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第2話:ベルガモットの香りと血
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夜が深まる頃、再び「月影庵」に灯りがともった。
ツキミは開店準備をしながら、昨夜のことを何度も思い返していた。
──喪服の女・シズカ。
彼女が語った死が、本当に現実になったこと。
あれはただの偶然なのか。
それとも、彼女には何か「見えている」ものがあるのか。
疑念と興味と、ほんの少しの恐怖。
それらを抱えながらも、彼女がまた来るのをツキミは待っていた。
カラン……。
今夜も、決まった時間に鈴が鳴る。
黒の喪服、黒い帽子、黒い手袋、黒い傘。
そのまま影から抜け出してきたような女──シズカが、またやってきた。
「こんばんは」
「こんばんは。お待ちしておりました」
ツキミは、昨夜よりもほんの少しだけ笑顔を柔らかくして言った。
シズカは無言で席に着き、ゆっくりと手袋を外す。
その動作すら、どこか儀式めいていて、彼女の存在自体が「非日常」そのもののようだった。
「今夜は、何になさいますか?」
「アールグレイを。……あ、でも、ベルガモットの香りが強めのブレンドがいいわ」
「かしこまりました」
ツキミは棚の奥から、とっておきの茶葉缶を取り出した。
彼女の希望通り、ベルガモットの精油を強めに効かせた特別なロット。香りが強すぎるゆえ、常連の中には「香水みたい」と嫌がる者もいるが、ツキミはこの香りを嫌いではなかった。
むしろ、今のシズカのような「強すぎる存在」には、これくらいがちょうどいいと思った。
ティーカップにお湯を注いだ瞬間、ふわりと広がる柑橘と花のような香り。
その香りに満足したのか、シズカはうっすらと目を細めて、カップに口をつけた。
──沈黙。
ティールームの空気は、紅茶の香りと静けさで満たされていた。
「今日、あなたに話したい“死”があるの」
不意にシズカがそう口にした。
ツキミは身を乗り出しかけたが、ぐっとこらえて、静かに「お伺いします」とだけ答えた。
「二十年前、とある小学校で──ひとりの教師が死んだの。表向きは事故だった。でもね、あれは本当に“事故”だったのかしら?」
「どういう意味ですか?」
「校舎の階段から転落したの。でも、その日はちょうど、保護者会の前日でね。保護者たちの間で、その教師に関する“噂”が広まっていたの」
「噂……ですか」
「子供に手を上げたとか、成績を改ざんしたとか、いろいろ。でも、真偽は分からないまま、教師は死んだ。彼のポケットには、ちぎれたメモの断片が入っていた。“しんじないで”という文字だけが読めたそうよ」
「それは……なぜ、そんな昔の話を?」
「その教師、つい最近、“また”死んだの」
ツキミは思わずカップを取り落としそうになった。
「“また”……?」
「この間、別の学校に赴任していた別人──のはずだった。名前も変えていた。でも、顔だけは同じだったの。生徒の証言からね。しかも、また階段から転落したの」
ツキミは言葉を失った。
シズカの目が、紅茶の琥珀色の液体越しにすっと細まる。
「前と同じように、今度も事故扱い。でも、ポケットには“しんじないで”と書かれたメモが、また入っていたそうよ。まるで、誰かが“過去”をなぞって殺しているように──ね」
「そんな……まるで都市伝説みたい」
「ええ、でもそれが“現実”に起こってるのが面白いところ」
その時、店の奥の席で、新聞を読んでいた客──中年男性のカナメが、ばたんと音を立てて新聞を閉じた。
「やめてくれないか。そういう不愉快な話は」
シズカはその方向を見もせず、ただ一言。
「不愉快なのは、話かしら、それとも記憶?」
カナメは一瞬言葉を失い、目をそらした。
ツキミはそれを見逃さなかった。
この男には、なにか「思い当たること」がある。
その時、シズカの話は、単なる語りではなく「引き出し」なのではないかと直感した。
「……君は、あの男の遺族か? それとも、関係者か? いや、まさか……本人?」
カナメが吐き捨てるように言う。
だがシズカは、ゆっくりと紅茶を啜りながら静かに答えた。
「私はただ、忘れられた“死”を語る者。ただそれだけよ」
その言葉に、カナメは肩を落とし、静かに席を立った。
そのまま、新聞も置き去りに、去っていった。
***
「……やっぱり、あなたは何者なんですか?」
店にふたりきりになった後、ツキミは問うた。
それは疑問でもあり、興味でもあり、恐れでもあった。
「私はただ、紅茶を飲みに来てるだけの女よ」
「本当に?」
「……もし、私が“死者”だとしても、あなたは紅茶を出してくれる?」
ツキミは少しだけ沈黙したあと、笑った。
「ええ、きっと美味しくなるようにお淹れします。死者にも、生者にも、紅茶は平等ですから」
その瞬間、シズカの表情がほんのわずかだけ和らいだ。
その微笑みが、少しだけ人間らしく思えた。
夜は静かに更けていった。
そしてまた、シズカは深夜一時を過ぎると、そっと席を立った。
「ありがとう。今日のベルガモットは、記憶の奥をくすぐる味だったわ」
「また、お待ちしております」
「ええ、語るべき“死”はまだたくさんあるから」
そして、闇の中にすべるように消えていくその姿は──
まるで、語り終えた死者が眠りに帰っていくかのようだった。
ツキミは開店準備をしながら、昨夜のことを何度も思い返していた。
──喪服の女・シズカ。
彼女が語った死が、本当に現実になったこと。
あれはただの偶然なのか。
それとも、彼女には何か「見えている」ものがあるのか。
疑念と興味と、ほんの少しの恐怖。
それらを抱えながらも、彼女がまた来るのをツキミは待っていた。
カラン……。
今夜も、決まった時間に鈴が鳴る。
黒の喪服、黒い帽子、黒い手袋、黒い傘。
そのまま影から抜け出してきたような女──シズカが、またやってきた。
「こんばんは」
「こんばんは。お待ちしておりました」
ツキミは、昨夜よりもほんの少しだけ笑顔を柔らかくして言った。
シズカは無言で席に着き、ゆっくりと手袋を外す。
その動作すら、どこか儀式めいていて、彼女の存在自体が「非日常」そのもののようだった。
「今夜は、何になさいますか?」
「アールグレイを。……あ、でも、ベルガモットの香りが強めのブレンドがいいわ」
「かしこまりました」
ツキミは棚の奥から、とっておきの茶葉缶を取り出した。
彼女の希望通り、ベルガモットの精油を強めに効かせた特別なロット。香りが強すぎるゆえ、常連の中には「香水みたい」と嫌がる者もいるが、ツキミはこの香りを嫌いではなかった。
むしろ、今のシズカのような「強すぎる存在」には、これくらいがちょうどいいと思った。
ティーカップにお湯を注いだ瞬間、ふわりと広がる柑橘と花のような香り。
その香りに満足したのか、シズカはうっすらと目を細めて、カップに口をつけた。
──沈黙。
ティールームの空気は、紅茶の香りと静けさで満たされていた。
「今日、あなたに話したい“死”があるの」
不意にシズカがそう口にした。
ツキミは身を乗り出しかけたが、ぐっとこらえて、静かに「お伺いします」とだけ答えた。
「二十年前、とある小学校で──ひとりの教師が死んだの。表向きは事故だった。でもね、あれは本当に“事故”だったのかしら?」
「どういう意味ですか?」
「校舎の階段から転落したの。でも、その日はちょうど、保護者会の前日でね。保護者たちの間で、その教師に関する“噂”が広まっていたの」
「噂……ですか」
「子供に手を上げたとか、成績を改ざんしたとか、いろいろ。でも、真偽は分からないまま、教師は死んだ。彼のポケットには、ちぎれたメモの断片が入っていた。“しんじないで”という文字だけが読めたそうよ」
「それは……なぜ、そんな昔の話を?」
「その教師、つい最近、“また”死んだの」
ツキミは思わずカップを取り落としそうになった。
「“また”……?」
「この間、別の学校に赴任していた別人──のはずだった。名前も変えていた。でも、顔だけは同じだったの。生徒の証言からね。しかも、また階段から転落したの」
ツキミは言葉を失った。
シズカの目が、紅茶の琥珀色の液体越しにすっと細まる。
「前と同じように、今度も事故扱い。でも、ポケットには“しんじないで”と書かれたメモが、また入っていたそうよ。まるで、誰かが“過去”をなぞって殺しているように──ね」
「そんな……まるで都市伝説みたい」
「ええ、でもそれが“現実”に起こってるのが面白いところ」
その時、店の奥の席で、新聞を読んでいた客──中年男性のカナメが、ばたんと音を立てて新聞を閉じた。
「やめてくれないか。そういう不愉快な話は」
シズカはその方向を見もせず、ただ一言。
「不愉快なのは、話かしら、それとも記憶?」
カナメは一瞬言葉を失い、目をそらした。
ツキミはそれを見逃さなかった。
この男には、なにか「思い当たること」がある。
その時、シズカの話は、単なる語りではなく「引き出し」なのではないかと直感した。
「……君は、あの男の遺族か? それとも、関係者か? いや、まさか……本人?」
カナメが吐き捨てるように言う。
だがシズカは、ゆっくりと紅茶を啜りながら静かに答えた。
「私はただ、忘れられた“死”を語る者。ただそれだけよ」
その言葉に、カナメは肩を落とし、静かに席を立った。
そのまま、新聞も置き去りに、去っていった。
***
「……やっぱり、あなたは何者なんですか?」
店にふたりきりになった後、ツキミは問うた。
それは疑問でもあり、興味でもあり、恐れでもあった。
「私はただ、紅茶を飲みに来てるだけの女よ」
「本当に?」
「……もし、私が“死者”だとしても、あなたは紅茶を出してくれる?」
ツキミは少しだけ沈黙したあと、笑った。
「ええ、きっと美味しくなるようにお淹れします。死者にも、生者にも、紅茶は平等ですから」
その瞬間、シズカの表情がほんのわずかだけ和らいだ。
その微笑みが、少しだけ人間らしく思えた。
夜は静かに更けていった。
そしてまた、シズカは深夜一時を過ぎると、そっと席を立った。
「ありがとう。今日のベルガモットは、記憶の奥をくすぐる味だったわ」
「また、お待ちしております」
「ええ、語るべき“死”はまだたくさんあるから」
そして、闇の中にすべるように消えていくその姿は──
まるで、語り終えた死者が眠りに帰っていくかのようだった。
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