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第四話:子供を呪った女
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昼下がり。
神社の鳥居の前に、一人の女が立っていた。
年の頃は四十代後半。
グレーのコートを着て、腕にはブランドもののバッグ。
髪はきっちりと結い、立ち姿には威圧感すらあった。
だが、その女――橋爪真知子(はしづめ まちこ)の顔は、化粧の上からも分かるほどに、強張っていた。
目の下には隈。
口角は下がり、表情筋はずっと怒りに引っ張られているようだった。
彼女が鳥居をくぐった瞬間、境内の空気が微かに揺れた。
春の陽射しは優しいはずなのに、神社に一歩足を踏み入れたとたん、空気がひやりと冷たくなる。
◆
「呪ってほしいんです。あの子を、殺してください」
そう言って頭を下げた女を見て、五寸釘零子は無言のままお茶を淹れていた。
社務所の畳に座る真知子は、礼儀正しく、丁寧な言葉を使っていた。
けれど、その話の内容は、どう考えても常軌を逸していた。
「息子がいました。中学生でした。とても優しくて、成績も良くて、家族思いで……自慢の子でした」
淡々と語る声の裏に、言いようのない怒りと哀しみが潜んでいる。
「ある日、学校の帰り道に事故に遭いました。加害者は、高校生の女の子。自転車でスマホをいじっていて、飛び出してきた息子に気づかず、はねたんです」
零子の目が細められる。
「……彼女は、未成年でした。事故として処理されました。書類送検だけで、謝罪も形だけ。あとは“お察しください”とばかりに、加害者の親が金で済ませようとしたんです」
真知子の声が震える。
「……でも私は、あの子が笑って生きているのが許せない。うちの子は、もういないのに」
そして彼女は、震える手で一枚の写真を取り出す。
制服姿の少女。
あどけない表情。
何の罪もなさそうな笑顔。
「この子です」と真知子は言った。
「名前は?」
「……海老沢柚希(えびさわ ゆずき)」
零子は、その名前を繰り返すことはなかった。
ただ、静かに席を立ち、戸棚から藁人形を取り出す。
そして、一言。
「……それは、本当に“呪っていい命”ですか?」
◆
零子に導かれ、真知子は結界の奥へ進む。
呪詛の森――。
そこには、いつものように幾千の人形が風に揺れていた。
打ち込まれた釘が、誰にも見えぬ呻きを発している。
今日は、妙に森が静かだった。
零子は、一本の古木の前に立ち、背後の真知子を見た。
「呪いとは、感情の血です。あなたの中の怨念を、この人形に流し込めば、命を穢します。だから私は、もう一度だけ問います」
零子の目が、深く沈む。
「あなたは、本当にその子供を呪いますか?」
「ええ。あの子さえいなければ、うちの子は……!」
叫ぶようにそう言った瞬間、真知子の身体が一歩、森に踏み込んだ。
その時だった。
木々が、ざわっと、動いた。
風もないのに、枝が揺れ、葉が舞い、幹に打ち込まれた無数の人形が、いっせいに、首を傾けた。
まるで、「やめろ」と言っているように。
真知子が震える。
目の前の木が、呻くように軋んだ。
そのとき――森の奥から、足音が聞こえた。
ふらり、と、ひとつの影が現れた。
少女。
制服姿の、写真と同じ女の子。
海老沢柚希。
血の気のない顔。
足元は土に濡れている。
ただ、静かに、真知子の方を見ていた。
「……どうして……私を、そんな目で見るの……?」
――幻覚?
記憶?
それとも、森が見せる影?
零子は目を細めた。
(呪詛の森が、“選ばせている”)
この森は、呪う者に「代償の幻影」を見せる。
呪いの選択に意味があるか、それとも“痛みから逃げたいだけか”を試すのだ。
少女の幻影は、静かに言葉を紡いだ。
「……私、謝りました。怖かった。死にたかった。何度も思いました。でも、生きてるのが……怖くて……」
その声は、哀しみでも懺悔でもなかった。
ただ、自分の痛みを、等身大の言葉でぶつけてくる。
真知子の顔が歪む。
張りつめていた糸が、ぷつりと切れる。
「……何で、あなたが苦しんでるみたいな顔してるのよ」
「……」
「こっちは子供を失ったの。全部終わったの。なのに、なんで……なんで、あなたのほうが“悲劇のヒロイン”みたいな顔してるのよ……!」
叫んだ瞬間、木々が軋んだ。
森が、またしても怒った。
無数の藁人形が揺れ、釘がカタカタと音を立てる。
空気が重くなる。
命のない森が、まるで“裁くように”うねった。
零子が言う。
「あなたの息子さんは、あなたの心の中にいます。記憶の中に、言葉の端に、温度のすべてに。でも、その記憶を“呪い”で塗り潰せば――あなたは、もう二度と彼に会えなくなる」
その言葉とともに、幻の少女――柚希は、森の霧の中に消えていった。
沈黙。
そして、嗚咽。
真知子は、藁人形を地面に落とした。
それを見届けた零子は、五寸釘を拾い上げ――静かに、燃える小さな火鉢にくべた。
パチッ、と音がした。
それだけで、森の怒りは消えた。
◆
真知子は泣きながら帰っていった。
彼女の背中を見送りながら、零子は呟く。
「……“呪いたい”って気持ちは、誰だって持ってる。けど、それを本当に形にするのは、“化け物”だけよ」
傍らのカラクリが、にゃあと鳴いた。
「私は、“その橋”になるだけ。呪いの向こうに落ちるのか、踏みとどまるのか。――選ぶのは、いつも人間」
その言葉を呟く零子の瞳には、誰にも見せたことのない、深い寂しさが宿っていた。
(続く)
神社の鳥居の前に、一人の女が立っていた。
年の頃は四十代後半。
グレーのコートを着て、腕にはブランドもののバッグ。
髪はきっちりと結い、立ち姿には威圧感すらあった。
だが、その女――橋爪真知子(はしづめ まちこ)の顔は、化粧の上からも分かるほどに、強張っていた。
目の下には隈。
口角は下がり、表情筋はずっと怒りに引っ張られているようだった。
彼女が鳥居をくぐった瞬間、境内の空気が微かに揺れた。
春の陽射しは優しいはずなのに、神社に一歩足を踏み入れたとたん、空気がひやりと冷たくなる。
◆
「呪ってほしいんです。あの子を、殺してください」
そう言って頭を下げた女を見て、五寸釘零子は無言のままお茶を淹れていた。
社務所の畳に座る真知子は、礼儀正しく、丁寧な言葉を使っていた。
けれど、その話の内容は、どう考えても常軌を逸していた。
「息子がいました。中学生でした。とても優しくて、成績も良くて、家族思いで……自慢の子でした」
淡々と語る声の裏に、言いようのない怒りと哀しみが潜んでいる。
「ある日、学校の帰り道に事故に遭いました。加害者は、高校生の女の子。自転車でスマホをいじっていて、飛び出してきた息子に気づかず、はねたんです」
零子の目が細められる。
「……彼女は、未成年でした。事故として処理されました。書類送検だけで、謝罪も形だけ。あとは“お察しください”とばかりに、加害者の親が金で済ませようとしたんです」
真知子の声が震える。
「……でも私は、あの子が笑って生きているのが許せない。うちの子は、もういないのに」
そして彼女は、震える手で一枚の写真を取り出す。
制服姿の少女。
あどけない表情。
何の罪もなさそうな笑顔。
「この子です」と真知子は言った。
「名前は?」
「……海老沢柚希(えびさわ ゆずき)」
零子は、その名前を繰り返すことはなかった。
ただ、静かに席を立ち、戸棚から藁人形を取り出す。
そして、一言。
「……それは、本当に“呪っていい命”ですか?」
◆
零子に導かれ、真知子は結界の奥へ進む。
呪詛の森――。
そこには、いつものように幾千の人形が風に揺れていた。
打ち込まれた釘が、誰にも見えぬ呻きを発している。
今日は、妙に森が静かだった。
零子は、一本の古木の前に立ち、背後の真知子を見た。
「呪いとは、感情の血です。あなたの中の怨念を、この人形に流し込めば、命を穢します。だから私は、もう一度だけ問います」
零子の目が、深く沈む。
「あなたは、本当にその子供を呪いますか?」
「ええ。あの子さえいなければ、うちの子は……!」
叫ぶようにそう言った瞬間、真知子の身体が一歩、森に踏み込んだ。
その時だった。
木々が、ざわっと、動いた。
風もないのに、枝が揺れ、葉が舞い、幹に打ち込まれた無数の人形が、いっせいに、首を傾けた。
まるで、「やめろ」と言っているように。
真知子が震える。
目の前の木が、呻くように軋んだ。
そのとき――森の奥から、足音が聞こえた。
ふらり、と、ひとつの影が現れた。
少女。
制服姿の、写真と同じ女の子。
海老沢柚希。
血の気のない顔。
足元は土に濡れている。
ただ、静かに、真知子の方を見ていた。
「……どうして……私を、そんな目で見るの……?」
――幻覚?
記憶?
それとも、森が見せる影?
零子は目を細めた。
(呪詛の森が、“選ばせている”)
この森は、呪う者に「代償の幻影」を見せる。
呪いの選択に意味があるか、それとも“痛みから逃げたいだけか”を試すのだ。
少女の幻影は、静かに言葉を紡いだ。
「……私、謝りました。怖かった。死にたかった。何度も思いました。でも、生きてるのが……怖くて……」
その声は、哀しみでも懺悔でもなかった。
ただ、自分の痛みを、等身大の言葉でぶつけてくる。
真知子の顔が歪む。
張りつめていた糸が、ぷつりと切れる。
「……何で、あなたが苦しんでるみたいな顔してるのよ」
「……」
「こっちは子供を失ったの。全部終わったの。なのに、なんで……なんで、あなたのほうが“悲劇のヒロイン”みたいな顔してるのよ……!」
叫んだ瞬間、木々が軋んだ。
森が、またしても怒った。
無数の藁人形が揺れ、釘がカタカタと音を立てる。
空気が重くなる。
命のない森が、まるで“裁くように”うねった。
零子が言う。
「あなたの息子さんは、あなたの心の中にいます。記憶の中に、言葉の端に、温度のすべてに。でも、その記憶を“呪い”で塗り潰せば――あなたは、もう二度と彼に会えなくなる」
その言葉とともに、幻の少女――柚希は、森の霧の中に消えていった。
沈黙。
そして、嗚咽。
真知子は、藁人形を地面に落とした。
それを見届けた零子は、五寸釘を拾い上げ――静かに、燃える小さな火鉢にくべた。
パチッ、と音がした。
それだけで、森の怒りは消えた。
◆
真知子は泣きながら帰っていった。
彼女の背中を見送りながら、零子は呟く。
「……“呪いたい”って気持ちは、誰だって持ってる。けど、それを本当に形にするのは、“化け物”だけよ」
傍らのカラクリが、にゃあと鳴いた。
「私は、“その橋”になるだけ。呪いの向こうに落ちるのか、踏みとどまるのか。――選ぶのは、いつも人間」
その言葉を呟く零子の瞳には、誰にも見せたことのない、深い寂しさが宿っていた。
(続く)
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