堵のため息へと変わり、月詠堂を満たしていた黒い煙は、無数の光の粒子となって、静かに、静かに、消滅していった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、床にことりと転がる、全ての怨念から解放されて本来の姿に戻った、小さな、穏やかな顔の地蔵像だけだった。
「……はっ…はっ…」
時也は、全ての力を使い果たし、その場に倒れ込んだ。
「……なるほど。センチメンタリズムを触媒にして、エネルギーを相殺したか。非合理的だが…実に興味深い」
有栖川は、目の前で起きた奇跡を、冷静に分析すると、満足げに一つ頷いた。
そして、倒れた時也を一瞥し、「貸しは、必ず返してもらうからな」と言い残して、静かに姿を消した。
時也が次に目を覚ました時、彼は自室の布団の上に寝かされていた。
傍らでは、琥珀、玄翁、そして、しっかりとした輪郭を取り戻した白磁の君が、心配そうに彼を覗き込んでいる。
最大の危機は去った。
しかし、開かれたままになった禁断の蔵、そこに残された謎の地蔵像、そして、最悪の相手に作ってしまった、あまりにも重い「貸し」。
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