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第4話:イングリッシュブレックファストと告解
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月影庵には「沈黙の時間」がある。
それは客が紅茶の香りに包まれ、話すことよりも感じることに集中する時間──
喧騒を忘れ、誰かの声を聞かず、自分の中の音を拾い上げる、静かな沈黙。
ツキミはその時間が好きだった。
だが今夜の月影庵は、少しだけ空気が重かった。
カナメが早めにやってきて、カウンターの端に座っている。彼はいつものように新聞を読んでいたが、手つきがどこかぎこちない。ページをめくるたびに微かに紙がしわくちゃになるのは、力が入りすぎている証拠だ。
「イングリッシュブレックファスト。ストレートで」
低くくぐもった声。
ツキミは頷き、彼の好み通り、濃いめに抽出した紅茶を準備する。
その最中、カラン、と鈴が鳴った。
黒い影が、また店内を満たす。
喪服の女──シズカだ。
今日も変わらぬ装い。まるで時の流れを拒絶しているかのように、完璧に整えられた“死装束”。
ツキミがそっと目をやると、カナメの指先がピクリと震えていた。
「こんばんは」
「こんばんは、シズカさん。今夜はいかがなさいますか?」
「イングリッシュブレックファスト。ミルクなし。できれば少し濃いめで」
──また、カナメと同じ紅茶。
ツキミはその偶然を無視できなかった。
茶葉をたっぷりと使い、温めたティーポットに湯を注ぐ。湯気とともに、どこか土のような香ばしさと、乾いた果実のような香りが立ち上る。
重く、深く、まっすぐな紅茶──それがイングリッシュブレックファストだ。
紅茶をカナメとシズカの前に置いた瞬間、二人の視線が交差した。
短く、だが鋭く。
そして、シズカがゆっくりと口を開いた。
「“許されない死”というものがあると思う?」
カナメは新聞をたたみ、その場に置いた。
まるで、話を聞く準備をするように。
「たとえば──こういう話があるわ」
と、シズカが語り出す。
その声は、夜を溶かす濃い紅茶のように、静かで熱を帯びていた。
「昔、とある男がいた。大学で哲学を教える教授だった。彼は優しくて、人気もあり、学生からも慕われていた。けれど──彼には秘密があったの。
十数年前、ある女子学生との関係が取り沙汰され、その学生が……自殺したのよ」
その一言で、ツキミの手が止まる。
カナメは、まるで息を止めたように、静止している。
「その事件は揉み消された。大学も家族も沈黙を選んだ。教授は地方に異動し、名前も変えて生き延びた。そして、何事もなかったように人生を続けてきた。──でも、ある日、彼は自分の家の庭で首を吊って死んだの。遺書には、たったひとこと。“君はまだ、ここにいる”」
沈黙が落ちる。
シズカは紅茶を一口すすった。
「その教授の話……知っているかしら、カナメさん?」
ツキミはその名が出た瞬間、呼吸を飲み込んだ。
カナメは微動だにせず、視線をシズカに向ける。
「……ああ。知ってるさ」
低く、しわがれた声。
彼の目には、もう虚勢も皮肉もなかった。
「……俺だよ」
ツキミは驚いた。
この店で最も無口な客だったカナメが、そんな告白をするとは思いもよらなかった。
「彼女は──その女子学生は、俺の教え子だった。確かに、特別に目をかけていた。才能があったからな。……だが、噂が出た。全くの事実無根ではなかった」
「じゃあ、あなたは──」
「俺が殺したようなものだよ」
カナメは紅茶を一口飲み、まるで毒を飲むように顔をしかめた。
「俺は何年も、何十年も、その死を無視してきた。いや、忘れようとしていた。だが……忘れられるわけがない。俺の名前じゃない、俺の肩書じゃない、俺の過去が、あの時で止まってる」
その目は真っ赤に濁っていた。
「……昨日の話、あれもそうだったんだろ? “また死んだ”教師。あれは俺の同僚だ。あいつも同じことをしていた。結局、誰も逃げられないんだな」
「じゃあ、あなたはどうするの?」
シズカの声は、柔らかく、それでいて刺すようだった。
「死ぬつもりかしら。それとも、語るつもり?」
「語る……?」
「死は、語られなければ“存在しない”の。だから私はこうして語っている。誰かが忘れた死を拾い集めて、カップに注ぎなおしているのよ」
「語って……何になる」
「許されるとは限らない。でも、もう一度誰かと繋がれるかもしれない」
カナメは長い沈黙のあと、ポケットから何かを取り出した。
古びた写真。学生時代の集合写真だ。
そこに、小さな女の子のように笑う、女子学生の姿があった。
「俺は、この写真を誰にも見せずに持ち歩いていた。罪だと思っていた。──でも、今夜ここでなら、話してもいいと思えた」
彼はゆっくりと写真をテーブルに置いた。
ツキミは、紅茶の香りが涙に溶けていくのを感じた。
苦味と渋みと、言いようのない深さ。
カナメは紅茶を最後まで飲み干した。
「……シズカさん」
「なに?」
「俺は、今日初めて紅茶を“味わった”気がするよ」
それを聞いたシズカは、静かに微笑んだ。
***
カナメが帰った後、ツキミはシズカに尋ねた。
「どうして彼に……あんな風に話を?」
「彼は、ずっと誰かに“裁いて”ほしかったのよ。だからここに来た。私がするのは、裁きじゃなく、告解の場を与えること」
「それが、あなたの役割……?」
「ええ。少なくとも、この店にいる間は」
ツキミはその言葉を、深く心に刻んだ。
死は、静かに、紅茶のように語られる。
この店では、罪も、後悔も、香りに乗せて届くのだ。
それは客が紅茶の香りに包まれ、話すことよりも感じることに集中する時間──
喧騒を忘れ、誰かの声を聞かず、自分の中の音を拾い上げる、静かな沈黙。
ツキミはその時間が好きだった。
だが今夜の月影庵は、少しだけ空気が重かった。
カナメが早めにやってきて、カウンターの端に座っている。彼はいつものように新聞を読んでいたが、手つきがどこかぎこちない。ページをめくるたびに微かに紙がしわくちゃになるのは、力が入りすぎている証拠だ。
「イングリッシュブレックファスト。ストレートで」
低くくぐもった声。
ツキミは頷き、彼の好み通り、濃いめに抽出した紅茶を準備する。
その最中、カラン、と鈴が鳴った。
黒い影が、また店内を満たす。
喪服の女──シズカだ。
今日も変わらぬ装い。まるで時の流れを拒絶しているかのように、完璧に整えられた“死装束”。
ツキミがそっと目をやると、カナメの指先がピクリと震えていた。
「こんばんは」
「こんばんは、シズカさん。今夜はいかがなさいますか?」
「イングリッシュブレックファスト。ミルクなし。できれば少し濃いめで」
──また、カナメと同じ紅茶。
ツキミはその偶然を無視できなかった。
茶葉をたっぷりと使い、温めたティーポットに湯を注ぐ。湯気とともに、どこか土のような香ばしさと、乾いた果実のような香りが立ち上る。
重く、深く、まっすぐな紅茶──それがイングリッシュブレックファストだ。
紅茶をカナメとシズカの前に置いた瞬間、二人の視線が交差した。
短く、だが鋭く。
そして、シズカがゆっくりと口を開いた。
「“許されない死”というものがあると思う?」
カナメは新聞をたたみ、その場に置いた。
まるで、話を聞く準備をするように。
「たとえば──こういう話があるわ」
と、シズカが語り出す。
その声は、夜を溶かす濃い紅茶のように、静かで熱を帯びていた。
「昔、とある男がいた。大学で哲学を教える教授だった。彼は優しくて、人気もあり、学生からも慕われていた。けれど──彼には秘密があったの。
十数年前、ある女子学生との関係が取り沙汰され、その学生が……自殺したのよ」
その一言で、ツキミの手が止まる。
カナメは、まるで息を止めたように、静止している。
「その事件は揉み消された。大学も家族も沈黙を選んだ。教授は地方に異動し、名前も変えて生き延びた。そして、何事もなかったように人生を続けてきた。──でも、ある日、彼は自分の家の庭で首を吊って死んだの。遺書には、たったひとこと。“君はまだ、ここにいる”」
沈黙が落ちる。
シズカは紅茶を一口すすった。
「その教授の話……知っているかしら、カナメさん?」
ツキミはその名が出た瞬間、呼吸を飲み込んだ。
カナメは微動だにせず、視線をシズカに向ける。
「……ああ。知ってるさ」
低く、しわがれた声。
彼の目には、もう虚勢も皮肉もなかった。
「……俺だよ」
ツキミは驚いた。
この店で最も無口な客だったカナメが、そんな告白をするとは思いもよらなかった。
「彼女は──その女子学生は、俺の教え子だった。確かに、特別に目をかけていた。才能があったからな。……だが、噂が出た。全くの事実無根ではなかった」
「じゃあ、あなたは──」
「俺が殺したようなものだよ」
カナメは紅茶を一口飲み、まるで毒を飲むように顔をしかめた。
「俺は何年も、何十年も、その死を無視してきた。いや、忘れようとしていた。だが……忘れられるわけがない。俺の名前じゃない、俺の肩書じゃない、俺の過去が、あの時で止まってる」
その目は真っ赤に濁っていた。
「……昨日の話、あれもそうだったんだろ? “また死んだ”教師。あれは俺の同僚だ。あいつも同じことをしていた。結局、誰も逃げられないんだな」
「じゃあ、あなたはどうするの?」
シズカの声は、柔らかく、それでいて刺すようだった。
「死ぬつもりかしら。それとも、語るつもり?」
「語る……?」
「死は、語られなければ“存在しない”の。だから私はこうして語っている。誰かが忘れた死を拾い集めて、カップに注ぎなおしているのよ」
「語って……何になる」
「許されるとは限らない。でも、もう一度誰かと繋がれるかもしれない」
カナメは長い沈黙のあと、ポケットから何かを取り出した。
古びた写真。学生時代の集合写真だ。
そこに、小さな女の子のように笑う、女子学生の姿があった。
「俺は、この写真を誰にも見せずに持ち歩いていた。罪だと思っていた。──でも、今夜ここでなら、話してもいいと思えた」
彼はゆっくりと写真をテーブルに置いた。
ツキミは、紅茶の香りが涙に溶けていくのを感じた。
苦味と渋みと、言いようのない深さ。
カナメは紅茶を最後まで飲み干した。
「……シズカさん」
「なに?」
「俺は、今日初めて紅茶を“味わった”気がするよ」
それを聞いたシズカは、静かに微笑んだ。
***
カナメが帰った後、ツキミはシズカに尋ねた。
「どうして彼に……あんな風に話を?」
「彼は、ずっと誰かに“裁いて”ほしかったのよ。だからここに来た。私がするのは、裁きじゃなく、告解の場を与えること」
「それが、あなたの役割……?」
「ええ。少なくとも、この店にいる間は」
ツキミはその言葉を、深く心に刻んだ。
死は、静かに、紅茶のように語られる。
この店では、罪も、後悔も、香りに乗せて届くのだ。
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