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第七話:腐った思い出、発酵する愛情
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冷蔵庫の奥は、時間の墓場だ。
イヨはそれを知っていた。けれど、見ないふりをしていた。
生活とは、時に「見ないこと」で成り立つものだと、彼女は誰よりもよく知っている。
けれど、ある夜。
電球の切れかけたキッチンで、冷蔵庫の奥に手を突っ込んだ瞬間、彼女の指先は「異物」に触れた。
それは重く、湿っていて、ぬるりと温度を持っていた。
「……あ」
思わず声が漏れる。瓶だった。
中身は、半分溶けかけた白い紙のかけら。液体はとろりと濁り、うっすらとガスが出ていた。
——保存食。
結婚2年目、冬の日の夜。
篤志と激しく言い争った翌朝、彼女は「仲直りスープ」と称して、その喧嘩の記録を紙に書き、調理せずに瓶詰めにした。それは「いつか一緒に食べるため」の、未完の料理だった。
そして、忘れた。見て見ぬふりをした。冷蔵庫の一番奥へ追いやって。
だが、発見されたそれはすでに「発酵」していた。
白い紙はやや膨張し、液体の表面には気泡がいくつも浮かんでいる。
スプーンでひとすくい。鼻に近づける。
酸味が鼻腔を突き、わずかにアルコールの香り。
「……これは、腐ってない。発酵してる」
イヨは目を細め、ラベルのない瓶にマジックで書き足した。
「バッチNo.0:未遂の愛情」
その夜、彼女は再び火を入れた。
小鍋に瓶の中身を移し、弱火でゆっくり温める。
紙片はとろとろと柔らかくなり、鍋底で焦げつく直前、甘酸っぱい香りが立ち上がった。
「……味噌を入れるべき?」
悩んだ末に、白味噌をひとさじ加えた。味噌は感情の“潤滑油”だ。何にでもなじみ、何にでもなれ、時には誤魔化しにも使える。
そのスープを口に運ぶと——味がした。
記憶の味だった。
焦げた声。割れたガラスの音。
「もう無理だ」と言いかけて、飲み込んだ言葉のざらつき。
そして——それをどうにか受け止めようとした、相手の手の温度。
「……うわ、これ、キツい」
イヨは目を閉じて、もう一口すする。
体が、記憶を拒否しようとする。
けれど、舌が、脳が、それを「もう一度確かめたい」と叫んでいた。
発酵した記憶は、忘れられなかった愛情を引き出す装置なのかもしれない。
翌日、イヨは篤志を呼び出した。
場所は「喫茶 記録室」の奥にある、スタッフ専用の小部屋。
「ちょっとだけ、付き合ってほしいの」
「……今度は何を食べさせられるんだ?」
「大丈夫。今日は、“共有スープ”よ」
鍋はすでに温められていた。
篤志がひとくち口に運んだ瞬間、顔をしかめた。
「これ……なんかすっぱい。梅干しでも入ってるのか?」
「入ってない。でもね、それ“発酵”したの」
「え?」
「二年前の喧嘩の記録。冷蔵庫の奥にあったやつ。ずっと、放置してた」
篤志は、すぐには言葉を返さなかった。
彼の箸が止まり、視線が宙を彷徨う。
「……俺、あのとき、“言えなかったこと”がある」
「なに?」
「お前に、“離れることを考えた”って……言えなかった」
イヨは一瞬、目を閉じた。
でも、驚きはなかった。
「うん。知ってた」
「……え?」
「だって、あなた、寝てるとき、よく言うから。“もうだめかもしれない”って、寝言で」
篤志は驚いて、目を見開いた。
「マジかよ……寝言で?」
「うん。でも、“まだ好きだ”ってのも言ってた」
沈黙。
けれど、それは張り詰めたものではなかった。
スープの湯気が、二人の間を緩やかに漂っていく。
「それって……発酵、かな?」
「たぶんね。最初は腐りかけてたけど、ちゃんと密閉してたから、悪くならなかった」
「感情って、そんなふうに残るんだな……」
「ううん、“変質する”の。別物になるの。
前と同じ形じゃない。でも、ちゃんと“生きてる”の」
ふたりはその日、鍋のスープをすべて平らげた。
最後の一滴まで。
それは、かつては言葉にならなかった感情の残骸。
腐る寸前で止まっていた、関係のかけら。
それを“ふたりで”食べたということが——何よりの答えだった。
帰り際、イヨがふと呟いた。
「……ねえ。腐る前に、“好き”って言っておくべきだったかな」
篤志は立ち止まり、振り返った。
「いいや。今、ちょうど“熟成されて”届いたから」
その笑顔は、発酵食品みたいにちょっとクセがあって、でも、癖になる味がした。
イヨはそれを知っていた。けれど、見ないふりをしていた。
生活とは、時に「見ないこと」で成り立つものだと、彼女は誰よりもよく知っている。
けれど、ある夜。
電球の切れかけたキッチンで、冷蔵庫の奥に手を突っ込んだ瞬間、彼女の指先は「異物」に触れた。
それは重く、湿っていて、ぬるりと温度を持っていた。
「……あ」
思わず声が漏れる。瓶だった。
中身は、半分溶けかけた白い紙のかけら。液体はとろりと濁り、うっすらとガスが出ていた。
——保存食。
結婚2年目、冬の日の夜。
篤志と激しく言い争った翌朝、彼女は「仲直りスープ」と称して、その喧嘩の記録を紙に書き、調理せずに瓶詰めにした。それは「いつか一緒に食べるため」の、未完の料理だった。
そして、忘れた。見て見ぬふりをした。冷蔵庫の一番奥へ追いやって。
だが、発見されたそれはすでに「発酵」していた。
白い紙はやや膨張し、液体の表面には気泡がいくつも浮かんでいる。
スプーンでひとすくい。鼻に近づける。
酸味が鼻腔を突き、わずかにアルコールの香り。
「……これは、腐ってない。発酵してる」
イヨは目を細め、ラベルのない瓶にマジックで書き足した。
「バッチNo.0:未遂の愛情」
その夜、彼女は再び火を入れた。
小鍋に瓶の中身を移し、弱火でゆっくり温める。
紙片はとろとろと柔らかくなり、鍋底で焦げつく直前、甘酸っぱい香りが立ち上がった。
「……味噌を入れるべき?」
悩んだ末に、白味噌をひとさじ加えた。味噌は感情の“潤滑油”だ。何にでもなじみ、何にでもなれ、時には誤魔化しにも使える。
そのスープを口に運ぶと——味がした。
記憶の味だった。
焦げた声。割れたガラスの音。
「もう無理だ」と言いかけて、飲み込んだ言葉のざらつき。
そして——それをどうにか受け止めようとした、相手の手の温度。
「……うわ、これ、キツい」
イヨは目を閉じて、もう一口すする。
体が、記憶を拒否しようとする。
けれど、舌が、脳が、それを「もう一度確かめたい」と叫んでいた。
発酵した記憶は、忘れられなかった愛情を引き出す装置なのかもしれない。
翌日、イヨは篤志を呼び出した。
場所は「喫茶 記録室」の奥にある、スタッフ専用の小部屋。
「ちょっとだけ、付き合ってほしいの」
「……今度は何を食べさせられるんだ?」
「大丈夫。今日は、“共有スープ”よ」
鍋はすでに温められていた。
篤志がひとくち口に運んだ瞬間、顔をしかめた。
「これ……なんかすっぱい。梅干しでも入ってるのか?」
「入ってない。でもね、それ“発酵”したの」
「え?」
「二年前の喧嘩の記録。冷蔵庫の奥にあったやつ。ずっと、放置してた」
篤志は、すぐには言葉を返さなかった。
彼の箸が止まり、視線が宙を彷徨う。
「……俺、あのとき、“言えなかったこと”がある」
「なに?」
「お前に、“離れることを考えた”って……言えなかった」
イヨは一瞬、目を閉じた。
でも、驚きはなかった。
「うん。知ってた」
「……え?」
「だって、あなた、寝てるとき、よく言うから。“もうだめかもしれない”って、寝言で」
篤志は驚いて、目を見開いた。
「マジかよ……寝言で?」
「うん。でも、“まだ好きだ”ってのも言ってた」
沈黙。
けれど、それは張り詰めたものではなかった。
スープの湯気が、二人の間を緩やかに漂っていく。
「それって……発酵、かな?」
「たぶんね。最初は腐りかけてたけど、ちゃんと密閉してたから、悪くならなかった」
「感情って、そんなふうに残るんだな……」
「ううん、“変質する”の。別物になるの。
前と同じ形じゃない。でも、ちゃんと“生きてる”の」
ふたりはその日、鍋のスープをすべて平らげた。
最後の一滴まで。
それは、かつては言葉にならなかった感情の残骸。
腐る寸前で止まっていた、関係のかけら。
それを“ふたりで”食べたということが——何よりの答えだった。
帰り際、イヨがふと呟いた。
「……ねえ。腐る前に、“好き”って言っておくべきだったかな」
篤志は立ち止まり、振り返った。
「いいや。今、ちょうど“熟成されて”届いたから」
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