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第二話:喪服の女と人形の木
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午前十一時。
まだ陽の高い時間だったが、空気には異様な湿り気があった。
その女は、喪服を着ていた。
黒のワンピースに黒のパンプス。
襟元には真珠の一粒ネックレス。
明らかに、神社に参拝する格好ではない。
しかし、彼女の眼差しは、尋常でなかった。
理性と感情、そのどちらも過剰に燃えすぎた末に、もはや冷たく沈殿してしまったような――
言うなれば、「狂気の直前」である。
その女、野々宮凛音(ののみや りんね)が、鵺乃杜神社を訪れたのは、そんな空気が漂う日のことだった。
◆
「失礼いたします」
はっきりとした口調だった。
震えも、迷いもない。
社務所の縁側では、五寸釘零子が、うたた寝をしていた。
今日も、前髪が顔を覆い、まるで仮面のように人を寄せつけない。
凛音は一礼してから、まっすぐ彼女の前に座った。
「……あなたが、五寸釘零子さんですね」
「ふぁぁぁ……あぃ。はいぃ~。ようこそ、呪詛と純情のスピリチュアル・ジャパネスクへぇ……」
超脱力系の返答。
(……噂通りの変わり者、か)
凛音は冷めた目で巫女を観察した。
だが、零子がゆっくりと髪を結い始めたその瞬間――空気が変わる。
高く結われた髪の奥から現れた顔。
目元には、尋常でない気配が宿っていた。
澄んでいる。
だが、澄んでいるからこそ、怖い。
底がない。
感情という濁りを許さない、完全なる無垢の目。
零子は目を逸らさずに言った。
「呪いを願いに来たのですね」
「はい」
「詳細を」
凛音は語り始めた。
感情を排しているつもりだったが、言葉は自然と濁っていった。
「私は、婚約者に裏切られました。二年付き合って、プロポーズまでされました。両親にも紹介済みでした。それなのに彼は、式の一ヶ月前に、突然いなくなった。理由も言わず、ただ一通のメールだけで、“すまない”と」
拳を握る指先が白くなる。
「後になって知りました。彼は、職場の部下と……式の準備期間中から関係を持っていたんです。しかも、今はその女と同棲中。私は、笑い者です。会社も辞めました。友人にも、何も言えませんでした」
「……あなたが呪いたいのは、彼ですか? それとも、その女ですか?」
凛音は少し考えた。
「両方です」
零子は、何も言わずに立ち上がる。
そして、小さな棚を開き、二体の藁人形を取り出した。
初めから用意されていたかのようだった。
次に、布に包まれた長い鉄釘。
どれも五寸を優に超える、太くて黒い、まるで血を吸ったかのような釘。
凛音は、身を乗り出した。
「これが……」
「はい。呪詛の器です」
零子が膝の前に藁人形を置くと、どこからともなく、風が吹いた。
部屋の中にもかかわらず、凛音の髪がゆらりと揺れる。
「これから、名前を込めます。名前を言ってください。フルネームで」
凛音は、少し躊躇った。
だが、口にした。
「……南條敬。そして、山岸愛里」
零子はそれを一度だけ繰り返すと、藁人形の頭に軽く触れた。
その瞬間――人形の目が、開いたように見えた。
凛音は息を呑んだ。
空気が変わる。
畳が軋み、室内の温度が下がっていく。
どこか遠くから、金属の擦れるような音が聞こえた気がした。
「では、結界に入りましょう」
「けっかい……?」
零子は立ち上がり、凛音を社務所の裏へと誘った。
そこには、普通の目には見えない“裏参道”があるという。
◆
そこは、静寂の森だった。
鳥の声も、風の音もしない。
ただ、しんと冷えた空気だけが、皮膚の奥を這っていく。
見上げると、木々がどれも奇妙に歪んでいる。
だが、それ以上に異様だったのは――
木々の幹に、びっしりと打ち込まれた藁人形の数々。
それは本来、結界の外からは絶対に見えないものだった。
だが、今、凛音には見えている。
ひとつ、またひとつ。
誰かが打った無数の五寸釘が、木を黒く染め、呻くような音を立てている。
「ここが、呪詛の森です」
零子が釘と藁人形を取り出し、一本の古木の前に立つ。
「選びなさい。打つか、やめるか。これは、誰にも委ねられない選択です」
凛音は、躊躇いなく一歩踏み出した。
藁人形を手に取り、釘を握る。
だが、その瞬間――視界の端で、何かが蠢いた。
彼女が振り向くと、そこにいたのは猫だった。
真っ白な毛並み、オッドアイ。
昨日の夢に出てきたような錯覚に襲われる。
猫が、凛音をじっと見つめていた。
「……あなたも、見てるの?」
凛音は釘を構えた。
だが、手が震える。
零子が静かに言った。
「あなたがこのまま打てば、その男と女は、三日以内に“不幸”を受けます。事故、破局、病――方法は選べません。ですが、呪ったあなたも、代償を払います」
「……代償?」
「呪いとは、祈りの裏返し。誰かを呪うには、同じだけの痛みを“自分”にも与えることになる。あなたは、それを望みますか?」
凛音は、釘を持ち上げた。
だが、その手は、動かない。
目を閉じると、彼の笑顔が浮かんだ。
あの時間。
確かに、あったはずの愛情。
傷つけられた。
裏切られた。
許せない――でも。
(私は、本当にこの人を殺したいの?)
ふ、と肩から力が抜けた。
手から釘が落ちる。
凛音はその場に膝をつき、泣き崩れた。
◆
社務所に戻った凛音は、零子に頭を下げた。
「……ありがとうございました。私は、打たなくて良かった」
「はい」
零子はそれだけを言って、人形を焼却用の箱に入れた。
凛音が去った後、零子は一人、呪詛の森の奥を見つめた。
そこに――一本だけ、誰にも見えない黒い人形が、木の幹に突き刺さっていた。
(あなたは、まだ来る。きっと、もう一度)
五寸釘零子は、その闇を見据えていた。
(続く)
まだ陽の高い時間だったが、空気には異様な湿り気があった。
その女は、喪服を着ていた。
黒のワンピースに黒のパンプス。
襟元には真珠の一粒ネックレス。
明らかに、神社に参拝する格好ではない。
しかし、彼女の眼差しは、尋常でなかった。
理性と感情、そのどちらも過剰に燃えすぎた末に、もはや冷たく沈殿してしまったような――
言うなれば、「狂気の直前」である。
その女、野々宮凛音(ののみや りんね)が、鵺乃杜神社を訪れたのは、そんな空気が漂う日のことだった。
◆
「失礼いたします」
はっきりとした口調だった。
震えも、迷いもない。
社務所の縁側では、五寸釘零子が、うたた寝をしていた。
今日も、前髪が顔を覆い、まるで仮面のように人を寄せつけない。
凛音は一礼してから、まっすぐ彼女の前に座った。
「……あなたが、五寸釘零子さんですね」
「ふぁぁぁ……あぃ。はいぃ~。ようこそ、呪詛と純情のスピリチュアル・ジャパネスクへぇ……」
超脱力系の返答。
(……噂通りの変わり者、か)
凛音は冷めた目で巫女を観察した。
だが、零子がゆっくりと髪を結い始めたその瞬間――空気が変わる。
高く結われた髪の奥から現れた顔。
目元には、尋常でない気配が宿っていた。
澄んでいる。
だが、澄んでいるからこそ、怖い。
底がない。
感情という濁りを許さない、完全なる無垢の目。
零子は目を逸らさずに言った。
「呪いを願いに来たのですね」
「はい」
「詳細を」
凛音は語り始めた。
感情を排しているつもりだったが、言葉は自然と濁っていった。
「私は、婚約者に裏切られました。二年付き合って、プロポーズまでされました。両親にも紹介済みでした。それなのに彼は、式の一ヶ月前に、突然いなくなった。理由も言わず、ただ一通のメールだけで、“すまない”と」
拳を握る指先が白くなる。
「後になって知りました。彼は、職場の部下と……式の準備期間中から関係を持っていたんです。しかも、今はその女と同棲中。私は、笑い者です。会社も辞めました。友人にも、何も言えませんでした」
「……あなたが呪いたいのは、彼ですか? それとも、その女ですか?」
凛音は少し考えた。
「両方です」
零子は、何も言わずに立ち上がる。
そして、小さな棚を開き、二体の藁人形を取り出した。
初めから用意されていたかのようだった。
次に、布に包まれた長い鉄釘。
どれも五寸を優に超える、太くて黒い、まるで血を吸ったかのような釘。
凛音は、身を乗り出した。
「これが……」
「はい。呪詛の器です」
零子が膝の前に藁人形を置くと、どこからともなく、風が吹いた。
部屋の中にもかかわらず、凛音の髪がゆらりと揺れる。
「これから、名前を込めます。名前を言ってください。フルネームで」
凛音は、少し躊躇った。
だが、口にした。
「……南條敬。そして、山岸愛里」
零子はそれを一度だけ繰り返すと、藁人形の頭に軽く触れた。
その瞬間――人形の目が、開いたように見えた。
凛音は息を呑んだ。
空気が変わる。
畳が軋み、室内の温度が下がっていく。
どこか遠くから、金属の擦れるような音が聞こえた気がした。
「では、結界に入りましょう」
「けっかい……?」
零子は立ち上がり、凛音を社務所の裏へと誘った。
そこには、普通の目には見えない“裏参道”があるという。
◆
そこは、静寂の森だった。
鳥の声も、風の音もしない。
ただ、しんと冷えた空気だけが、皮膚の奥を這っていく。
見上げると、木々がどれも奇妙に歪んでいる。
だが、それ以上に異様だったのは――
木々の幹に、びっしりと打ち込まれた藁人形の数々。
それは本来、結界の外からは絶対に見えないものだった。
だが、今、凛音には見えている。
ひとつ、またひとつ。
誰かが打った無数の五寸釘が、木を黒く染め、呻くような音を立てている。
「ここが、呪詛の森です」
零子が釘と藁人形を取り出し、一本の古木の前に立つ。
「選びなさい。打つか、やめるか。これは、誰にも委ねられない選択です」
凛音は、躊躇いなく一歩踏み出した。
藁人形を手に取り、釘を握る。
だが、その瞬間――視界の端で、何かが蠢いた。
彼女が振り向くと、そこにいたのは猫だった。
真っ白な毛並み、オッドアイ。
昨日の夢に出てきたような錯覚に襲われる。
猫が、凛音をじっと見つめていた。
「……あなたも、見てるの?」
凛音は釘を構えた。
だが、手が震える。
零子が静かに言った。
「あなたがこのまま打てば、その男と女は、三日以内に“不幸”を受けます。事故、破局、病――方法は選べません。ですが、呪ったあなたも、代償を払います」
「……代償?」
「呪いとは、祈りの裏返し。誰かを呪うには、同じだけの痛みを“自分”にも与えることになる。あなたは、それを望みますか?」
凛音は、釘を持ち上げた。
だが、その手は、動かない。
目を閉じると、彼の笑顔が浮かんだ。
あの時間。
確かに、あったはずの愛情。
傷つけられた。
裏切られた。
許せない――でも。
(私は、本当にこの人を殺したいの?)
ふ、と肩から力が抜けた。
手から釘が落ちる。
凛音はその場に膝をつき、泣き崩れた。
◆
社務所に戻った凛音は、零子に頭を下げた。
「……ありがとうございました。私は、打たなくて良かった」
「はい」
零子はそれだけを言って、人形を焼却用の箱に入れた。
凛音が去った後、零子は一人、呪詛の森の奥を見つめた。
そこに――一本だけ、誰にも見えない黒い人形が、木の幹に突き刺さっていた。
(あなたは、まだ来る。きっと、もう一度)
五寸釘零子は、その闇を見据えていた。
(続く)
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