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第三話:一口ずつの距離感
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イヨが出て行って三日が経った。
部屋は静かだった。いや、正確には“イヨの音”が消えた静けさだった。足音も、何かを煮込む音も、紙を破る乾いた音も。彼女がいた時は煩わしいほどに響いていた音たちが、今はどれも恋しい。
篤志は窓際の椅子に腰かけ、部屋に浮かぶ「無音の気配」を感じていた。窓の外は、まだ肌寒い早春。時折、カラスの鳴き声が遠くでして、そのたびにイヨの「カラス、あれきっと生きた記憶を運んでるのよ」という意味のわからないセリフを思い出す。
不意に、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
差出人は「イヨ」。
表示されたメッセージは短く、そして、いつも通りに妙だった。
「バスクチーズケーキの焼き上がりは13時。記憶の確認作業、よろしくね。」
「……なんだそれ」
呟きながらも、篤志はジャケットを手に取っていた。
店は、あまり目立たない小さなカフェだった。古民家を改装したような造りで、入口には手描きの木製看板が立っている。
【喫茶 記録室】
数日前、イヨがこのカフェで「臨時スタッフ」をしているという話を耳にしていた。意味がわからないのは、彼女が働くなどという“現実的”な行動をほとんどとらない人間だったからだ。学生時代から短期のアルバイトすらろくに続かず、社会の枠の中で呼吸できない人だった。
だが今、ガラス越しに見える彼女は、エプロンをつけ、慎重な手つきでケーキを取り出していた。
チーズの焦げ目がほどよい濃淡をなしていて、見た目は完璧だった。
「……どういう風の吹き回しだよ」
店に入ると、カランと鈴の音が鳴る。
イヨはこちらに気づいてもすぐには声をかけず、ケーキを慎重に皿へ移し終えてから、ようやく顔を上げた。
「来てくれてありがとう。ちょうど“記録”が焼けたところ」
「……チーズケーキに記録? まさか、紙でも入ってるのか?」
イヨは微笑んで首を振った。
「違うわ。これは“味で記憶を再現する”の。紙は使ってない。今日はあなたと行った美術館の思い出を材料にしてみたの」
「……え、あの……二年前の?」
「そう。あなたが“思い出に残る味”って言ってくれたレモンのパウンドケーキ。それに似た酸味を足して、重さをバスクで表現したの」
篤志は黙って席に着いた。言葉ではなく“味”で記憶を差し出されるというのは、奇妙だが、イヨらしいとも言えた。運ばれてきたケーキの表面は、黒に近い濃茶色。スプーンを差し入れると、中からとろりとしたチーズの層が現れた。
ひと口食べて、篤志は少しだけ目を細めた。
「……あの日、雨だったよな」
「そう、駅前の喫茶店まで歩いた。あなた、靴が濡れるの嫌がって、ずっと小走りだった」
「で、店に着いたら、俺の分のレモンケーキ、売り切れてたんだ。あんたのを半分もらって食ったんだよ」
イヨは笑った。ほんの少し、音を立てて。
「ちゃんと、残ってるのね」
「味で思い出させるなんて……ズルいな」
「あなたの“感情”を知るには、言葉より味の方が正確なんじゃないかと思って」
「それって、どっちにとっても危険だろ」
「そうね。私たち、たぶん“感情”の共有が一番不器用だった。近づきすぎたり、引きすぎたり……一口ずつの距離が、うまく取れなかった」
カフェの奥の壁には、小さな本棚があり、その中に“食用日記紙”が何冊も並んでいた。商品として売っているらしい。表紙にはすべて違う料理の名前が添えられていて、まるでレシピ本のようだ。
篤志は手に取ってみた。そこにはこう書かれていた。
「人と分かち合いたい記憶を書いてください。
その紙を調理すれば、その人と“同じもの”を味わうことができます。
書かれた言葉が、あなたの一部になりますように。」
「……すげぇな、ほんとにやってるのかよ、これ」
「ええ。この紙ね、希望者には“分け合い用”と“個人消化用”の2種類を売ってるの。前者は誰かと分けて食べるため、後者は一人で処理するため」
「処理、ねぇ……」
「人って、自分の記憶や気持ちすら持て余すでしょ? 私はそれを“食べる”ことで管理してるだけ。あなたはきっと、“しまいこむ”人だったのね」
「……言葉にするのが怖いだけだよ。怒らせたくない。誤解されたくない。だから言わない。それだけだ」
「私だって、怒鳴りたくて怒鳴ったわけじゃないのよ」
二人の間に、ちょうどケーキ一切れぶんの距離があった。近すぎない。けれど、離れてもいない。フォークを差し出せば、届く距離。
「たまには、“噛まないまま飲み込む”のもいいかもしれない」
イヨが呟くように言った。
「え?」
「今まで、なんでも噛み砕いて、飲み込んで、消化しなきゃって思ってた。でもそれって、すごく疲れる。あなたといるときの私は、いつもお腹いっぱいだった」
「それは……俺のせいか?」
「違う。私が、自分の距離感を知らなかっただけ」
その日の夕方。
帰り際、イヨが篤志に、こっそり小さな包みを渡してきた。
「今日の“再現ケーキ”。持って帰って食べて。冷蔵庫のあの紙の隣に入れるといいかも」
「……まだ残ってると思ってんのかよ」
「ええ。あなた、捨てられないタイプでしょ? 思い出も、言葉も、紙も。みんな冷蔵庫の奥で眠ってる」
「……あんたも、よく見てるよな、俺のこと」
「あなたのこと、記憶してたから」
その夜、篤志は自宅のキッチンで包みを開けた。
再現ケーキは、昼と同じようにしっとりしていて、少しだけ甘かった。口に入れると、ほんのりレモンの香りが広がる。その酸味が、過去の記憶に小さく火を灯す。
忘れたつもりの感情が、胃の奥で再び温まっていくようだった。
ふと、冷蔵庫を開ける。
そこには、やはりまだジップロックの中で眠る婚姻届の控えがあった。
「……こいつ、いつまでここにいるんだろうな」
誰にともなく呟いた言葉に、返事はない。
でも今夜は、もう少しだけ、一緒にいてもいい気がした。
部屋は静かだった。いや、正確には“イヨの音”が消えた静けさだった。足音も、何かを煮込む音も、紙を破る乾いた音も。彼女がいた時は煩わしいほどに響いていた音たちが、今はどれも恋しい。
篤志は窓際の椅子に腰かけ、部屋に浮かぶ「無音の気配」を感じていた。窓の外は、まだ肌寒い早春。時折、カラスの鳴き声が遠くでして、そのたびにイヨの「カラス、あれきっと生きた記憶を運んでるのよ」という意味のわからないセリフを思い出す。
不意に、ポケットの中のスマートフォンが震えた。
差出人は「イヨ」。
表示されたメッセージは短く、そして、いつも通りに妙だった。
「バスクチーズケーキの焼き上がりは13時。記憶の確認作業、よろしくね。」
「……なんだそれ」
呟きながらも、篤志はジャケットを手に取っていた。
店は、あまり目立たない小さなカフェだった。古民家を改装したような造りで、入口には手描きの木製看板が立っている。
【喫茶 記録室】
数日前、イヨがこのカフェで「臨時スタッフ」をしているという話を耳にしていた。意味がわからないのは、彼女が働くなどという“現実的”な行動をほとんどとらない人間だったからだ。学生時代から短期のアルバイトすらろくに続かず、社会の枠の中で呼吸できない人だった。
だが今、ガラス越しに見える彼女は、エプロンをつけ、慎重な手つきでケーキを取り出していた。
チーズの焦げ目がほどよい濃淡をなしていて、見た目は完璧だった。
「……どういう風の吹き回しだよ」
店に入ると、カランと鈴の音が鳴る。
イヨはこちらに気づいてもすぐには声をかけず、ケーキを慎重に皿へ移し終えてから、ようやく顔を上げた。
「来てくれてありがとう。ちょうど“記録”が焼けたところ」
「……チーズケーキに記録? まさか、紙でも入ってるのか?」
イヨは微笑んで首を振った。
「違うわ。これは“味で記憶を再現する”の。紙は使ってない。今日はあなたと行った美術館の思い出を材料にしてみたの」
「……え、あの……二年前の?」
「そう。あなたが“思い出に残る味”って言ってくれたレモンのパウンドケーキ。それに似た酸味を足して、重さをバスクで表現したの」
篤志は黙って席に着いた。言葉ではなく“味”で記憶を差し出されるというのは、奇妙だが、イヨらしいとも言えた。運ばれてきたケーキの表面は、黒に近い濃茶色。スプーンを差し入れると、中からとろりとしたチーズの層が現れた。
ひと口食べて、篤志は少しだけ目を細めた。
「……あの日、雨だったよな」
「そう、駅前の喫茶店まで歩いた。あなた、靴が濡れるの嫌がって、ずっと小走りだった」
「で、店に着いたら、俺の分のレモンケーキ、売り切れてたんだ。あんたのを半分もらって食ったんだよ」
イヨは笑った。ほんの少し、音を立てて。
「ちゃんと、残ってるのね」
「味で思い出させるなんて……ズルいな」
「あなたの“感情”を知るには、言葉より味の方が正確なんじゃないかと思って」
「それって、どっちにとっても危険だろ」
「そうね。私たち、たぶん“感情”の共有が一番不器用だった。近づきすぎたり、引きすぎたり……一口ずつの距離が、うまく取れなかった」
カフェの奥の壁には、小さな本棚があり、その中に“食用日記紙”が何冊も並んでいた。商品として売っているらしい。表紙にはすべて違う料理の名前が添えられていて、まるでレシピ本のようだ。
篤志は手に取ってみた。そこにはこう書かれていた。
「人と分かち合いたい記憶を書いてください。
その紙を調理すれば、その人と“同じもの”を味わうことができます。
書かれた言葉が、あなたの一部になりますように。」
「……すげぇな、ほんとにやってるのかよ、これ」
「ええ。この紙ね、希望者には“分け合い用”と“個人消化用”の2種類を売ってるの。前者は誰かと分けて食べるため、後者は一人で処理するため」
「処理、ねぇ……」
「人って、自分の記憶や気持ちすら持て余すでしょ? 私はそれを“食べる”ことで管理してるだけ。あなたはきっと、“しまいこむ”人だったのね」
「……言葉にするのが怖いだけだよ。怒らせたくない。誤解されたくない。だから言わない。それだけだ」
「私だって、怒鳴りたくて怒鳴ったわけじゃないのよ」
二人の間に、ちょうどケーキ一切れぶんの距離があった。近すぎない。けれど、離れてもいない。フォークを差し出せば、届く距離。
「たまには、“噛まないまま飲み込む”のもいいかもしれない」
イヨが呟くように言った。
「え?」
「今まで、なんでも噛み砕いて、飲み込んで、消化しなきゃって思ってた。でもそれって、すごく疲れる。あなたといるときの私は、いつもお腹いっぱいだった」
「それは……俺のせいか?」
「違う。私が、自分の距離感を知らなかっただけ」
その日の夕方。
帰り際、イヨが篤志に、こっそり小さな包みを渡してきた。
「今日の“再現ケーキ”。持って帰って食べて。冷蔵庫のあの紙の隣に入れるといいかも」
「……まだ残ってると思ってんのかよ」
「ええ。あなた、捨てられないタイプでしょ? 思い出も、言葉も、紙も。みんな冷蔵庫の奥で眠ってる」
「……あんたも、よく見てるよな、俺のこと」
「あなたのこと、記憶してたから」
その夜、篤志は自宅のキッチンで包みを開けた。
再現ケーキは、昼と同じようにしっとりしていて、少しだけ甘かった。口に入れると、ほんのりレモンの香りが広がる。その酸味が、過去の記憶に小さく火を灯す。
忘れたつもりの感情が、胃の奥で再び温まっていくようだった。
ふと、冷蔵庫を開ける。
そこには、やはりまだジップロックの中で眠る婚姻届の控えがあった。
「……こいつ、いつまでここにいるんだろうな」
誰にともなく呟いた言葉に、返事はない。
でも今夜は、もう少しだけ、一緒にいてもいい気がした。
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