喪服の女と深夜のティールーム

naomikoryo

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第6話:ラプサン・スーチョンと偽りの遺書

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ツキミには、苦手な茶葉があった。

 それは──ラプサン・スーチョン。
 松の木で燻された、独特のスモーキーな香りを持つ紅茶。好きな人は夢中になるけれど、嫌いな人には「煙のにおい」「正露丸の香り」とまで言われる極端な個性を持っている。

 ツキミは、どちらかと言えば苦手だった。だが、それでも棚の一番奥に、ラプサンの缶を一つだけ大事に置いていた。

 理由は──それを唯一、頼んだ客がいたからだ。

 

 夜0時。
 カラン……と鈴が鳴る。

 今夜は雨。しとしとと冷たい雨粒が店のガラスを叩く。
 そして、黒い傘の滴を丁寧に払うように、女は入ってきた。

 黒の喪服。
 だが、今日はひときわ艶やかで、肩にかかる黒レースのストールが新しい。

 「こんばんは」
 「こんばんは、シズカさん。今夜は……ラプサン・スーチョンですか?」

 「ええ。雨の夜には、煙の記憶が似合うわ」

 ツキミは一瞬驚いた。彼女が何も言わないうちに、何の茶葉を求めているのか、なぜか分かってしまったのだ。

 ──いや、違う。

 分かっていたのではなく、**“記憶が先に香りを運んできた”**ような感覚。
 彼女が来る前から、この夜にはこの紅茶が必要だと、確信していたような。

 

 煙のような香りが、店内をゆっくりと染める。
 それはまるで、過去の炎が今もなおくすぶっているかのように。

 「シズカさん、その紅茶……どんな“死”にまつわるのですか?」

 ツキミは、自然にそう尋ねていた。

 シズカは、わずかに微笑み、煙の香りを含んだ紅茶をひと口、口に含む。
 そして、話し始めた。

 

 「ある女が、“死んだふり”をしたの。
  それも、完璧に。遺書も残し、遺体も火災によって原型をとどめなかった。
  身元確認はDNA──でも、それも巧妙にすり替えられていた。
  だから誰も、彼女が生きているとは思わなかった」

 「……それは、誰の話ですか?」

 「……あなたのすぐ近くにいた人。昔、あなたがとても愛していた女性よ」

 

 ツキミは息を飲んだ。
 心の中に、長いこと閉じ込めていた記憶の蓋が、きしむような音を立てて開きかけるのを感じた。

 ──“愛していた女性”。

 過去に、一人だけいた。
 家族ではない。恋人でもない。けれど、確かに“愛”と呼べる何かで繋がっていた人。

 「……彼女は、火事で亡くなったと聞きました。私、遺影の前で……お茶を淹れたんです。ミルクも何も入れない、真っ黒な紅茶を。彼女の好み通りに」

 ツキミの声が震え始める。
 記憶が戻ってきている。

 「でも……あれは……」

 「偽りの死だった」

 シズカが静かに告げる。
 その言葉は、ラプサンの煙のように、ゆっくりとツキミの胸を満たしていく。

 

 「なぜ彼女は、そんなことを……」

 「彼女はね、ある秘密を抱えていたの。
 誰かに見つかれば、自分だけでなく、あなたも巻き込まれるようなものを。
 だから彼女は、“あなたを守るために”死んだふりをしたのよ」

 ツキミは、カップを持つ手が震えるのを止められなかった。
 全身が冷たくなり、目の奥が熱くなる。

 「私、何も知らなかった……。ただ、あの時、火の中に飛び込もうとして止められただけで……何も……何もできなかった……!」

 

 沈黙。
 ただ雨の音と、紅茶の香りが、過去をなぞるように漂う。

 

 「ねえ、ツキミさん」

 と、シズカが初めて“フルネーム”で呼びかけたような、やわらかさで言った。

 「もし、彼女が今もどこかであなたを見ていたら──何を淹れてあげる?」

 「……私が、淹れたいのは……」

 ツキミは、答えを探すように口を開いた。

 「──たぶん、あの時のままじゃない紅茶。
 今の私が、今の彼女に淹れられる、優しくて、でも煙の残る紅茶。
 もう一度、あの人と“やり直せる”って思える味」

 「なら、それを覚えておきなさい。
  ──いつか、あなたは“彼女に会う”ことになるから」

 

 雷鳴が遠くで鳴った。
 雨が強くなったのか、ガラス窓を叩く音が増していく。

 

 「ねえ、シズカさん。……あなたは、彼女のことを知ってるの?」

 「いいえ。私は、“彼女の死”を知ってるだけ。
 でも……彼女が“まだ死んでいない”ことも、知ってるの」

 ツキミは息を呑む。

 「この街の、どこかで生きてる。たぶん、あなたの紅茶を、また待ってる」

 

 店の奥に、風が吹き込んだような気配があった。

 ツキミは振り返る。だが、誰もいない。
 それでも確かに“何か”が通り過ぎていったように感じた。

 

***

 

 深夜一時を過ぎ、シズカが立ち上がる。

 「あなたは、まだ“彼女の紅茶”を忘れていない。
 だから、その味をいつか、もう一度淹れてあげて」

 「……彼女に、届くでしょうか?」

 「届くわ。煙のように、香りはいつか誰かにたどり着く。
 それが、紅茶の魔法よ」

 

 ツキミは、ラプサンの香りが染みついたカップを見つめながら、小さく頷いた。
 そして、心のどこかにあった傷口が、ゆっくりと紅茶で包まれていくのを感じた。

 「ありがとう、シズカさん」

 「いいえ。ありがとうは、また会えた時に取っておいて」

 

 扉が開く。

 雨が上がっていた。

 そして、月が少しだけ顔を覗かせていた。
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