離婚届を食べた日

naomikoryo

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第八話:紙と紙の間の沈黙

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夜が深くなるにつれて、紙の音が際立っていく。

パラリ、パラリ。
紙をめくる音。紙を折る音。紙が誰かの呼吸と擦れる音。
それは言葉よりも饒舌で、時に沈黙よりも静かだった。

イヨと篤志は、久しぶりに“ひとつ屋根の下”で夜を過ごしていた。
再び同じ家ではなく、篤志の部屋に“泊まりに来た”という形だ。

言葉にしてしまえば曖昧な関係。
だが、曖昧さには曖昧なままの“正しさ”があるようにも思えた。

その夜の空気は、不思議とやわらかかった。

「今日はさ、これを一緒に見ようと思って」

篤志がそう言って差し出したのは、一枚の厚紙に貼り付けられた古い紙切れだった。

褪せたインクで文字が浮かんでいる。
ところどころに滲みや汚れがあり、折り目のあとも痛々しい。

それは——**二人が結婚した頃に書いた“将来の夢リスト”**だった。

「うわ……なにこれ。よく残ってたわね……」

「一度、燃やそうとしたんだけどな。なぜか燃えなかったんだよ。湿ってて」

「……きっと、泣いてたのね、この紙」

「紙が泣くかよ」

「紙だって、泣くわよ。食べるとわかるもん」

イヨはそう言って笑ったが、目は真剣だった。
そのリストには、こう書かれていた。

・小さな庭付きの家に住む(ハーブ育てたい)
・週末は一緒に料理(レシピノート作る)
・喧嘩したら48時間以内に“紙に書いて共有”
・できれば、子供がいてもいなくても幸せって言える関係

手書きの文字は、ふたりのものが混在していた。

「こんなに具体的な夢、よく書けたな、俺たち」

「そうね……ずいぶん、“ちゃんとしてる”」

「この紙を見つけたとき、正直、少し怖かった」

「どうして?」

「俺たち、これのどれもちゃんと“達成してない”って思ったから」

沈黙が落ちた。

今の二人は庭もなければ、同じ部屋にも住んでいない。
料理もまばら、喧嘩は紙に書くより先に沈黙で処理され、子供については話すことすら避けていた。

夢は、叶わなかった。いや、途中で“放り出された”感もある。

「でもね……」

イヨがそっと紙を撫でる。

「私、この紙、まだ食べてなかったの」

「え?」

「こういう“きれいすぎる記憶”って、なかなか消化できないの。
だって……理想って、胃に重いでしょ?」

篤志は、息を詰めて彼女の横顔を見つめた。

「でも今日なら、少しずつなら……噛める気がするの」

そう言って、イヨは紙の隅を小さくちぎり、それを口元に運んだ。

噛む音は小さかった。
でもそれは、たしかに聞こえた。

過去の理想が、現在の咀嚼によって、静かに形を変えていく音だった。

その夜、ふたりはほとんど言葉を交わさなかった。

けれど、それは「気まずさ」や「壁」ではなく、“紙と紙の間”にあるような沈黙だった。

余白がある。呼吸がある。
そして、そこにはまだ“続きを書ける余地”が残されている。

篤志は、火を落としたキッチンにふたり分のカモミールティーを淹れた。

「ねぇ、篤志」

「ん?」

「私ね、思い出の紙、全部食べちゃわなくてもいいんじゃないかって思えてきたの」

「そうかもな。全部消化したら、もう残らないもんな」

「うん。“未消化”って、もしかして……生きてる証かもしれない」

その言葉に、篤志はそっとうなずいた。

「じゃあ……これは?」

そう言って、篤志が渡したのは真っ白な紙だった。

「何も書いてない紙?」

「うん。将来の夢、もう一回書くなら、今度は“消化しないために”書こうと思って」

「……そんな紙、初めて見たかも」

「俺も」

イヨはその紙を、まだ口に運ばなかった。

その代わり、ペンを持って——一行だけ書いた。

「今度は、同じ味の夢を食べたい」

夜は更けていった。

紙の間の沈黙が、ふたりの間を優しく包んでいた。

次に話す言葉は、急がなくていい。
次に書く言葉は、白紙のままでいてもいい。

今はただ、まだ食べていない夢を、保存しておく時間だった。
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