真夜中のリグレット ~あやかし骨董店と記憶の器~

naomikoryo

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第十話『貸しの代償』

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「澱」との戦いが過ぎ去り、月詠堂には、嵐の後のような、どこかぎこちない平穏が流れていた。
時也の霊力もすっかり元通りになり、あやかしたちも、それぞれの場所で静かな日常を取り戻している。
あの悪夢のような夜が、まるで遠い昔のことだったかのように。

だが、その平穏は、一人の男の来訪によって、いとも容易く破られた。
からん、と店の引き戸が開き、有栖川玲が、約束通りに姿を現した。

「やあ、月詠くん。元気にしているようで何よりだ。…そろそろ、あの時の『貸し』を、返してもらおうか」

彼の表情は、人当たりの良い営業スマイル。
だが、その目は一切笑っておらず、獲物を前にした爬虫類のように、冷たく、そして静かだった。

◆◇◆

有栖川の要求は、時也の想像を、そして倫理観を、遥かに超えるものだった。
彼が求めた「代償」は、金でもなければ、月詠堂に眠るいかなる品でもない。
時也の能力そのものを、彼の「ビジネス」のために利用することだった。

「僕の新しい顧客(クライアント)なんだがね」

そう言って、有栖川はタブレット端末の画面を時也に見せた。
そこに映し出されているのは、豪華な病室のベッドの上で、数多の医療機器に繋がれて、かろうじて生きている、一人の老人。
かつて日本の経済界を牛耳った、政財界の大物だった。

「彼は、ある強力な『怨念』に取り憑かれていて、もう長くはない。そこで、君に頼みたいんだ。その怨念を、彼から綺麗に『引き剥がして』ほしい」

それが人助けになるのなら、と時也が一瞬考えた、その思考を、有栖川は見透かしたように、次の言葉を続けた。

「そして、引き剥がした怨念を、この器に『封じ込めて』ほしい」

有栖川が、傍らのアタッシェケースから取り出したのは、人間国宝の作だという、夜の闇そのものを練り上げて形にしたような、ぞっとするほど美しい黒楽茶碗だった。
時也は、全身の血が凍るのを感じた。
有栖川は、時也の能力を利用して、人為的に、極めて強力なあやかし(ゴースト)を「製造」しようとしているのだ。

「怨念に苦む老人を救い、そのエネルギーで新たな芸術品を創造する。君は人助けができて、僕は一級品の『商品』が手に入る。まさにWin-Winだろう? これで、君の僕に対する貸し借りは、綺麗にチャラだ」

◆◇◆

「――ふざけるな!」

時也は、激昂のあまり、思わず声を荒らげていた。

「俺の力は、魂を鎮め、解き放つためのものだ! お前の、醜悪な商品作りのための道具じゃない!」
「断る、と言いたいわけだね?」

有栖川は、まるで駄々をこねる子供を諭すかのように、冷ややかに告げた。

「君に、拒否権はないはずだ。僕があの時、ほんの少しの気まぐれを起こさなかったら、君の店も、君が大事にしているあの『ガラクタ』たちも、今頃どうなっていたかな?」

それは、紛れもない事実だった。
あの時、有栖川がいなければ、月詠堂は澱に飲み込まれ、全てが終わっていた。

「君がこの心温まる依頼を断るというのなら、僕は君から、別の形で正当な対価を回収するしかない。例えば…あの白磁の徳利の元の所有者の子孫に、もう一度、今度は日本で最高の弁護士をつけて、正式に所有権返還請求を行うとか、ね」

それは、もはや脅迫だった。
あやかしたちを、彼の「家族」を人質に取られたにも等しい。
時也は、選択を迫られた。
自らの信念を貫き、再び仲間を危険に晒すか。
あるいは、魂を弄ぶ悪魔の所業に手を貸し、仲間との平穏を守るか。
あまりにも過酷な天秤だった。

◆◇◆

時也は、数日間、眠れぬ夜を過ごし、悩み抜いた。
店のあやかしたちも、彼の苦悩を敏感に感じ取り、何も言わずに、ただ寄り添っていた。
玄翁は、悔しそうに拳を握りしめ、琥珀は、ただ哀しげな顔で時也を見つめ、白磁の君は、不安そうに彼の着物の袖を、小さな手で掴んでいる。

そして、時也は、一つの決断を下した。
彼は有栖川に電話をかけ、震える声で、しかし、はっきりと告げた。

「……分かった。あんたの依頼を、受けよう」

電話の向こうで、有栖川が満足げに笑う気配がした。

時也は、店の仲間たちに、「すまない」とだけ短く頭を下げた。
そして、一人、静かに覚悟を決めた。

(――だが、ただでは従わない)

彼は、有栖川の依頼を受けると見せかけて、その土壇場で、彼を裏切ることを決意していた。
老人に取り憑いた怨念を、あの黒い茶碗に封じるのではない。
有栖川の目の前で、彼自身のやり方で、怨念も、そして怨念を生み出した老人の後悔も、全てを「浄化」してみせる、と。
それは、あの澱との戦いで力を貸してくれた有栖川を、今度は敵に回し、極めて強力な怨念と、たった一人で対峙することを意味する。
無謀で、危険極まりない賭けだった。

◆◇◆

約束の日。
月詠堂の前に、一台の黒塗りの高級車が、音もなく停まった。
後部座席で、時也は有栖川と並んで座っている。

「後悔はしてないかい?」
有栖川が、これから始まるショーを心待ちにするように、面白そうに尋ねる。

「さあな」
時也は、窓の外を流れる景色を見つめたまま、短く答えた。
その横顔は、固く、そして、静かな闘志に燃えている。

車は、目的地の、都心の超高級ホテルへと向かう。
二人の新たな戦いの火蓋が、今、切られようとしていた。
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