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第3話:シナモンと密告者
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月影庵の静かな夜を、またひとつの足音が踏みしめる。
午前0時を少し過ぎた頃、今日最初の客が入ってきた。
ヒールの音が軽やかに響く。グレージュのトレンチコートに、整えた髪。常連のOL、ユキナだ。
「こんばんは、ツキミさん。今日、寒くない?」
「こんばんは。そうですね、風が冷たいですね。温まるお茶を用意しましょうか?」
「お願い。今日は、ちょっと疲れたから……あ、シナモンが入ってるやつがいいな。チャイみたいなの。甘いやつ」
「かしこまりました。ミルクたっぷりでお作りしますね」
ユキナは笑顔を返しながら、いつもの窓際の席に座った。彼女は毎週2~3回のペースでこの店に通っている。残業終わりの癒し、というには少し遅すぎる時間帯だったが、「この時間しか落ち着かない」と言っていた。
ツキミがミルクを温め、シナモンをすりおろしながら鍋で紅茶を煮出していると──
カラン……
鈴の音。
現れたのは、黒ずくめの喪服の女・シズカだった。
彼女はいつもと変わらぬ沈黙と気品を漂わせ、カウンターにゆっくりと腰を下ろす。
「こんばんは、シズカさん」
「こんばんは。今夜は……少し甘めの紅茶をお願い」
「では、ユキナさんのチャイと同じものでよろしいですか?」
「ええ、それで」
準備していた鍋に、もう一杯分のミルクと紅茶を追加する。
やがて2杯のチャイがそれぞれの席に運ばれた。
香り立つシナモンとカルダモン、少し多めの黒糖が夜の空気に溶けていく。
ユキナはホッとしたように一口すすり、ぽつりと呟いた。
「ねえ、ツキミさん。あの人……シズカさんって、なにもの?」
「それは……私もよく分かりません。ただ、紅茶の味にうるさくて、ちょっと変わった話をされる方、という印象です」
「うん、ちょっとどころじゃないかも。昨日も来てたんでしょ?」
「ええ」
「なんかね、怖いの。私のことを見透かされてるみたいな気がして……」
ユキナはそう言って、ちらりとカウンター席のシズカを見た。
その視線に気づいたのか、シズカはゆっくりと振り返り、微笑んだ。
「こんばんは。チャイ、お好き?」
「……あ、はい。あったまりますよね」
「ええ。こういう香りには、“本音”を引き出す力があるのよ。スパイスって、不思議ね。香りだけで心を開かせるのだから」
ユキナは少しだけ体を強張らせた。
彼女は、ふとバッグを引き寄せて、その中を確認するような素振りを見せる。
ツキミは見逃さなかった。ユキナがバッグの中を見て、表情をわずかに曇らせたことも。
「今夜、あなたにひとつの“死”を話しましょうか」
シズカが、唐突に言った。
ユキナは一瞬「誰に話しかけてるのか」と戸惑ったが、視線が自分に向いていることに気づいて、カップを持つ手が止まった。
「三ヶ月前、ある企業の内部告発があったの。上層部の不正を暴いた告発だったけれど、その告発文には、誰が書いたのかは記されていなかった」
「……あの……それって、ニュースになったやつ?」
「ええ、大手のIT企業。経費の横領、パワハラ、ブラック労働……いくつもの闇が晒された。だけど、告発した“本人”は、その翌週、飛び降り自殺をしたの」
店内の空気が、ぴたりと止まる。
「表向きは自殺。だが、彼女の遺書には、ただこう書かれていた。“私が告発したと思わないでください。誰かが仕向けたのです”」
──どくん。
ツキミは、ユキナの心臓が跳ねる音を、錯覚ではなく本当に聞いたような気がした。
「私、その会社で働いてました……いえ、今も働いてます」
ユキナが小さな声で言った。
「ねえ、それって……まさか、マナミ先輩のこと?」
「マナミ……?」
「彼女が亡くなったの、ちょうど三ヶ月前。社内では“彼女が告発した”って噂になった。でも、私、信じられなかった。だって、そんな勇気のある人じゃなかったし、誰かが代わりに……」
「“代わりに”?」
ユキナははっとして口を閉ざした。
その表情に浮かんだ、動揺、罪悪感、恐怖──全てが、シズカの言葉を裏付けていた。
「あなたが“密告者”だったのね」
「……ち、違います……!」
否定の言葉は、どこか頼りなかった。
「あなたは、正しいことをした。けれど、同時に、他人の人生を差し出して守った。その罪を抱えているからこそ、この香りに引き寄せられたのよ」
シズカはそう言って、チャイをひとくち飲む。
その様子は、まるで裁定者のようだった。
「でもね……」
ユキナは、震える指でカップを持ち上げた。
「もし、私が言わなかったら……きっと、誰も気づかなかった。不正はそのままだった。……マナミ先輩が死んだのは、確かにショックだったけど……でも、でも……」
涙が、ぽたりとテーブルに落ちた。
「言葉って、時に人を殺す。でも、沈黙だって同じくらい残酷よ」
シズカの声には、どこか慈悲のような響きがあった。
それが、ユキナの心にようやく届いたのか、彼女は小さく何度も頷いた。
ツキミは、カウンターの奥で見守りながら、そっと追加のシナモンを削りはじめた。
この夜、この店で起きる会話には、単なる“おしゃべり”以上のものがある──
そう、ツキミは確信していた。
***
その晩、ユキナは店を出るときに、帽子を深くかぶってこう言った。
「……シズカさんって、幽霊なんですか?」
「そう見える?」
「わかんない。でも、たぶん私、今日ここに来なかったら、もっとひどいことになってた」
「それなら、今夜の紅茶に意味があったということね」
そう言ってシズカが差し出した手は、確かに温かかった──ような気がした。
そして、またひとつ、ティールームに静寂が戻る。
ツキミは最後のチャイを飲み干しながら、小さくつぶやいた。
「……次は、誰の“死”が語られるのかしら」
午前0時を少し過ぎた頃、今日最初の客が入ってきた。
ヒールの音が軽やかに響く。グレージュのトレンチコートに、整えた髪。常連のOL、ユキナだ。
「こんばんは、ツキミさん。今日、寒くない?」
「こんばんは。そうですね、風が冷たいですね。温まるお茶を用意しましょうか?」
「お願い。今日は、ちょっと疲れたから……あ、シナモンが入ってるやつがいいな。チャイみたいなの。甘いやつ」
「かしこまりました。ミルクたっぷりでお作りしますね」
ユキナは笑顔を返しながら、いつもの窓際の席に座った。彼女は毎週2~3回のペースでこの店に通っている。残業終わりの癒し、というには少し遅すぎる時間帯だったが、「この時間しか落ち着かない」と言っていた。
ツキミがミルクを温め、シナモンをすりおろしながら鍋で紅茶を煮出していると──
カラン……
鈴の音。
現れたのは、黒ずくめの喪服の女・シズカだった。
彼女はいつもと変わらぬ沈黙と気品を漂わせ、カウンターにゆっくりと腰を下ろす。
「こんばんは、シズカさん」
「こんばんは。今夜は……少し甘めの紅茶をお願い」
「では、ユキナさんのチャイと同じものでよろしいですか?」
「ええ、それで」
準備していた鍋に、もう一杯分のミルクと紅茶を追加する。
やがて2杯のチャイがそれぞれの席に運ばれた。
香り立つシナモンとカルダモン、少し多めの黒糖が夜の空気に溶けていく。
ユキナはホッとしたように一口すすり、ぽつりと呟いた。
「ねえ、ツキミさん。あの人……シズカさんって、なにもの?」
「それは……私もよく分かりません。ただ、紅茶の味にうるさくて、ちょっと変わった話をされる方、という印象です」
「うん、ちょっとどころじゃないかも。昨日も来てたんでしょ?」
「ええ」
「なんかね、怖いの。私のことを見透かされてるみたいな気がして……」
ユキナはそう言って、ちらりとカウンター席のシズカを見た。
その視線に気づいたのか、シズカはゆっくりと振り返り、微笑んだ。
「こんばんは。チャイ、お好き?」
「……あ、はい。あったまりますよね」
「ええ。こういう香りには、“本音”を引き出す力があるのよ。スパイスって、不思議ね。香りだけで心を開かせるのだから」
ユキナは少しだけ体を強張らせた。
彼女は、ふとバッグを引き寄せて、その中を確認するような素振りを見せる。
ツキミは見逃さなかった。ユキナがバッグの中を見て、表情をわずかに曇らせたことも。
「今夜、あなたにひとつの“死”を話しましょうか」
シズカが、唐突に言った。
ユキナは一瞬「誰に話しかけてるのか」と戸惑ったが、視線が自分に向いていることに気づいて、カップを持つ手が止まった。
「三ヶ月前、ある企業の内部告発があったの。上層部の不正を暴いた告発だったけれど、その告発文には、誰が書いたのかは記されていなかった」
「……あの……それって、ニュースになったやつ?」
「ええ、大手のIT企業。経費の横領、パワハラ、ブラック労働……いくつもの闇が晒された。だけど、告発した“本人”は、その翌週、飛び降り自殺をしたの」
店内の空気が、ぴたりと止まる。
「表向きは自殺。だが、彼女の遺書には、ただこう書かれていた。“私が告発したと思わないでください。誰かが仕向けたのです”」
──どくん。
ツキミは、ユキナの心臓が跳ねる音を、錯覚ではなく本当に聞いたような気がした。
「私、その会社で働いてました……いえ、今も働いてます」
ユキナが小さな声で言った。
「ねえ、それって……まさか、マナミ先輩のこと?」
「マナミ……?」
「彼女が亡くなったの、ちょうど三ヶ月前。社内では“彼女が告発した”って噂になった。でも、私、信じられなかった。だって、そんな勇気のある人じゃなかったし、誰かが代わりに……」
「“代わりに”?」
ユキナははっとして口を閉ざした。
その表情に浮かんだ、動揺、罪悪感、恐怖──全てが、シズカの言葉を裏付けていた。
「あなたが“密告者”だったのね」
「……ち、違います……!」
否定の言葉は、どこか頼りなかった。
「あなたは、正しいことをした。けれど、同時に、他人の人生を差し出して守った。その罪を抱えているからこそ、この香りに引き寄せられたのよ」
シズカはそう言って、チャイをひとくち飲む。
その様子は、まるで裁定者のようだった。
「でもね……」
ユキナは、震える指でカップを持ち上げた。
「もし、私が言わなかったら……きっと、誰も気づかなかった。不正はそのままだった。……マナミ先輩が死んだのは、確かにショックだったけど……でも、でも……」
涙が、ぽたりとテーブルに落ちた。
「言葉って、時に人を殺す。でも、沈黙だって同じくらい残酷よ」
シズカの声には、どこか慈悲のような響きがあった。
それが、ユキナの心にようやく届いたのか、彼女は小さく何度も頷いた。
ツキミは、カウンターの奥で見守りながら、そっと追加のシナモンを削りはじめた。
この夜、この店で起きる会話には、単なる“おしゃべり”以上のものがある──
そう、ツキミは確信していた。
***
その晩、ユキナは店を出るときに、帽子を深くかぶってこう言った。
「……シズカさんって、幽霊なんですか?」
「そう見える?」
「わかんない。でも、たぶん私、今日ここに来なかったら、もっとひどいことになってた」
「それなら、今夜の紅茶に意味があったということね」
そう言ってシズカが差し出した手は、確かに温かかった──ような気がした。
そして、またひとつ、ティールームに静寂が戻る。
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