10 / 25
第十話『貸しの代償』
しおりを挟む
「澱」との戦いが過ぎ去り、月詠堂には、嵐の後のような、どこかぎこちない平穏が流れていた。
時也の霊力もすっかり元通りになり、あやかしたちも、それぞれの場所で静かな日常を取り戻している。
あの悪夢のような夜が、まるで遠い昔のことだったかのように。
だが、その平穏は、一人の男の来訪によって、いとも容易く破られた。
からん、と店の引き戸が開き、有栖川玲が、約束通りに姿を現した。
「やあ、月詠くん。元気にしているようで何よりだ。…そろそろ、あの時の『貸し』を、返してもらおうか」
彼の表情は、人当たりの良い営業スマイル。
だが、その目は一切笑っておらず、獲物を前にした爬虫類のように、冷たく、そして静かだった。
◆◇◆
有栖川の要求は、時也の想像を、そして倫理観を、遥かに超えるものだった。
彼が求めた「代償」は、金でもなければ、月詠堂に眠るいかなる品でもない。
時也の能力そのものを、彼の「ビジネス」のために利用することだった。
「僕の新しい顧客(クライアント)なんだがね」
そう言って、有栖川はタブレット端末の画面を時也に見せた。
そこに映し出されているのは、豪華な病室のベッドの上で、数多の医療機器に繋がれて、かろうじて生きている、一人の老人。
かつて日本の経済界を牛耳った、政財界の大物だった。
「彼は、ある強力な『怨念』に取り憑かれていて、もう長くはない。そこで、君に頼みたいんだ。その怨念を、彼から綺麗に『引き剥がして』ほしい」
それが人助けになるのなら、と時也が一瞬考えた、その思考を、有栖川は見透かしたように、次の言葉を続けた。
「そして、引き剥がした怨念を、この器に『封じ込めて』ほしい」
有栖川が、傍らのアタッシェケースから取り出したのは、人間国宝の作だという、夜の闇そのものを練り上げて形にしたような、ぞっとするほど美しい黒楽茶碗だった。
時也は、全身の血が凍るのを感じた。
有栖川は、時也の能力を利用して、人為的に、極めて強力なあやかし(ゴースト)を「製造」しようとしているのだ。
「怨念に苦む老人を救い、そのエネルギーで新たな芸術品を創造する。君は人助けができて、僕は一級品の『商品』が手に入る。まさにWin-Winだろう? これで、君の僕に対する貸し借りは、綺麗にチャラだ」
◆◇◆
「――ふざけるな!」
時也は、激昂のあまり、思わず声を荒らげていた。
「俺の力は、魂を鎮め、解き放つためのものだ! お前の、醜悪な商品作りのための道具じゃない!」
「断る、と言いたいわけだね?」
有栖川は、まるで駄々をこねる子供を諭すかのように、冷ややかに告げた。
「君に、拒否権はないはずだ。僕があの時、ほんの少しの気まぐれを起こさなかったら、君の店も、君が大事にしているあの『ガラクタ』たちも、今頃どうなっていたかな?」
それは、紛れもない事実だった。
あの時、有栖川がいなければ、月詠堂は澱に飲み込まれ、全てが終わっていた。
「君がこの心温まる依頼を断るというのなら、僕は君から、別の形で正当な対価を回収するしかない。例えば…あの白磁の徳利の元の所有者の子孫に、もう一度、今度は日本で最高の弁護士をつけて、正式に所有権返還請求を行うとか、ね」
それは、もはや脅迫だった。
あやかしたちを、彼の「家族」を人質に取られたにも等しい。
時也は、選択を迫られた。
自らの信念を貫き、再び仲間を危険に晒すか。
あるいは、魂を弄ぶ悪魔の所業に手を貸し、仲間との平穏を守るか。
あまりにも過酷な天秤だった。
◆◇◆
時也は、数日間、眠れぬ夜を過ごし、悩み抜いた。
店のあやかしたちも、彼の苦悩を敏感に感じ取り、何も言わずに、ただ寄り添っていた。
玄翁は、悔しそうに拳を握りしめ、琥珀は、ただ哀しげな顔で時也を見つめ、白磁の君は、不安そうに彼の着物の袖を、小さな手で掴んでいる。
そして、時也は、一つの決断を下した。
彼は有栖川に電話をかけ、震える声で、しかし、はっきりと告げた。
「……分かった。あんたの依頼を、受けよう」
電話の向こうで、有栖川が満足げに笑う気配がした。
時也は、店の仲間たちに、「すまない」とだけ短く頭を下げた。
そして、一人、静かに覚悟を決めた。
(――だが、ただでは従わない)
彼は、有栖川の依頼を受けると見せかけて、その土壇場で、彼を裏切ることを決意していた。
老人に取り憑いた怨念を、あの黒い茶碗に封じるのではない。
有栖川の目の前で、彼自身のやり方で、怨念も、そして怨念を生み出した老人の後悔も、全てを「浄化」してみせる、と。
それは、あの澱との戦いで力を貸してくれた有栖川を、今度は敵に回し、極めて強力な怨念と、たった一人で対峙することを意味する。
無謀で、危険極まりない賭けだった。
◆◇◆
約束の日。
月詠堂の前に、一台の黒塗りの高級車が、音もなく停まった。
後部座席で、時也は有栖川と並んで座っている。
「後悔はしてないかい?」
有栖川が、これから始まるショーを心待ちにするように、面白そうに尋ねる。
「さあな」
時也は、窓の外を流れる景色を見つめたまま、短く答えた。
その横顔は、固く、そして、静かな闘志に燃えている。
車は、目的地の、都心の超高級ホテルへと向かう。
二人の新たな戦いの火蓋が、今、切られようとしていた。
時也の霊力もすっかり元通りになり、あやかしたちも、それぞれの場所で静かな日常を取り戻している。
あの悪夢のような夜が、まるで遠い昔のことだったかのように。
だが、その平穏は、一人の男の来訪によって、いとも容易く破られた。
からん、と店の引き戸が開き、有栖川玲が、約束通りに姿を現した。
「やあ、月詠くん。元気にしているようで何よりだ。…そろそろ、あの時の『貸し』を、返してもらおうか」
彼の表情は、人当たりの良い営業スマイル。
だが、その目は一切笑っておらず、獲物を前にした爬虫類のように、冷たく、そして静かだった。
◆◇◆
有栖川の要求は、時也の想像を、そして倫理観を、遥かに超えるものだった。
彼が求めた「代償」は、金でもなければ、月詠堂に眠るいかなる品でもない。
時也の能力そのものを、彼の「ビジネス」のために利用することだった。
「僕の新しい顧客(クライアント)なんだがね」
そう言って、有栖川はタブレット端末の画面を時也に見せた。
そこに映し出されているのは、豪華な病室のベッドの上で、数多の医療機器に繋がれて、かろうじて生きている、一人の老人。
かつて日本の経済界を牛耳った、政財界の大物だった。
「彼は、ある強力な『怨念』に取り憑かれていて、もう長くはない。そこで、君に頼みたいんだ。その怨念を、彼から綺麗に『引き剥がして』ほしい」
それが人助けになるのなら、と時也が一瞬考えた、その思考を、有栖川は見透かしたように、次の言葉を続けた。
「そして、引き剥がした怨念を、この器に『封じ込めて』ほしい」
有栖川が、傍らのアタッシェケースから取り出したのは、人間国宝の作だという、夜の闇そのものを練り上げて形にしたような、ぞっとするほど美しい黒楽茶碗だった。
時也は、全身の血が凍るのを感じた。
有栖川は、時也の能力を利用して、人為的に、極めて強力なあやかし(ゴースト)を「製造」しようとしているのだ。
「怨念に苦む老人を救い、そのエネルギーで新たな芸術品を創造する。君は人助けができて、僕は一級品の『商品』が手に入る。まさにWin-Winだろう? これで、君の僕に対する貸し借りは、綺麗にチャラだ」
◆◇◆
「――ふざけるな!」
時也は、激昂のあまり、思わず声を荒らげていた。
「俺の力は、魂を鎮め、解き放つためのものだ! お前の、醜悪な商品作りのための道具じゃない!」
「断る、と言いたいわけだね?」
有栖川は、まるで駄々をこねる子供を諭すかのように、冷ややかに告げた。
「君に、拒否権はないはずだ。僕があの時、ほんの少しの気まぐれを起こさなかったら、君の店も、君が大事にしているあの『ガラクタ』たちも、今頃どうなっていたかな?」
それは、紛れもない事実だった。
あの時、有栖川がいなければ、月詠堂は澱に飲み込まれ、全てが終わっていた。
「君がこの心温まる依頼を断るというのなら、僕は君から、別の形で正当な対価を回収するしかない。例えば…あの白磁の徳利の元の所有者の子孫に、もう一度、今度は日本で最高の弁護士をつけて、正式に所有権返還請求を行うとか、ね」
それは、もはや脅迫だった。
あやかしたちを、彼の「家族」を人質に取られたにも等しい。
時也は、選択を迫られた。
自らの信念を貫き、再び仲間を危険に晒すか。
あるいは、魂を弄ぶ悪魔の所業に手を貸し、仲間との平穏を守るか。
あまりにも過酷な天秤だった。
◆◇◆
時也は、数日間、眠れぬ夜を過ごし、悩み抜いた。
店のあやかしたちも、彼の苦悩を敏感に感じ取り、何も言わずに、ただ寄り添っていた。
玄翁は、悔しそうに拳を握りしめ、琥珀は、ただ哀しげな顔で時也を見つめ、白磁の君は、不安そうに彼の着物の袖を、小さな手で掴んでいる。
そして、時也は、一つの決断を下した。
彼は有栖川に電話をかけ、震える声で、しかし、はっきりと告げた。
「……分かった。あんたの依頼を、受けよう」
電話の向こうで、有栖川が満足げに笑う気配がした。
時也は、店の仲間たちに、「すまない」とだけ短く頭を下げた。
そして、一人、静かに覚悟を決めた。
(――だが、ただでは従わない)
彼は、有栖川の依頼を受けると見せかけて、その土壇場で、彼を裏切ることを決意していた。
老人に取り憑いた怨念を、あの黒い茶碗に封じるのではない。
有栖川の目の前で、彼自身のやり方で、怨念も、そして怨念を生み出した老人の後悔も、全てを「浄化」してみせる、と。
それは、あの澱との戦いで力を貸してくれた有栖川を、今度は敵に回し、極めて強力な怨念と、たった一人で対峙することを意味する。
無謀で、危険極まりない賭けだった。
◆◇◆
約束の日。
月詠堂の前に、一台の黒塗りの高級車が、音もなく停まった。
後部座席で、時也は有栖川と並んで座っている。
「後悔はしてないかい?」
有栖川が、これから始まるショーを心待ちにするように、面白そうに尋ねる。
「さあな」
時也は、窓の外を流れる景色を見つめたまま、短く答えた。
その横顔は、固く、そして、静かな闘志に燃えている。
車は、目的地の、都心の超高級ホテルへと向かう。
二人の新たな戦いの火蓋が、今、切られようとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
人間嫌いの狐王に、契約妻として嫁いだら溺愛が止まりません
由香
ファンタジー
人間嫌いで知られる狐族の王・玄耀に、“契約上の妻”として嫁いだ少女・紗夜。
「感情は不要。契約が終われば離縁だ」
そう告げられたはずなのに、共に暮らすうち、冷酷な王は彼女だけに甘さを隠さなくなっていく。
やがて結ばれる“番”の契約、そして王妃宣言――。
契約結婚から始まる、人外王の溺愛が止まらない和風あやかし恋愛譚。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【完結】あやかし団地 管理人見習い日誌
双月ねむる
キャラ文芸
就活全滅で「自分には社会性がない」と思い込む凛は、遠縁の親戚に紹介され、昭和レトロな巨大団地・さくらヶ丘第一団地の『管理人見習い』として住み込みで働くことに。しかしその団地には、中庭の「靴鳴らし」、エレベーター表示盤に棲む狐など、団地限定あやかし達が当たり前のように暮らしていた。
最初は逃げ腰の凛だったが、すねた空き部屋や、ベランダの風鈴が告げるSOSなど、人とあやかしのトラブルに巻き込まれながら、少しずつ『共同体』に関わる勇気を取り戻していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる