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第九話『名もなき地蔵』
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「澱」との戦いから、数日が過ぎた。
あれほど月詠堂を覆っていた、重く、冷たい怨念の気配は嘘のように消え去り、店には久しぶりに穏やかな朝の光が差し込んでいた。
時也の霊力も、まだ完全ではないものの、眠るたびに少しずつ回復の兆しを見せている。
店の空気は、浄化されたように澄み切っていた。
だが、そこには一つ、新たな存在が加わっていた。
店の土間と畳の間の、いつもは時也が季節の山野草を飾る場所に、あの小さな地蔵像が、静かに安置されている。
澱から解放された石像は、今は何の力も、念も発してはいない。
ただの古い石の塊のように、穏やかな顔で、黙ってそこに佇んでいる。
しかし、月詠堂の古馴染みの住人たち――あやかしたちは、その新たな同居人を、どこか遠巻きに、戸惑いながら眺めていた。
「…すっかり綺麗さっぱりしちゃって。怨念の欠片も感じられないけど、かえって気味が悪いわね」
琥珀は、煙管をふかしながら、値踏みするように地蔵を眺める。
「一度、あれだけの怨念に染まったものだ。今は眠っているだけやもしれん。まだ油断はならんぞ」
玄翁は、腕を組んだまま、厳しい視線を地蔵から外さない。
そして、白磁の君は。
澱に吸収されかかった彼女は、あの日の恐怖がまだ魂にこびりついているのか、地蔵像の方を見ることさえできずに、時也の着物の袖の後ろに隠れていた。
◆◇◆
時也自身も、この地蔵像をどうするべきか、決めかねていた。
あれだけの事件の中心にあったものを、無造作に商品として並べることなど、到底できない。
かといって、再びあの開かれたままの蔵に――澱の記憶が生々しく残る場所に戻すのも、違う気がした。
彼は、そっと地蔵像に触れ、その記憶を読み解こうと試みた。
だが、そこには、本当に何もなかった。
永い、永い年月の間、おびただしい数の魂の苦しみを吸い続けた記憶も、時也の想いに触れて浄化された瞬間の記憶も、全てが綺麗に洗い流され、完全な「空(くう)」になっている。
それはまるで、生まれたての赤子のような、あるいは、全ての記憶を失った老人のような、どこまでも無垢で、空っぽの魂だった。
時也にできることは、ただ、静かに真新しい水を供え、時折、手を合わせることだけだった。
◆◇◆
そんなある日の午後だった。
からん、と引き戸が開き、一組の親子が月詠堂にふらりと入ってきた。
近所に住むという若い母親と、まだ三歳くらいの、お団子頭の小さな女の子だ。
「すみません、ちょっと、見せていただくだけでも…」
母親は申し訳なさそうに言った。最近、飼っていた文鳥を亡くし、元気をなくしてしまった娘を連れて、散歩の途中に立ち寄ったのだという。
母親が、棚に並んだ色とりどりの切子のグラスに目を奪われている間、女の子は、おぼつかない足取りで店の中を歩き回り、やがて、その地蔵像の前に、ちょこんと座り込んだ。
何かに引きつけられたかのように、じっと、地蔵像の穏やかな顔を見つめている。
時也も、店のあやかしたちも、固唾をのんでその光景を見守っていた。
女の子は、おもむろに、自分の腕につけていたカラフルなビーズのブレスレットを外した。
そして、その中から一番お気に入りらしい、真っ赤なトンボ玉のビーズを一つだけ手に取ると、地蔵像の小さな石の手に、そっと握らせた。
「…ぴーちゃんに、あげるの。どうぞ」
そう、小さな、鈴の鳴るような声で言いながら。
◆◇◆
女の子が、その小さな手で、地蔵像にビーズを握らせた、その瞬間。
時也は、はっきりと感じた。
地蔵像から、一つの感情が、泉から水がじんわりと湧き出すように、温かく発せられるのを。
それは、声でも、記憶でもない。
ただ、ひたすらに温かく、そして清らかな『感謝』の念だった。
その温かい念は、時也だけでなく、店のあやかしたちにも確かに伝わった。
地蔵を警戒していた琥珀と玄翁が、わずかに目を見開く。
そして、これまで地蔵を怖がって近づけなかった白磁の君が、その温かい感情に引き寄せられるように、おそるおそる、時也の背後から顔を出し、地蔵像に近づいていく。
彼女の目に、もう恐怖の色はなかった。
やがて、母親に手を引かれ、女の子はにこにこと笑いながら帰っていった。
時也は、この地蔵像の、新しい役割を、静かに理解した。
永い苦しみから解放された彼は、もはや大いなる魂を救済する菩薩ではない。
ただ、この店の片隅に佇み、子供たちのささやかな祈りや、名もなき人々の小さな善意を受け止めて、静かに微笑んでいる、名もなき地蔵となったのだ。
◆◇◆
その日の夕方。
時也が見ていると、白磁の君が、庭に咲いていた小さな青い露草を一本摘んできて、地蔵像の足元に、そっと供えていた。
それは、永い孤独を知る二つの魂が交わした、言葉のない、優しい挨拶のように、時也の目には映った。
有栖川への、あまりにも重い「貸し」という、不穏な未来を予感させながらも、月詠堂には、新たな同居人を迎えた、穏やかで優しい時間が、再び流れ始めていた。
あれほど月詠堂を覆っていた、重く、冷たい怨念の気配は嘘のように消え去り、店には久しぶりに穏やかな朝の光が差し込んでいた。
時也の霊力も、まだ完全ではないものの、眠るたびに少しずつ回復の兆しを見せている。
店の空気は、浄化されたように澄み切っていた。
だが、そこには一つ、新たな存在が加わっていた。
店の土間と畳の間の、いつもは時也が季節の山野草を飾る場所に、あの小さな地蔵像が、静かに安置されている。
澱から解放された石像は、今は何の力も、念も発してはいない。
ただの古い石の塊のように、穏やかな顔で、黙ってそこに佇んでいる。
しかし、月詠堂の古馴染みの住人たち――あやかしたちは、その新たな同居人を、どこか遠巻きに、戸惑いながら眺めていた。
「…すっかり綺麗さっぱりしちゃって。怨念の欠片も感じられないけど、かえって気味が悪いわね」
琥珀は、煙管をふかしながら、値踏みするように地蔵を眺める。
「一度、あれだけの怨念に染まったものだ。今は眠っているだけやもしれん。まだ油断はならんぞ」
玄翁は、腕を組んだまま、厳しい視線を地蔵から外さない。
そして、白磁の君は。
澱に吸収されかかった彼女は、あの日の恐怖がまだ魂にこびりついているのか、地蔵像の方を見ることさえできずに、時也の着物の袖の後ろに隠れていた。
◆◇◆
時也自身も、この地蔵像をどうするべきか、決めかねていた。
あれだけの事件の中心にあったものを、無造作に商品として並べることなど、到底できない。
かといって、再びあの開かれたままの蔵に――澱の記憶が生々しく残る場所に戻すのも、違う気がした。
彼は、そっと地蔵像に触れ、その記憶を読み解こうと試みた。
だが、そこには、本当に何もなかった。
永い、永い年月の間、おびただしい数の魂の苦しみを吸い続けた記憶も、時也の想いに触れて浄化された瞬間の記憶も、全てが綺麗に洗い流され、完全な「空(くう)」になっている。
それはまるで、生まれたての赤子のような、あるいは、全ての記憶を失った老人のような、どこまでも無垢で、空っぽの魂だった。
時也にできることは、ただ、静かに真新しい水を供え、時折、手を合わせることだけだった。
◆◇◆
そんなある日の午後だった。
からん、と引き戸が開き、一組の親子が月詠堂にふらりと入ってきた。
近所に住むという若い母親と、まだ三歳くらいの、お団子頭の小さな女の子だ。
「すみません、ちょっと、見せていただくだけでも…」
母親は申し訳なさそうに言った。最近、飼っていた文鳥を亡くし、元気をなくしてしまった娘を連れて、散歩の途中に立ち寄ったのだという。
母親が、棚に並んだ色とりどりの切子のグラスに目を奪われている間、女の子は、おぼつかない足取りで店の中を歩き回り、やがて、その地蔵像の前に、ちょこんと座り込んだ。
何かに引きつけられたかのように、じっと、地蔵像の穏やかな顔を見つめている。
時也も、店のあやかしたちも、固唾をのんでその光景を見守っていた。
女の子は、おもむろに、自分の腕につけていたカラフルなビーズのブレスレットを外した。
そして、その中から一番お気に入りらしい、真っ赤なトンボ玉のビーズを一つだけ手に取ると、地蔵像の小さな石の手に、そっと握らせた。
「…ぴーちゃんに、あげるの。どうぞ」
そう、小さな、鈴の鳴るような声で言いながら。
◆◇◆
女の子が、その小さな手で、地蔵像にビーズを握らせた、その瞬間。
時也は、はっきりと感じた。
地蔵像から、一つの感情が、泉から水がじんわりと湧き出すように、温かく発せられるのを。
それは、声でも、記憶でもない。
ただ、ひたすらに温かく、そして清らかな『感謝』の念だった。
その温かい念は、時也だけでなく、店のあやかしたちにも確かに伝わった。
地蔵を警戒していた琥珀と玄翁が、わずかに目を見開く。
そして、これまで地蔵を怖がって近づけなかった白磁の君が、その温かい感情に引き寄せられるように、おそるおそる、時也の背後から顔を出し、地蔵像に近づいていく。
彼女の目に、もう恐怖の色はなかった。
やがて、母親に手を引かれ、女の子はにこにこと笑いながら帰っていった。
時也は、この地蔵像の、新しい役割を、静かに理解した。
永い苦しみから解放された彼は、もはや大いなる魂を救済する菩薩ではない。
ただ、この店の片隅に佇み、子供たちのささやかな祈りや、名もなき人々の小さな善意を受け止めて、静かに微笑んでいる、名もなき地蔵となったのだ。
◆◇◆
その日の夕方。
時也が見ていると、白磁の君が、庭に咲いていた小さな青い露草を一本摘んできて、地蔵像の足元に、そっと供えていた。
それは、永い孤独を知る二つの魂が交わした、言葉のない、優しい挨拶のように、時也の目には映った。
有栖川への、あまりにも重い「貸し」という、不穏な未来を予感させながらも、月詠堂には、新たな同居人を迎えた、穏やかで優しい時間が、再び流れ始めていた。
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