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1. 記憶の無い男
1-2. 記憶の無い男
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車を四十分ほど走らせ、たどり着いたのは石森市の隣に位置する東松下市のアパートだった。
住宅街の一角に、三階建てアパートが建てられている。築年数はそれなりに経っているようだ。よく見ると灰色の外壁に雨水の跡が目立っている。元は白かったのかもしれない。
アパートの目の前にある駐車場には数台の車や小型トラックが止まっていたが、白椛さんは車をするりと車間に滑り込ませた。
俺たちが車から降りると、駐車場の小型トラックから、中年の男が降りてきた。
男は、遺品整理業者ワジマサービスの社員で「ツダ」と名乗った。薄茶色の作業服に『津田』と書かれた名札が右胸に付いていた。
白椛さんは彼と落ち合う約束をしていたらしく、「異浦なんでも相談所の白椛です」と挨拶を交わした。
「二週間前、この三〇二号室で殺人事件が起きた。住んでいたのは同棲中のカップルで、男のほうが女を刺し殺したんだ。男は自分で一一〇番して、駆けつけてきた警察官に現行犯逮捕された」
説明しながら津田さんは迷いなく三〇二号室の奥へ進んでいく。白椛さんが続き、俺も慌ててついていった。
狭い廊下の片側には、市指定のゴミ袋が並び、段ボール数枚が壁に立てかけてある。
「事件はすぐに解決したから、女の遺族が遺品を持ち帰った。男の家族も必要な物を持って行った。残った家具や不用品の処分をうちが請け負ったんだ」
津田さんの声を聞きながら、俺は廊下の突き当たりに視線をやった。扉の隙間から、部屋に置かれたソファの影が見える。つい最近まで生活していた、匂いが残っているような錯覚がした。
「その日の作業員は三人、男性社員が二人と女性社員が一人。粗大ゴミを運び出して、小さいゴミは袋にまとめて……最後に清掃。完了しました、って報告を受けたはずだったんだがな」
そこで津田さんが立ち止まり、眉間に皺を寄せた。
「三人とも事務所に戻らなかった。直帰するなんて話はなかったから、俺が様子を見に来ることになって……見ての通りだ」
津田さんがため息をつきながら示した奥の部屋には、寝具や箪笥、化粧台がそのまま残っている。まるでほんの数日前まで誰かが生活していたようだった。
「作業完了したなんて嘘だったんですよ」と不満な様子を隠さずに言った津田さんだが、言い終えてすぐ、神妙な顔つきになって続けた。
「翌日作業員の一人、西沢という男には連絡が取れましてね。辞めたいと言うので自宅を訪ね、詳しく話を聞いたところ、西沢は途中で抜けて帰っていたそうなんです。……なんでも、『鏡に女が映っていて怖くなった』と」
「あの化粧台か?」
白椛さんが奥の部屋にある木製の化粧台を指差した。旅館の部屋にあるような深い茶色の化粧台には、四角い鏡と引き出しがついている。
「ええ、そう言ってました」
「女と言うと、この部屋で亡くなった被害者ってことか?」
「いえ、知らない女だと言ってました。怖くてなかなか話したがりませんでしたが……西沢が言うには、髪の長い年のいった女が鏡の中から睨んでいたそうです」
「たしか被害女性はまだ若かったな。髪も長いってほどじゃなかったはずだ、違う女を見たのか」
「……信じるんですか? ただの鏡ですよ」
怪訝そうな顔をした津田さんは、昨日様子を見にこの部屋を訪れて鏡を確認した際も、今も何も見えないそうだ。しかし会社の社長がこの手の話を信じる人間で、異浦なんでも相談所に相談し、化粧台の引き取りを依頼した。津田さんは案内を指示されたらしい。
「信じますよ。そういう仕事なんでね」
白椛さんはそう答えると、俺たちに向かって「さぁ、この化粧台を持って帰るぞ」と言った。
他の家具と比べると、この化粧台は何か暗い雰囲気だった。白い壁や白い箪笥に囲まれていると、木の茶色をより濃く感じる。まるで時間の流れが違う場所に置かれているかのように、周りの家具とは異質に感じられた。
一度化粧台を壁から離すため動かすと、思ったより重量があった。床に座って使う背の低いサイズだが、一人で持ち上げるのは無理だった。津田さんから室内で引きずると傷がつくと注意を受け、白椛さんに言われて俺と男子高校生の二人で運ぶことになった。
俺が鏡側を抱え、男子高校生が重さにふらつきながら引き出し側を持った。背が高いわりに非力なようだ。
ふと視線を下に落として鏡を見ると、一瞬、女が横切ったように見えた気がしたが、それを確認する前に白椛さんが布をかぶせた。紫色の布で覆われた鏡は見えなくなり、白椛さんはその布が落ちないよう紐を取り出して十字に縛った。
手ぶらに見えたのに、布も紐もどこに隠し持っていたんだろう。不思議に思ったが、男子高校生が動き出したため、俺も足を運んだ。
エレベーターは俺と男子高校生が横にした状態の化粧台を挟んで乗るには狭くて、壁を傷つける恐れがあったため使えず、階段を使って降りるしかなかった。
春先の冷えた空気の中でも、重い物を持って運んでいれば汗ばんでくる。おまけに男子高校生は俺と話すとき目を合わせようとしない。その態度が俺を余計不快にさせた。
化粧台はSUVのトランクに横に寝かせればギリギリ入るサイズだった。ちょっと斜めになってしまったが、エレベーターで先に降り、車に戻っていた白椛さん曰く多少無理な詰め込み方になっても問題ないそうだ。
来たときと同じく助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。車が発進し、アパートが見えなくなると白椛さんは「化粧台はこのあと寺に持って行って供養を頼むことにする」と教えてくれた。
「で、鏡の中に何か見えたかい? 何か感じたとか」
「……俺は特に何も」
紫色の布が被せられる前に見た、女の気配については口に出すのが躊躇われた。はっきり見たわけではないし、不思議と心臓が跳ねたり、背筋が凍ったりすることはなかった。
驚きはしたが、恐怖心は湧いてこない。ただ「見えた」と事実を受け止めただけだった。
……おかしい。
普通なら怖いと思うはずだろう。
少なくとも「死んだ女の霊かもしれない」と考えた瞬間、肌が粟立ってもいいはずなのに。
だが俺の胸の奥には、微かなざわつきと、「怖いと感じない自分」への違和感しか残らなかった。
そういえば、あの二人組の男のときもそうだ。ニヤニヤ笑う姿に不快さと嫌悪感はあっても、恐怖は感じなかった。
気づかなければ良かったと思う。
俺は――どこか感覚が欠けているんじゃないか。……いや、そんなことはない。白椛さんや男子高校生だって、鏡を前にしても特に変わりない態度じゃないか。そう思考を振り払う。
白椛さんは俺の返事を気にした様子もなく、後部座席へ向かって声をかけた。
「ワカコは何か気になったことあったか?」
「そうですねぇ……他の家具や室内の様子に比べて、なんだか化粧台だけ不似合いな感じでしたよね。若い女の子が買うには古めかしいデザインっていうか。今って安くてかわいい家具がいくらでも買えるのに、化粧台だけが民芸家具みたいでしたよ」
「たしか亡くなった女性はまた二十代前半だったな。貰い物か、自分で求めたものか……。ユイ、君はどうだった?」
「………シロさんも見えたんでしょ」
「はは、やっぱりか。けっこう強烈だったかい?」
白椛さんが軽く笑って応じると、男子高校生はそれ以上何も言わず、窓に額を寄せるようにして外の景色へ視線を逸らした。
白椛さんと男子高校生にはあの化粧台の鏡にはっきり幽霊が見えていたのか。
俺は白椛さんが言っていた通り、あの男二人の幽霊とだけ波長が合っているんだろうか。
俺たちを乗せたSUVは石森市に戻ると、ゆるやかな傾斜を上り日鳥山(標高六〇メートルほどしかなく、山というよりは小高い丘という表現のほうが合っている)の上にある寺へ向かった。
公園を抜けて、車を石巖寺の駐車場に止めた。白椛さんに言われて、男子高校生が人を呼びに境内へ入って行った。
日鳥山は市街地を一望できる。俺を病院へ送り迎えしてくれた宿泊所の職員の一人が、市内の主要なスポットをおおまかに車で走らせてくれたことがあったから、一度だけ来たことがある。俺の記憶が無いことを憐れんで、何か思い出せないかと世話を焼いてくれた。
白椛さんが車を降りたから、俺もなんとなく車を降りた。ワカコさんと二人で車内に残るのがなんだか落ち着かなかったからだ。
市街から反対側、駐車場側の展望広場からは太平洋が望める。正面左側には、太平洋へと流れ込む大きな川も見え、下へ降りる長い石の階段もあった。
展望広場にいくつか設置されたベンチの一つに老人が座っていて、その足元で茶色い犬が寝ていた。駐車場には車が数台止まっていたが、見渡す限り他に人はいないようだった。
階段入り口横にある、石の案内板を眺めながら白椛さんが俺に声をかけてきた。
「……この景色に覚えはあるか?」
「いや、前にも連れて来てもらったことがあるけど、何も……懐かしいと感じることもなかったです」
「そうか」
白椛さんが石の案内板に落ちていた葉を手でさっと払った。
以前訪れた際に見たときは、たしか案内板には震災のことが書いてあった気がする。展望広場から見える景色は、約十年ほど前に起きた東日本大震災の影響でだいぶ変わってしまったそうだ。
「このあたりに住んでいたわけじゃないのかもしれないな」
「え?」
「案外、旅行中だったとかな。君は何か理由があってこの石森市に来ていて、途中事故に遭って記憶を失ってしまった。なんてのはどうだ?」
「どうだ、と言われても。……俺は見つかったとき荷物を持っていなかったらしいので、近所に出かけただけだったかもしれないと言われました」
警察の話では、県内に俺に該当する行方不明者の届け出はなし。見つかった場所は県道だったから、店や民家は田畑の間にちらほらある程度で、徒歩で出かけていたというのも可能性としては低い気はするが。
白椛さんは「車や荷物は、もしかしたら轢き逃げした人間が持って行ってしまったのかもしれないな」と呟くと、振り返った。振り返った先に、ちょうど男子高校生が黒い袈裟を着た坊主を二人連れて戻ってくるのが見えた。
俺たちが車に戻ると、白椛さんは坊主たちに化粧台を運ぶように指示をした。
「住職はいないのか?」
「今は来客中です。まだ少しかかるかと」
申し訳なさそうな顔をする坊主に対し、白椛さんは「それならしょうがないな。じゃあこれよろしく頼む」と軽い口調で告げた。
化粧台を寺へ受け渡したあと、俺たちは相談所に戻った。ワカコさんと男子高校生を下ろした白椛さんは、俺を送ってくれると言う。
「すみません、ありがとうございます」
「いやいや、俺が付き合わせたんだ」
今日一日乗っていて思ったが、白椛さんは運転がかなり上手い。車の間を縫うように、ストレスなく軽快な運転で街中を走る。
「急に誘って、連れ回して悪かったな。……ところで、君が見てる男二人について聞いてもいいかい?」
白椛さんは少しだけ真剣な口調になった気がする。俺が返事をする前に、「二人はどんな男なんだ?」と質問された。
「どんな、って」
「化粧台の鏡には何も見えなかったと言っていただろ。となると、やっぱり男二人とはよっぽど波長が合うのかもしれない。どんな男たちが見える? 年齢や服装、性別以外に分かることは?」
「年齢……俺と同じくらいに見えます。どっちもたぶん二十後半くらいですかね」
俺自身が何歳なのか、正確には思い出せないが。
「服装はその辺にいる感じ……デニムに古着っぽい緑のチェックシャツ、中は黒で、茶色っぽい靴履いてます。もう一人は……カーゴパンツにグレーのパーカーで、黒いスニーカーです。あ、黒いキャップも被ってます」
思い出しながら、不快な笑みがちらついて嫌な気分だ。
「清潔さはどうだ? 髭が生えてる、服が皺だらけ、逆に襟も袖もピンと張ってアイロンをかけたばかりに見える、とか」
「………黒く、汚れてますね。全体的に」
近くでまじまじと見たことはないが、泥が渇いたような汚れで、服や靴、顔がところどころ黒く汚れている。
見えていたはずなのに、白椛さんに言われて初めてその特徴に気づく。嘲るような笑いを嫌で、なるべく見ないようにしていたせいだろうか。
「そうか」
そう言うと、白椛さんは数分だけ黙ったあと、ポツリと「生前の知り合いかもしれないな」と零した。
「男二人は実は君の知り合いだった、なんてこともあるかもな。……二人が誰なのか気になったことはあるか?」
「………宿泊所で見たときに、誰なのか聞いたことはあります」
見えてないと知って、聞いても意味がないと思っていた。
波長が合う、というのは知り合いだったり、俺と繋がりがあるということなんだろうか。質問してみたが、白椛さんは「さぁな」としか返してくれなかった。
宿泊所に着いたのは、十六時を過ぎた頃だった。
俺を下ろした白椛さんは、特に次の約束はせずにさっさと帰っていった。
虚しさを感じながら、宿泊所の自室へ戻る。夕食の時間にはまだ早い。俺のいる宿泊所では、毎日決まった時間に三食質素な食事が提供されていた。食費は生活保護費から差し引かれている。
着替えもせず、敷きっぱなしだった布団の上に寝転んだ。
ちょっと疲れたな。いつもなら病院の診察が終わったら、帰ってきてゆっくり休養を取る――ぼーっとしたり、テレビを眺めたりしていた。けれど、今日は移動距離も多く、久しぶりに職員や医者以外と話をした。
四畳の狭い室内を見渡して、ため息をつく。備え付けの家具は新品ではない。俺が入居する前、誰かが同じように使ったことがある。そう思うと、生理的嫌悪すら感じるようだった。
仕事を探して、生活を立て直さなきゃいけないと思っていた。早くここから出たい、と。
いつまでも生活保護を受けてこんなところにいるわけにはいかないだろう。記憶が無いこと以外、病気や怪我をしているわけでもない。
……いや、俺は精神病患者なんだった。
だから病院へ通っていたのだ。男二人が幽霊だったと知って病気じゃないと分かったが、医者に「幽霊が見えていただけだった。だから俺は病気じゃない」と言ったら、何と答えるのだろうか。
白椛さんは、たしかそこそこの腕時計をしていた。着ていた服や乗っていた車も、一般的な生活水準より少し上だ。もしあの相談所とやらで雇ってもらえたら、俺もそれなりの給料を貰えるんだろうか。
学歴や職歴も分からない上に、精神病と診断されている今、まともな仕事に就くのは難しい。だからと言って、清掃員や工場で単純作業をするような底辺の仕事はしたくなかった。
ままならない現状に、再度ため息をついた。
いつの間にかウトウトしていたようだ。
ドアをノックする音が聞こえて、意識を取り戻す。壁掛けの時計を見ると、一時間近く経過していた。
立ち上がってドアを開けると、女の職員が立っていた。五十代くらいで、いつも眉間に皺を刻んでいる。笑っているところを見たことがなく、俺を見かけると彼女はいつも病気のことを聞いてきた。
荷物が届いているから早く取りにこいと言われ、着いていく。春先とはいえまだ日は短く、日当たりの悪い施設内は薄暗くなっていた。
心の中で首をかしげる。パソコンもスマホも持っていないから通販もできないし、店先で注文した覚えもない。心当たりがないのだが、女が言うには俺宛だと言う。
「これ、さっさと部屋に持って行ってくれる? 邪魔だから。重くて持てないのよ」
「はぁ」と生返事を返しつつ、玄関すぐそばの受付前に置かれた荷物を確認する。腹の高さほどもある大きい段ボールだった。
「大きな家具を買うようなお金あるんだねぇ?」と隠さず嫌味をぶつけてくる女職員を無視して、送り先や依頼主の名前を探す。しかし見つからなかった。
「伝票は受け取ってますか? 荷物に心当たりがなくて……」
「えぇ? そんなの受け取って無いわよ。さっき、貴方宛だって持ってきたんだから」
いつも来る宅配業者よ、と女職員はあからさまに顔を顰めた。
そう言われても心当たりが全くないのだが、ここで女職員と問答しても意味がなさそうだった。とにかく部屋へ持ち帰るかと、持ち上げようとしたら重くて持ち上がらない。どうしたものかと途方に暮れていると、受付から俺の様子を窺っていた女職員がカッターを貸してくれた。
「段ボールは畳んでゴミ置き場に持っていって。他の段ボールと一緒にして、散らかさないでよね」
俺が散らかしたことなんか今まで無いだろう。受付へ戻る女職員へ、苛立ちを隠して礼を言い、カッターで段ボールを開ける。
中身は茶色い木で出来た、
「ひぃっ!」
俺は思わず声を上げた。咄嗟に数歩、後ずさる。
段ボールを観音開きに開けると、中にはあの化粧台が鎮座していた。
紫色の布はない。暗い箱の中で、鏡がこちらを向いている。
――女がいた。
いや、違う。女“たち”だ。
一人ではない。何人も。鏡の中に、びっしりと詰め込まれるように。
生気のない顔色。だらんと開いた口から血が垂れている。
ボサボサの髪。鼻血。血走った眼。
そのすべてが、俺だけを真っ直ぐに見ていた。
――「助けて、助けてください!」
――「いやあぁぁぁ! やめて、誰か!」
頭の中で女の悲鳴が響く。映像のように、血と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、懇願する映像が流れていく。
「ひぃ……」と引き攣った声を上げ、俺は震えが止まらなかった。女職員が何か言っていたがどうでも良かった。この場にいてくれるだけで、ありがたかった。
必死に鏡から目を逸らし、距離を取ろうとしたとき――。
ふと背後に気配を感じた。
振り返らない方がいい。
そう感じているのに、身体が勝手に上半身をひねるように振り返ってしまう。
……男が二人立っていた。
数歩分の距離しかない。口元を歪めて笑っている。
こんなに近くで見るのは初めてだった。
ニヤニヤと黄色い歯を見せながら、血の混じった涎を垂らしている。ゾッと背筋が寒くなった。
今までこの二人を怖いと思ったことはなかったはずなのに、込み上げてくる恐怖に吐き気がする。
声が聞こえてくる。
――「どうする? 今日もいつものやるだろ」
――ゲヘヘと、男が締まりのない笑いが耳を汚す。
――「おい、証拠残したらバレるだろ! だからお前みたいな頭の悪い奴と組むのは嫌だったんだよ」
――「悪かったよ、そんなに怒るなよ。なぁ、なんとかなるだろ?」
――顔色を窺うように、決まり悪そうな表情で口元に媚びるような笑みを浮かべている。
「やっ、やめろ!……ひぃ、来るなぁ!」
逃げようとして、足がもつれた。派手に尻餅をつきながら、鏡から、男たちから距離を取ろうと必死に体をばたつかせた。
誰か、何とかしてくれ!
誰か、誰か!
逃げたいのに、体が思うように動かず手が空を切る。力の入れ方が分からなくなって、立ち上がることさえ出来ない。
目の前の男たち、鏡に映る女たち。
俺はその両方に挟まれて、逃げ場を完全に失っていた。
住宅街の一角に、三階建てアパートが建てられている。築年数はそれなりに経っているようだ。よく見ると灰色の外壁に雨水の跡が目立っている。元は白かったのかもしれない。
アパートの目の前にある駐車場には数台の車や小型トラックが止まっていたが、白椛さんは車をするりと車間に滑り込ませた。
俺たちが車から降りると、駐車場の小型トラックから、中年の男が降りてきた。
男は、遺品整理業者ワジマサービスの社員で「ツダ」と名乗った。薄茶色の作業服に『津田』と書かれた名札が右胸に付いていた。
白椛さんは彼と落ち合う約束をしていたらしく、「異浦なんでも相談所の白椛です」と挨拶を交わした。
「二週間前、この三〇二号室で殺人事件が起きた。住んでいたのは同棲中のカップルで、男のほうが女を刺し殺したんだ。男は自分で一一〇番して、駆けつけてきた警察官に現行犯逮捕された」
説明しながら津田さんは迷いなく三〇二号室の奥へ進んでいく。白椛さんが続き、俺も慌ててついていった。
狭い廊下の片側には、市指定のゴミ袋が並び、段ボール数枚が壁に立てかけてある。
「事件はすぐに解決したから、女の遺族が遺品を持ち帰った。男の家族も必要な物を持って行った。残った家具や不用品の処分をうちが請け負ったんだ」
津田さんの声を聞きながら、俺は廊下の突き当たりに視線をやった。扉の隙間から、部屋に置かれたソファの影が見える。つい最近まで生活していた、匂いが残っているような錯覚がした。
「その日の作業員は三人、男性社員が二人と女性社員が一人。粗大ゴミを運び出して、小さいゴミは袋にまとめて……最後に清掃。完了しました、って報告を受けたはずだったんだがな」
そこで津田さんが立ち止まり、眉間に皺を寄せた。
「三人とも事務所に戻らなかった。直帰するなんて話はなかったから、俺が様子を見に来ることになって……見ての通りだ」
津田さんがため息をつきながら示した奥の部屋には、寝具や箪笥、化粧台がそのまま残っている。まるでほんの数日前まで誰かが生活していたようだった。
「作業完了したなんて嘘だったんですよ」と不満な様子を隠さずに言った津田さんだが、言い終えてすぐ、神妙な顔つきになって続けた。
「翌日作業員の一人、西沢という男には連絡が取れましてね。辞めたいと言うので自宅を訪ね、詳しく話を聞いたところ、西沢は途中で抜けて帰っていたそうなんです。……なんでも、『鏡に女が映っていて怖くなった』と」
「あの化粧台か?」
白椛さんが奥の部屋にある木製の化粧台を指差した。旅館の部屋にあるような深い茶色の化粧台には、四角い鏡と引き出しがついている。
「ええ、そう言ってました」
「女と言うと、この部屋で亡くなった被害者ってことか?」
「いえ、知らない女だと言ってました。怖くてなかなか話したがりませんでしたが……西沢が言うには、髪の長い年のいった女が鏡の中から睨んでいたそうです」
「たしか被害女性はまだ若かったな。髪も長いってほどじゃなかったはずだ、違う女を見たのか」
「……信じるんですか? ただの鏡ですよ」
怪訝そうな顔をした津田さんは、昨日様子を見にこの部屋を訪れて鏡を確認した際も、今も何も見えないそうだ。しかし会社の社長がこの手の話を信じる人間で、異浦なんでも相談所に相談し、化粧台の引き取りを依頼した。津田さんは案内を指示されたらしい。
「信じますよ。そういう仕事なんでね」
白椛さんはそう答えると、俺たちに向かって「さぁ、この化粧台を持って帰るぞ」と言った。
他の家具と比べると、この化粧台は何か暗い雰囲気だった。白い壁や白い箪笥に囲まれていると、木の茶色をより濃く感じる。まるで時間の流れが違う場所に置かれているかのように、周りの家具とは異質に感じられた。
一度化粧台を壁から離すため動かすと、思ったより重量があった。床に座って使う背の低いサイズだが、一人で持ち上げるのは無理だった。津田さんから室内で引きずると傷がつくと注意を受け、白椛さんに言われて俺と男子高校生の二人で運ぶことになった。
俺が鏡側を抱え、男子高校生が重さにふらつきながら引き出し側を持った。背が高いわりに非力なようだ。
ふと視線を下に落として鏡を見ると、一瞬、女が横切ったように見えた気がしたが、それを確認する前に白椛さんが布をかぶせた。紫色の布で覆われた鏡は見えなくなり、白椛さんはその布が落ちないよう紐を取り出して十字に縛った。
手ぶらに見えたのに、布も紐もどこに隠し持っていたんだろう。不思議に思ったが、男子高校生が動き出したため、俺も足を運んだ。
エレベーターは俺と男子高校生が横にした状態の化粧台を挟んで乗るには狭くて、壁を傷つける恐れがあったため使えず、階段を使って降りるしかなかった。
春先の冷えた空気の中でも、重い物を持って運んでいれば汗ばんでくる。おまけに男子高校生は俺と話すとき目を合わせようとしない。その態度が俺を余計不快にさせた。
化粧台はSUVのトランクに横に寝かせればギリギリ入るサイズだった。ちょっと斜めになってしまったが、エレベーターで先に降り、車に戻っていた白椛さん曰く多少無理な詰め込み方になっても問題ないそうだ。
来たときと同じく助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。車が発進し、アパートが見えなくなると白椛さんは「化粧台はこのあと寺に持って行って供養を頼むことにする」と教えてくれた。
「で、鏡の中に何か見えたかい? 何か感じたとか」
「……俺は特に何も」
紫色の布が被せられる前に見た、女の気配については口に出すのが躊躇われた。はっきり見たわけではないし、不思議と心臓が跳ねたり、背筋が凍ったりすることはなかった。
驚きはしたが、恐怖心は湧いてこない。ただ「見えた」と事実を受け止めただけだった。
……おかしい。
普通なら怖いと思うはずだろう。
少なくとも「死んだ女の霊かもしれない」と考えた瞬間、肌が粟立ってもいいはずなのに。
だが俺の胸の奥には、微かなざわつきと、「怖いと感じない自分」への違和感しか残らなかった。
そういえば、あの二人組の男のときもそうだ。ニヤニヤ笑う姿に不快さと嫌悪感はあっても、恐怖は感じなかった。
気づかなければ良かったと思う。
俺は――どこか感覚が欠けているんじゃないか。……いや、そんなことはない。白椛さんや男子高校生だって、鏡を前にしても特に変わりない態度じゃないか。そう思考を振り払う。
白椛さんは俺の返事を気にした様子もなく、後部座席へ向かって声をかけた。
「ワカコは何か気になったことあったか?」
「そうですねぇ……他の家具や室内の様子に比べて、なんだか化粧台だけ不似合いな感じでしたよね。若い女の子が買うには古めかしいデザインっていうか。今って安くてかわいい家具がいくらでも買えるのに、化粧台だけが民芸家具みたいでしたよ」
「たしか亡くなった女性はまた二十代前半だったな。貰い物か、自分で求めたものか……。ユイ、君はどうだった?」
「………シロさんも見えたんでしょ」
「はは、やっぱりか。けっこう強烈だったかい?」
白椛さんが軽く笑って応じると、男子高校生はそれ以上何も言わず、窓に額を寄せるようにして外の景色へ視線を逸らした。
白椛さんと男子高校生にはあの化粧台の鏡にはっきり幽霊が見えていたのか。
俺は白椛さんが言っていた通り、あの男二人の幽霊とだけ波長が合っているんだろうか。
俺たちを乗せたSUVは石森市に戻ると、ゆるやかな傾斜を上り日鳥山(標高六〇メートルほどしかなく、山というよりは小高い丘という表現のほうが合っている)の上にある寺へ向かった。
公園を抜けて、車を石巖寺の駐車場に止めた。白椛さんに言われて、男子高校生が人を呼びに境内へ入って行った。
日鳥山は市街地を一望できる。俺を病院へ送り迎えしてくれた宿泊所の職員の一人が、市内の主要なスポットをおおまかに車で走らせてくれたことがあったから、一度だけ来たことがある。俺の記憶が無いことを憐れんで、何か思い出せないかと世話を焼いてくれた。
白椛さんが車を降りたから、俺もなんとなく車を降りた。ワカコさんと二人で車内に残るのがなんだか落ち着かなかったからだ。
市街から反対側、駐車場側の展望広場からは太平洋が望める。正面左側には、太平洋へと流れ込む大きな川も見え、下へ降りる長い石の階段もあった。
展望広場にいくつか設置されたベンチの一つに老人が座っていて、その足元で茶色い犬が寝ていた。駐車場には車が数台止まっていたが、見渡す限り他に人はいないようだった。
階段入り口横にある、石の案内板を眺めながら白椛さんが俺に声をかけてきた。
「……この景色に覚えはあるか?」
「いや、前にも連れて来てもらったことがあるけど、何も……懐かしいと感じることもなかったです」
「そうか」
白椛さんが石の案内板に落ちていた葉を手でさっと払った。
以前訪れた際に見たときは、たしか案内板には震災のことが書いてあった気がする。展望広場から見える景色は、約十年ほど前に起きた東日本大震災の影響でだいぶ変わってしまったそうだ。
「このあたりに住んでいたわけじゃないのかもしれないな」
「え?」
「案外、旅行中だったとかな。君は何か理由があってこの石森市に来ていて、途中事故に遭って記憶を失ってしまった。なんてのはどうだ?」
「どうだ、と言われても。……俺は見つかったとき荷物を持っていなかったらしいので、近所に出かけただけだったかもしれないと言われました」
警察の話では、県内に俺に該当する行方不明者の届け出はなし。見つかった場所は県道だったから、店や民家は田畑の間にちらほらある程度で、徒歩で出かけていたというのも可能性としては低い気はするが。
白椛さんは「車や荷物は、もしかしたら轢き逃げした人間が持って行ってしまったのかもしれないな」と呟くと、振り返った。振り返った先に、ちょうど男子高校生が黒い袈裟を着た坊主を二人連れて戻ってくるのが見えた。
俺たちが車に戻ると、白椛さんは坊主たちに化粧台を運ぶように指示をした。
「住職はいないのか?」
「今は来客中です。まだ少しかかるかと」
申し訳なさそうな顔をする坊主に対し、白椛さんは「それならしょうがないな。じゃあこれよろしく頼む」と軽い口調で告げた。
化粧台を寺へ受け渡したあと、俺たちは相談所に戻った。ワカコさんと男子高校生を下ろした白椛さんは、俺を送ってくれると言う。
「すみません、ありがとうございます」
「いやいや、俺が付き合わせたんだ」
今日一日乗っていて思ったが、白椛さんは運転がかなり上手い。車の間を縫うように、ストレスなく軽快な運転で街中を走る。
「急に誘って、連れ回して悪かったな。……ところで、君が見てる男二人について聞いてもいいかい?」
白椛さんは少しだけ真剣な口調になった気がする。俺が返事をする前に、「二人はどんな男なんだ?」と質問された。
「どんな、って」
「化粧台の鏡には何も見えなかったと言っていただろ。となると、やっぱり男二人とはよっぽど波長が合うのかもしれない。どんな男たちが見える? 年齢や服装、性別以外に分かることは?」
「年齢……俺と同じくらいに見えます。どっちもたぶん二十後半くらいですかね」
俺自身が何歳なのか、正確には思い出せないが。
「服装はその辺にいる感じ……デニムに古着っぽい緑のチェックシャツ、中は黒で、茶色っぽい靴履いてます。もう一人は……カーゴパンツにグレーのパーカーで、黒いスニーカーです。あ、黒いキャップも被ってます」
思い出しながら、不快な笑みがちらついて嫌な気分だ。
「清潔さはどうだ? 髭が生えてる、服が皺だらけ、逆に襟も袖もピンと張ってアイロンをかけたばかりに見える、とか」
「………黒く、汚れてますね。全体的に」
近くでまじまじと見たことはないが、泥が渇いたような汚れで、服や靴、顔がところどころ黒く汚れている。
見えていたはずなのに、白椛さんに言われて初めてその特徴に気づく。嘲るような笑いを嫌で、なるべく見ないようにしていたせいだろうか。
「そうか」
そう言うと、白椛さんは数分だけ黙ったあと、ポツリと「生前の知り合いかもしれないな」と零した。
「男二人は実は君の知り合いだった、なんてこともあるかもな。……二人が誰なのか気になったことはあるか?」
「………宿泊所で見たときに、誰なのか聞いたことはあります」
見えてないと知って、聞いても意味がないと思っていた。
波長が合う、というのは知り合いだったり、俺と繋がりがあるということなんだろうか。質問してみたが、白椛さんは「さぁな」としか返してくれなかった。
宿泊所に着いたのは、十六時を過ぎた頃だった。
俺を下ろした白椛さんは、特に次の約束はせずにさっさと帰っていった。
虚しさを感じながら、宿泊所の自室へ戻る。夕食の時間にはまだ早い。俺のいる宿泊所では、毎日決まった時間に三食質素な食事が提供されていた。食費は生活保護費から差し引かれている。
着替えもせず、敷きっぱなしだった布団の上に寝転んだ。
ちょっと疲れたな。いつもなら病院の診察が終わったら、帰ってきてゆっくり休養を取る――ぼーっとしたり、テレビを眺めたりしていた。けれど、今日は移動距離も多く、久しぶりに職員や医者以外と話をした。
四畳の狭い室内を見渡して、ため息をつく。備え付けの家具は新品ではない。俺が入居する前、誰かが同じように使ったことがある。そう思うと、生理的嫌悪すら感じるようだった。
仕事を探して、生活を立て直さなきゃいけないと思っていた。早くここから出たい、と。
いつまでも生活保護を受けてこんなところにいるわけにはいかないだろう。記憶が無いこと以外、病気や怪我をしているわけでもない。
……いや、俺は精神病患者なんだった。
だから病院へ通っていたのだ。男二人が幽霊だったと知って病気じゃないと分かったが、医者に「幽霊が見えていただけだった。だから俺は病気じゃない」と言ったら、何と答えるのだろうか。
白椛さんは、たしかそこそこの腕時計をしていた。着ていた服や乗っていた車も、一般的な生活水準より少し上だ。もしあの相談所とやらで雇ってもらえたら、俺もそれなりの給料を貰えるんだろうか。
学歴や職歴も分からない上に、精神病と診断されている今、まともな仕事に就くのは難しい。だからと言って、清掃員や工場で単純作業をするような底辺の仕事はしたくなかった。
ままならない現状に、再度ため息をついた。
いつの間にかウトウトしていたようだ。
ドアをノックする音が聞こえて、意識を取り戻す。壁掛けの時計を見ると、一時間近く経過していた。
立ち上がってドアを開けると、女の職員が立っていた。五十代くらいで、いつも眉間に皺を刻んでいる。笑っているところを見たことがなく、俺を見かけると彼女はいつも病気のことを聞いてきた。
荷物が届いているから早く取りにこいと言われ、着いていく。春先とはいえまだ日は短く、日当たりの悪い施設内は薄暗くなっていた。
心の中で首をかしげる。パソコンもスマホも持っていないから通販もできないし、店先で注文した覚えもない。心当たりがないのだが、女が言うには俺宛だと言う。
「これ、さっさと部屋に持って行ってくれる? 邪魔だから。重くて持てないのよ」
「はぁ」と生返事を返しつつ、玄関すぐそばの受付前に置かれた荷物を確認する。腹の高さほどもある大きい段ボールだった。
「大きな家具を買うようなお金あるんだねぇ?」と隠さず嫌味をぶつけてくる女職員を無視して、送り先や依頼主の名前を探す。しかし見つからなかった。
「伝票は受け取ってますか? 荷物に心当たりがなくて……」
「えぇ? そんなの受け取って無いわよ。さっき、貴方宛だって持ってきたんだから」
いつも来る宅配業者よ、と女職員はあからさまに顔を顰めた。
そう言われても心当たりが全くないのだが、ここで女職員と問答しても意味がなさそうだった。とにかく部屋へ持ち帰るかと、持ち上げようとしたら重くて持ち上がらない。どうしたものかと途方に暮れていると、受付から俺の様子を窺っていた女職員がカッターを貸してくれた。
「段ボールは畳んでゴミ置き場に持っていって。他の段ボールと一緒にして、散らかさないでよね」
俺が散らかしたことなんか今まで無いだろう。受付へ戻る女職員へ、苛立ちを隠して礼を言い、カッターで段ボールを開ける。
中身は茶色い木で出来た、
「ひぃっ!」
俺は思わず声を上げた。咄嗟に数歩、後ずさる。
段ボールを観音開きに開けると、中にはあの化粧台が鎮座していた。
紫色の布はない。暗い箱の中で、鏡がこちらを向いている。
――女がいた。
いや、違う。女“たち”だ。
一人ではない。何人も。鏡の中に、びっしりと詰め込まれるように。
生気のない顔色。だらんと開いた口から血が垂れている。
ボサボサの髪。鼻血。血走った眼。
そのすべてが、俺だけを真っ直ぐに見ていた。
――「助けて、助けてください!」
――「いやあぁぁぁ! やめて、誰か!」
頭の中で女の悲鳴が響く。映像のように、血と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、懇願する映像が流れていく。
「ひぃ……」と引き攣った声を上げ、俺は震えが止まらなかった。女職員が何か言っていたがどうでも良かった。この場にいてくれるだけで、ありがたかった。
必死に鏡から目を逸らし、距離を取ろうとしたとき――。
ふと背後に気配を感じた。
振り返らない方がいい。
そう感じているのに、身体が勝手に上半身をひねるように振り返ってしまう。
……男が二人立っていた。
数歩分の距離しかない。口元を歪めて笑っている。
こんなに近くで見るのは初めてだった。
ニヤニヤと黄色い歯を見せながら、血の混じった涎を垂らしている。ゾッと背筋が寒くなった。
今までこの二人を怖いと思ったことはなかったはずなのに、込み上げてくる恐怖に吐き気がする。
声が聞こえてくる。
――「どうする? 今日もいつものやるだろ」
――ゲヘヘと、男が締まりのない笑いが耳を汚す。
――「おい、証拠残したらバレるだろ! だからお前みたいな頭の悪い奴と組むのは嫌だったんだよ」
――「悪かったよ、そんなに怒るなよ。なぁ、なんとかなるだろ?」
――顔色を窺うように、決まり悪そうな表情で口元に媚びるような笑みを浮かべている。
「やっ、やめろ!……ひぃ、来るなぁ!」
逃げようとして、足がもつれた。派手に尻餅をつきながら、鏡から、男たちから距離を取ろうと必死に体をばたつかせた。
誰か、何とかしてくれ!
誰か、誰か!
逃げたいのに、体が思うように動かず手が空を切る。力の入れ方が分からなくなって、立ち上がることさえ出来ない。
目の前の男たち、鏡に映る女たち。
俺はその両方に挟まれて、逃げ場を完全に失っていた。
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