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第二話:記憶は咀嚼して飲み込む
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午前3時。人が寝息を立てるべき時間。けれど篤志の部屋は、真夜中の静けさというより、何かが「抜けた」静けさに包まれていた。冷蔵庫のモーター音がやけに耳に響く。昨日、イヨが残していった婚姻届の控えは、まだ冷蔵庫のチルド室の奥に、ジップロックの中で横たわっている。
彼女が最後に残した「未消化の紙」。
処理するでもなく、保存するでもなく、それはあまりに中途半端に存在していた。いや、存在させてしまっているのは、自分の方だと篤志は自嘲気味に思った。
テーブルの上には開きっぱなしのノートが一冊。これはイヨの「食用日記」だった。三日前の夜、リビングの棚からこっそり抜き取っていた。彼女が気付いていたかはわからない。
食べられる日記紙に、いつもの丸っこい筆跡で、細かく書かれた数行の文字。
「今日は篤志の顔が冷たい。私の声が届かない。
どうして私は食べることでしか、彼に伝えられないのだろう。
口で言った言葉は、相手の外側にしか残らない。
でも、食べたものは、自分の内側に残る。
私は、記憶を所有したい。私だけのかたちで。」
読み進めるごとに、篤志の胃の底に何か重いものが溜まっていく。罪悪感とは違う。もっと、説明できない「納得」に似た感覚。彼女がずっと見ていた風景が、自分とまったく異なる場所にあったことに、初めて気づいた気がした。
読み進めることに後ろめたさを感じながらも、ページをめくる手は止められなかった。
その日の午後。イヨは一人、古びたアパートの一室にいた。駅から離れた静かな場所で、目の前には小さな空き地と、廃業したクリーニング店がぽつんと佇んでいる。築四十年近い木造の二階。床が鳴るたびに、時間も一緒に軋むようだった。
「今日は……たしか、芋の日」
イヨは小さく呟いて、キッチンの棚から“食用日記紙”の束を取り出した。表紙には「食べるまでが日記」と筆ペンで記されている。彼女が十代の頃から続けている習慣だ。
米粉とでんぷんを混ぜた手製の紙に、彼女はその日あった出来事や、浮かんだ感情を書き込む。それを数日寝かせてから、味噌汁やスープ、甘酒などに溶かして摂取するのが彼女の「感情処理法」だった。
今日は、篤志との最後の喧嘩のことを記していた。
「あなたはいつも、優しすぎるの。
でも優しさは、ときどき、無関心に似ている。
声を荒げた私に、あなたはただ“わかった”と返した。
わかってなんかいなかった。
そうやって全部受け流してきたのよね。」
イヨは書き終えた紙を丁寧に丸め、小鍋に水を張って火にかけた。今日のレシピは「さつまいもと酒粕のミルク煮」。紙の味が強すぎないよう、芋と牛乳でマスクする工夫だった。食べることで、今の感情は“完了”する。記憶は「過去」になる。
「……これでいい。これで、終われる」
ふう、と息を吐いた瞬間、突如ドアのチャイムが鳴った。
「……イヨ?」
「篤志?」
ドアの向こうには、昨日まで一緒にいたはずの夫。なぜここがわかったのか、問いただす前に、彼の手にあるものが目に入った。あの、冷蔵庫にしまったはずのジップロック。中には、あの紙が——。
「……これ、渡しに来た」
「……なぜ?」
「残されたままだったから。捨てるのも、食べるのも、お前の役目だろ?」
イヨはしばらく無言のままそれを見つめた。やがて、小さくうなずいて、それを受け取った。
「ありがとう。じゃあ、今夜食べるわ」
「……お前さ」
「うん?」
「本当に、それで何かが終わるのか?」
その問いに、イヨは少しだけ目を伏せた。そして、静かに微笑んだ。
「終わらせないと、私が壊れるの」
夕食の準備に戻ると、鍋からは甘い芋の香りとともに、ほんのりインクの香りが立ち上っていた。彼女は紙をもう一度確認してから、それをちぎって鍋に入れた。
「私は食べるのよ。忘れたいからじゃない。生き延びるために」
鍋の中でゆらゆらと揺れる紙片たちは、過去の言葉たちの亡霊のようだった。もう声にならない言葉。もう、届けられない気持ち。それでも——胃の中に沈めることで、彼女は“私だけのやり方”で世界と折り合いをつけているのだった。
夜。
鍋の中のミルク煮をスープ皿に移し、イヨはひとくち、口に運んだ。
「……ああ、ちょっと苦い」
それは紙の味ではなかった。自分の中に沈めた想いが、完全には消えてくれない味だった。
でも、だからこそ飲み込むのだ。
たとえ、胃の中で苦さを抱えて生きることになっても。
一方、篤志は自宅で、イヨの残していった日記を再び開いていた。
そこには、ある一節が書かれていた。
「誰かに理解されることは、永遠にありえないとわかっていても、
それでも私は、伝えようとしてしまう。
食べるという行為は、私の“叫び”なのかもしれない。」
彼はページを閉じ、長い長いため息を吐いた。
彼女のことを、本当に理解したかった。けれど、もしかしたら——それは叶わないのかもしれない。それでも、彼女が叫んでいたのなら、その声に、せめて耳を傾け続けたいと思った。
そして翌朝。
冷蔵庫のチルド室には、もう何も残っていなかった。
代わりに、ドアポケットにメモ用紙が一枚。
そこには、イヨの字で、こう書かれていた。
「記憶は咀嚼して飲み込むもの。
でも、感情は、あなたと一緒に味わってみたかった」
彼女が最後に残した「未消化の紙」。
処理するでもなく、保存するでもなく、それはあまりに中途半端に存在していた。いや、存在させてしまっているのは、自分の方だと篤志は自嘲気味に思った。
テーブルの上には開きっぱなしのノートが一冊。これはイヨの「食用日記」だった。三日前の夜、リビングの棚からこっそり抜き取っていた。彼女が気付いていたかはわからない。
食べられる日記紙に、いつもの丸っこい筆跡で、細かく書かれた数行の文字。
「今日は篤志の顔が冷たい。私の声が届かない。
どうして私は食べることでしか、彼に伝えられないのだろう。
口で言った言葉は、相手の外側にしか残らない。
でも、食べたものは、自分の内側に残る。
私は、記憶を所有したい。私だけのかたちで。」
読み進めるごとに、篤志の胃の底に何か重いものが溜まっていく。罪悪感とは違う。もっと、説明できない「納得」に似た感覚。彼女がずっと見ていた風景が、自分とまったく異なる場所にあったことに、初めて気づいた気がした。
読み進めることに後ろめたさを感じながらも、ページをめくる手は止められなかった。
その日の午後。イヨは一人、古びたアパートの一室にいた。駅から離れた静かな場所で、目の前には小さな空き地と、廃業したクリーニング店がぽつんと佇んでいる。築四十年近い木造の二階。床が鳴るたびに、時間も一緒に軋むようだった。
「今日は……たしか、芋の日」
イヨは小さく呟いて、キッチンの棚から“食用日記紙”の束を取り出した。表紙には「食べるまでが日記」と筆ペンで記されている。彼女が十代の頃から続けている習慣だ。
米粉とでんぷんを混ぜた手製の紙に、彼女はその日あった出来事や、浮かんだ感情を書き込む。それを数日寝かせてから、味噌汁やスープ、甘酒などに溶かして摂取するのが彼女の「感情処理法」だった。
今日は、篤志との最後の喧嘩のことを記していた。
「あなたはいつも、優しすぎるの。
でも優しさは、ときどき、無関心に似ている。
声を荒げた私に、あなたはただ“わかった”と返した。
わかってなんかいなかった。
そうやって全部受け流してきたのよね。」
イヨは書き終えた紙を丁寧に丸め、小鍋に水を張って火にかけた。今日のレシピは「さつまいもと酒粕のミルク煮」。紙の味が強すぎないよう、芋と牛乳でマスクする工夫だった。食べることで、今の感情は“完了”する。記憶は「過去」になる。
「……これでいい。これで、終われる」
ふう、と息を吐いた瞬間、突如ドアのチャイムが鳴った。
「……イヨ?」
「篤志?」
ドアの向こうには、昨日まで一緒にいたはずの夫。なぜここがわかったのか、問いただす前に、彼の手にあるものが目に入った。あの、冷蔵庫にしまったはずのジップロック。中には、あの紙が——。
「……これ、渡しに来た」
「……なぜ?」
「残されたままだったから。捨てるのも、食べるのも、お前の役目だろ?」
イヨはしばらく無言のままそれを見つめた。やがて、小さくうなずいて、それを受け取った。
「ありがとう。じゃあ、今夜食べるわ」
「……お前さ」
「うん?」
「本当に、それで何かが終わるのか?」
その問いに、イヨは少しだけ目を伏せた。そして、静かに微笑んだ。
「終わらせないと、私が壊れるの」
夕食の準備に戻ると、鍋からは甘い芋の香りとともに、ほんのりインクの香りが立ち上っていた。彼女は紙をもう一度確認してから、それをちぎって鍋に入れた。
「私は食べるのよ。忘れたいからじゃない。生き延びるために」
鍋の中でゆらゆらと揺れる紙片たちは、過去の言葉たちの亡霊のようだった。もう声にならない言葉。もう、届けられない気持ち。それでも——胃の中に沈めることで、彼女は“私だけのやり方”で世界と折り合いをつけているのだった。
夜。
鍋の中のミルク煮をスープ皿に移し、イヨはひとくち、口に運んだ。
「……ああ、ちょっと苦い」
それは紙の味ではなかった。自分の中に沈めた想いが、完全には消えてくれない味だった。
でも、だからこそ飲み込むのだ。
たとえ、胃の中で苦さを抱えて生きることになっても。
一方、篤志は自宅で、イヨの残していった日記を再び開いていた。
そこには、ある一節が書かれていた。
「誰かに理解されることは、永遠にありえないとわかっていても、
それでも私は、伝えようとしてしまう。
食べるという行為は、私の“叫び”なのかもしれない。」
彼はページを閉じ、長い長いため息を吐いた。
彼女のことを、本当に理解したかった。けれど、もしかしたら——それは叶わないのかもしれない。それでも、彼女が叫んでいたのなら、その声に、せめて耳を傾け続けたいと思った。
そして翌朝。
冷蔵庫のチルド室には、もう何も残っていなかった。
代わりに、ドアポケットにメモ用紙が一枚。
そこには、イヨの字で、こう書かれていた。
「記憶は咀嚼して飲み込むもの。
でも、感情は、あなたと一緒に味わってみたかった」
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