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第九話:記憶を消さない方法
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「記憶は食べられる。でも、食べたらなくなっちゃうじゃない」
イヨがその言葉を口にしたのは、ある雨の午後だった。
篤志と「喫茶 記録室」の奥で小さな展示を見ていた時。そこには、客たちが持ち寄った「食べられなかった記憶」が並んでいた。
写真。
手紙。
レコード。
小さなキーホルダー。
どれも、“口に入れる”には向かない。
けれど、それでも“処理できずに残った感情”のかたちだった。
イヨは展示の中央に置かれた「割れた茶碗」をしばらく見つめていた。
その器には欠けた跡があり、そこに金の漆が流し込まれていた。
「金継ぎ……?」
「そう。壊れた器を、金で修復して“新しいもの”にする技法。
割れたことすら、味になるなんて……いいよね」
「記憶にも、金継ぎができたらな」
「できるかもよ?」
そのときイヨが見せた顔は、ずっと昔に見た、紙を噛み始める前の彼女の笑顔に似ていた。
その夜、ふたりは一緒に帰った。
どちらの家でもなかった。
展示の帰りにふと立ち寄った、小さなレンタルアトリエ。
週単位で借りられる創作スペース。壁一面が黒板で、道具は最低限、紙とペンだけ。
「ここで、“消さない記憶”を残してみようと思うの」
イヨはそう言って、バッグから何枚かの未調理の食用紙を取り出した。
「でも、食べないの?」
「食べない。“記録”だけして、“保存”するの。
私、思ったの。なんでも食べて処理しちゃうのって、たぶん、“思い出が怖いから”だった」
「怖い……?」
「そう。記憶って、残しておくと、勝手に育つの。
悪い方向にも、いい方向にも。
でも、育ちきった記憶って、愛しいんだよ。ちょっと腐ってても、もう手放せない。
……それを、初めて認めた気がする」
篤志は黙って、紙とペンを手に取った。
その夜、二人は別々に記憶を書いた。
イヨは、初めて篤志の前で紙に何かを書く姿を「見せた」。
今までのイヨは、書いたらすぐに煮込む。
誰にも読ませず、言葉を隠して、味にして、自分の中に沈めてきた。
だが今は違った。
書くたびに、イヨの筆が少しだけ止まり、ためらいながらも次の言葉へ進んでいく。
時折、篤志が「読んでもいい?」と尋ねると、彼女は無言でうなずいた。
そのやりとりが、何より深い会話だった。
【イヨの記録】(食べない用・非消化紙)
「あなたの寝癖が、左に跳ねる朝は、たいてい機嫌がいい」
「私が泣いた夜、あなたは必ず紅茶を出してくれた。あれ、渋すぎた」
「一緒に見た映画の名前、思い出せない。でも、私の指を握ってた強さは覚えてる」
「言葉じゃなく、沈黙でくれた“ごめんね”を、いまも飲み込めないでいる」
「でも、その“飲み込めない”のが、きっとあなたの優しさだと思った」
その記録を、ふたりは小さな木箱に詰めた。
名前をつけることにした。
「消さない記憶」。
「これ……誰にも見せないで、残しておこうか」
「いや」
イヨは首を振った。
「見せようよ。だってこれ、“私たちの愛の証拠”だから」
「誰に?」
「未来の私たちに」
数日後。
イヨはカフェの一角に「記憶の展示棚」を設置した。
そこには他のスタッフや客が“食べない記憶”を残していける小箱が並び、ふたりの木箱もその中にそっと加えられていた。
匿名のふりをしていたけれど、見ればすぐにわかる。
筆跡のクセ。言葉の選び方。
それは世界でただひとつ、ふたりにしか紡げない味だった。
その夜、篤志の家でイヨは言った。
「ねぇ、今日の記憶、書いていい?」
「もちろん」
「でも、もう“紙”じゃなくていいかも。あなたの声で、録音して。
……それが、私の“保存方法”になる気がする」
「じゃあ……なにか話すか」
「うん。たとえば、私の好きなとこ、10個言って」
「いきなり……」
「だめ?」
「……10個じゃ足りないけど」
「……あ。ずるい」
「ずるくないよ。たぶん、それが俺の“記憶を消さない方法”なんだ」
録音された声。
紡がれた言葉。
食べずに、話して、残して、たしかめ合う方法。
それが彼らにとって、ようやく見つけた“もうひとつの食べ方”だった。
記憶は消すものじゃない。
消えないまま、そばに置いて、時々眺める。
食べる代わりに、声にする。
飲み込む代わりに、目を閉じて思い出す。
それがたとえ未整理でも、未完成でも。
“記憶を消さない”という行為自体が、ふたりの再生だった。
イヨがその言葉を口にしたのは、ある雨の午後だった。
篤志と「喫茶 記録室」の奥で小さな展示を見ていた時。そこには、客たちが持ち寄った「食べられなかった記憶」が並んでいた。
写真。
手紙。
レコード。
小さなキーホルダー。
どれも、“口に入れる”には向かない。
けれど、それでも“処理できずに残った感情”のかたちだった。
イヨは展示の中央に置かれた「割れた茶碗」をしばらく見つめていた。
その器には欠けた跡があり、そこに金の漆が流し込まれていた。
「金継ぎ……?」
「そう。壊れた器を、金で修復して“新しいもの”にする技法。
割れたことすら、味になるなんて……いいよね」
「記憶にも、金継ぎができたらな」
「できるかもよ?」
そのときイヨが見せた顔は、ずっと昔に見た、紙を噛み始める前の彼女の笑顔に似ていた。
その夜、ふたりは一緒に帰った。
どちらの家でもなかった。
展示の帰りにふと立ち寄った、小さなレンタルアトリエ。
週単位で借りられる創作スペース。壁一面が黒板で、道具は最低限、紙とペンだけ。
「ここで、“消さない記憶”を残してみようと思うの」
イヨはそう言って、バッグから何枚かの未調理の食用紙を取り出した。
「でも、食べないの?」
「食べない。“記録”だけして、“保存”するの。
私、思ったの。なんでも食べて処理しちゃうのって、たぶん、“思い出が怖いから”だった」
「怖い……?」
「そう。記憶って、残しておくと、勝手に育つの。
悪い方向にも、いい方向にも。
でも、育ちきった記憶って、愛しいんだよ。ちょっと腐ってても、もう手放せない。
……それを、初めて認めた気がする」
篤志は黙って、紙とペンを手に取った。
その夜、二人は別々に記憶を書いた。
イヨは、初めて篤志の前で紙に何かを書く姿を「見せた」。
今までのイヨは、書いたらすぐに煮込む。
誰にも読ませず、言葉を隠して、味にして、自分の中に沈めてきた。
だが今は違った。
書くたびに、イヨの筆が少しだけ止まり、ためらいながらも次の言葉へ進んでいく。
時折、篤志が「読んでもいい?」と尋ねると、彼女は無言でうなずいた。
そのやりとりが、何より深い会話だった。
【イヨの記録】(食べない用・非消化紙)
「あなたの寝癖が、左に跳ねる朝は、たいてい機嫌がいい」
「私が泣いた夜、あなたは必ず紅茶を出してくれた。あれ、渋すぎた」
「一緒に見た映画の名前、思い出せない。でも、私の指を握ってた強さは覚えてる」
「言葉じゃなく、沈黙でくれた“ごめんね”を、いまも飲み込めないでいる」
「でも、その“飲み込めない”のが、きっとあなたの優しさだと思った」
その記録を、ふたりは小さな木箱に詰めた。
名前をつけることにした。
「消さない記憶」。
「これ……誰にも見せないで、残しておこうか」
「いや」
イヨは首を振った。
「見せようよ。だってこれ、“私たちの愛の証拠”だから」
「誰に?」
「未来の私たちに」
数日後。
イヨはカフェの一角に「記憶の展示棚」を設置した。
そこには他のスタッフや客が“食べない記憶”を残していける小箱が並び、ふたりの木箱もその中にそっと加えられていた。
匿名のふりをしていたけれど、見ればすぐにわかる。
筆跡のクセ。言葉の選び方。
それは世界でただひとつ、ふたりにしか紡げない味だった。
その夜、篤志の家でイヨは言った。
「ねぇ、今日の記憶、書いていい?」
「もちろん」
「でも、もう“紙”じゃなくていいかも。あなたの声で、録音して。
……それが、私の“保存方法”になる気がする」
「じゃあ……なにか話すか」
「うん。たとえば、私の好きなとこ、10個言って」
「いきなり……」
「だめ?」
「……10個じゃ足りないけど」
「……あ。ずるい」
「ずるくないよ。たぶん、それが俺の“記憶を消さない方法”なんだ」
録音された声。
紡がれた言葉。
食べずに、話して、残して、たしかめ合う方法。
それが彼らにとって、ようやく見つけた“もうひとつの食べ方”だった。
記憶は消すものじゃない。
消えないまま、そばに置いて、時々眺める。
食べる代わりに、声にする。
飲み込む代わりに、目を閉じて思い出す。
それがたとえ未整理でも、未完成でも。
“記憶を消さない”という行為自体が、ふたりの再生だった。
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