56 / 61
第6部:剣士の涙と贖罪の太刀
第五十五話:過去という名の亡霊と、今ここにある仲間
しおりを挟む穢れの森は、その最深部に近づくにつれ、もはや森としての体裁を失っていった。 空は鉛色の瘴気に覆われ、視界は常に紫がかった霧の中にある 。一歩足を踏み出すたびに、靴底が「ジュブッ」と音を立ててぬかるみに沈み 、腐敗した土と、硫黄が焦げたような金属的な匂いが、呼吸のたびに思考を鈍らせる 。生き物の気配は絶えて久しく、聞こえるのは、瘴気に侵された木々が、自らの重みに耐えかねて軋む音と、一行の緊張した息遣いだけだった。
先頭を行く宗一郎は、鉄斎との稽古で掴みかけた「心の目」を、必死で研ぎ澄ませていた 。目に見える風景は当てにならない。彼は、自らの神経を森全体に広げるような感覚で、瘴気の流れの奥にある、わずかな「意図」の揺らぎを探っていた。 「止まれ」 宗一郎の低い声に、朱鷺と玄が即座に反応し、陽菜と小雪の乗る輿を守るように陣形を組む 。 瘴気が、前方の霧の中で、まるで意思を持ったかのように渦を巻いている。 そして、その霧がゆっくりと晴れるように割れ、一体の人影が静かに浮かび上がった。
それは、一人の男だった。 禍々しいまでの長さを誇る妖刀を、だらりと肩に担いでいる 。その男がそこに立った瞬間、森の重苦しい空気が、さらに密度を増した。瘴気が、彼を祝福するようにその身にまとわりついている。 「……あ」 宗一郎の背後で、息を呑む音がした。二つ。 一つは、朱鷺。彼女の全身から、これまでのどんな戦いとも比較にならない、純粋で、絶対零度の殺意が放たれた。彼女の瞳は、目の前の男を、もはや人間としてではなく、ただ斬り刻むべき「仇」として捉えていた。 もう一つは、玄だった。 「あ、あ、ああ……」 玄の喉から漏れたのは、殺意ではなかった。それは、言葉にならない、恐怖の喘ぎだった。 いつもの軽薄な笑みは消え失せ、彼の顔は血の気を失い、蒼白になっている。握られた剣の柄が、カタカタと小刻みに震えている。 男は、その二人の反応を心底楽しむように、歪んだ唇を吊り上げた。 「よう。久しぶりじゃねえか、二人とも」 男は、朱鷺に視線を移す。 「ずいぶんと良い女になったなァ、ジルベスタの生き残り。あの時、泣きわめいてた小娘が、今や『天下一』とはな。……ああ、弟だったか? リオとか言ったか。あのガキは、実にいい悲鳴を上げたぜ」 「貴様……!」 朱鷺の怒りが沸点に達し、神速の踏み込みで斬りかかる。 だが、男――影山は、その天下一の刃を、肩に担いだ妖刀で、まるで子供の遊び相手でもするかのように、軽々と受け止めた 。 「変わってねえなァ、お前の剣は。あの夜の憎しみそのままだ。だが、その程度の怒りじゃあ、俺には届かねえよ」 影山は朱鷺を蹴り飛ばすと、その視線を、未だにその場で凍りついている玄へと移した。 「それより、驚いたぜ。てめえはとっくに死んだと思ってた。……なんだっけな、ああ、『正義の剣』の橘 玄一郎、だったか?」
その名前を呼ばれた瞬間、玄の全身が、見えない杭で打ち付けられたかのように硬直した 。 「ひっ……!」 彼の脳裏に、実在しないはずの光景が、現実の瘴気を塗りつぶしてフラッシュバックする。 燃え盛るジルベスタの町 。 信じていた王国の裏切り 。 そして、目の前で、この男に斬り捨てられた、許嫁の小夜の、最後の笑顔 。 『必ずお前を守り抜く』 守れなかった約束。届かなかった剣。十五年間、酒と冗談の仮面の下に必死で封じ込めてきた悪夢が、今、目の前の「本物」によって、容赦なくこじ開けられた 。
「情けねえ面だ。あの女、小夜と言ったか? いい女だったなァ。お前が俺の足元で這いつくばってる間も、最後までお前の名前を呼んでたぜ」 「や、やめろ……」 「お前はあの時と同じだ。結局、何一つ守れねえ。今も、あの天下一の女の後ろに隠れて、震えてるだけじゃねえか!」 「やめろぉぉぉっ!!」 玄は叫んだ。しかし、それは反撃の雄叫びではなかった。ただの、恐怖に怯えた悲鳴だった。彼は、握っていた剣を、カラン、と乾いた音を立てて手放し、その場に両膝をついてうずくまってしまった。 「あ……あ……」 もう、何も見えない。何も聞こえない。彼の心は、十五年前のあの「紅い夜」に、完全に引き戻されていた 。
影山が、その無力な背中に妖刀を振り上げ、とどめを刺そうと一歩踏み出す。 その瞬間、玄を庇うように、朱鷺が間に割り込んだ 。 「お前の相手は、私だ!」 「邪魔だ」 影山の刃が、朱鷺の防御ごと薙ぎ払おうとする。 だが、その刃が朱鷺に届く、コンマ数秒前。 影山の足元で、何かが起きた。 彼が軸足としていた地面のぬかるみが、突如として不自然に盛り上がり、硬い木の根が、彼の足首を打った。 「なっ!?」 完璧だった影山の体勢が、ほんのわずかに、一瞬だけ、崩れた 。 それは、後方で戦況の「理」だけを読んでいた宗一郎が、影山の意識が朱鷺と玄の二人に完璧に分配された瞬間の「隙」を見抜き、そこへ超精密な転移魔法を叩き込んだ結果だった 。 影山は、即座に体勢を立て直し、苛立たしげに宗一郎を睨む。「小細工を……!」
だが、宗一郎の狙いは、影山ではなかった。 彼は、その一瞬の隙を使い、うずくまる玄に向かって、自らの魂を振り絞るように叫んでいた。 それは、現世で、教室の隅で、ただ無力にうずくまることしかできなかった、かつての自分自身に叩きつけるような叫びだった。 「玄さんッ!!」 「あんたが今ここで死んだら、隣で戦ってる朱鷺さんはどうなるんだ!」 「またか! また、目の前で見殺しにする気か!!」
その言葉は、雷鳴のように、十五年間凍りついていた玄の心を貫いた 。 玄の脳裏をよぎったのは、もはや小夜の最期の顔ではなかった。 それは、今、自分を庇うために、たった一人で絶望的な敵の前に立つ、朱鷺の小さな背中だった。 (……ああ、そうか) (俺は、また……) (違う。もう、やめた) (俺が守りたかったのは、過去の贖罪じゃねえ) (今、ここにある、こいつらの……)
玄が、ゆっくりと顔を上げる。 その瞳から、恐怖と絶望の色は、完全に消え失せていた。 十五年間、過去の亡霊に憑りつかれていた男は、今、死んだ。 代わりに、一人の剣士が、そこに立った。 道化の仮面を脱ぎ捨て、「今、ここにある仲間」を守るためだけに剣を握る、真の剣豪としての、橘 玄一郎が 。
彼は、静かに立ち上がり、落ちていた自分の剣を拾い上げる。 そして、朱鷺の隣に、一歩も引かずに並び立った 。 影山が、その尋常ならざる気配の変化に、初めて警戒の色を浮かべる。 朱鷺もまた、隣に立った男の、まるで別人のような研ぎ澄まされた覇気に、息を呑んだ。 玄は、ただ静かに、妖刀を構える宿敵を見据え、短く、低く、呟いた。
「……本気、出すぜ」
因縁の敵を前に、二人の剣士が、並び立つ。 決着の死闘が、今、始まろうとしていた 。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ガチャで領地改革! 没落辺境を職人召喚で立て直す若き領主
雪奈 水無月
ファンタジー
魔物大侵攻《モンスター・テンペスト》で父を失い、十五歳で領主となったロイド。
荒れ果てた辺境領を支えたのは、幼馴染のメイド・リーナと執事セバス、そして領民たちだった。
十八歳になったある日、女神アウレリアから“祝福”が降り、
ロイドの中で《スキル職人ガチャ》が覚醒する。
ガチャから現れるのは、防衛・経済・流通・娯楽など、
領地再建に不可欠な各分野のエキスパートたち。
魔物被害、経済不安、流通の断絶──
没落寸前の領地に、ようやく希望の光が差し込む。
新たな仲間と共に、若き領主ロイドの“辺境再生”が始まる。
追放された味噌カス第7王子の異種族たちと,のんびり辺境地開発
ハーフのクロエ
ファンタジー
アテナ王国の末っ子の第7王子に産まれたルーファスは魔力が0で無能者と言われ、大陸の妖精族や亜人やモンスターの多い大陸から離れた無人島に追放される。だが前世は万能スキル持ちで魔王を倒し英雄と呼ばれていたのを隠し生まれ変わってスローライフを送る為に無能者を装っていたのだ。そんなルーファスはスローライフを送るつもりが、無人島には人間族以外の種族の独自に進化した先住民がおり、周りの人たちが勝手に動いて気が付けば豊かで平和な強国を起こしていく物語です。
「婚約破棄された転生令嬢ですが、王城のメイド五百人に慕われるメイド長になりました。なお元婚約者は私のメイドに土下座中です」
まさき
恋愛
社畜OLとして過労死した私は、異世界の令嬢・アリア・ヴェルナーに転生した。
目が覚めたら、婚約破棄されていた。
理由は「地味で面白みがない」から。
泣く暇もなかった。翌朝、王城のメイド採用面接に向かった。
最初は鼻で笑われた。雑用係からのスタートだった。
でも——前世で叩き込まれた仕事術と、一人ひとりの話を聞く姿勢で、少しずつメイドたちが集まってきた。
厨房が変わった。リネンが変わった。王城全体が変わっていった。
そして就任スピーチで宣言した。
「500人全員の名前を、覚えます」
冷酷と噂される王太子は、静かに見ていた。
悪役令嬢は妨害を仕掛けてきた。
元婚約者は——後悔し始めていた。
婚約破棄された令嬢が、500人に慕われるメイド長になるまでの物語。
なお元婚約者は、私のメイドたちの前で土下座中です。
勘当された少年と不思議な少女
レイシール
ファンタジー
15歳を迎えた日、ランティスは父親から勘当を言い渡された。
理由は外れスキルを持ってるから…
眼の色が違うだけで気味が悪いと周りから避けられてる少女。
そんな2人が出会って…
荷物持ちを追放したら、酷い目にあった件について。
しばたろう
ファンタジー
無能だと思い込み、荷物持ちのレンジャーを追放した戦士アレクス。
しかし――
彼が切り捨てた仲間こそが、
実はパーティを陰で支えていたレアスキル持ちだった。
事実に気づいた時にはもう遅い。
道に迷い、魔獣に襲われ、些細な任務すらまともにこなせない。
“荷物持ちがいなくなった瞬間”から、
アレクスの日常は静かに崩壊していく。
短絡的な判断で、かけがえのない存在を手放した戦士。
そんな彼と再び肩を並べることになったのは――
美しいのに中二が暴走する魔法使い
ノー天気で鈍感な僧侶
そして天性の才を秘めた愛くるしい弟子レンジャー
かつての仲間たちと共に、アレクスはもう一度歩き出す。
自らの愚かさと向き合い、後悔し、懺悔し、それでも進むために。
これは、
“間違いを犯した男が、仲間と共に再び立ち上がる”
再生の物語である。
《小説家になろうにも投稿しています》
転生したら名家の次男になりましたが、俺は汚点らしいです
NEXTブレイブ
ファンタジー
ただの人間、野上良は名家であるグリモワール家の次男に転生したが、その次男には名家の人間でありながら、汚点であるが、兄、姉、母からは愛されていたが、父親からは嫌われていた
異世界転生したので、文明レベルを21世紀まで引き上げてみた ~前世の膨大な知識を元手に、貧乏貴族から世界を変える“近代化の父”になります~
夏見ナイ
ファンタジー
過労死したプラントエンジニアの俺が転生したのは、剣と魔法の世界のド貧乏な貴族の三男、リオ。石鹸すらない不衛生な環境、飢える家族と領民……。こんな絶望的な状況、やってられるか! 前世の知識を総動員し、俺は快適な生活とスローライフを目指して領地改革を開始する!
農業革命で食料問題を解決し、衛生革命で疫病を撲滅。石鹸、ガラス、醤油もどきで次々と生活レベルを向上させると、寂れた領地はみるみる豊かになっていった。
逃げてきた伯爵令嬢や森のエルフ、ワケありの元騎士など、頼れる仲間も集まり、順風満帆かと思いきや……その成功が、強欲な隣領や王都の貴族たちの目に留まってしまう。
これは、ただ快適に暮らしたかっただけの男が、やがて“近代化の父”と呼ばれるようになるまでの物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる