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1. 記憶の無い男
1-4. 記憶の無い男
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「惟、掴まってろ!」
次の瞬間、キィィィー!とタイヤが地面を擦る音が大きく響いた。
自分の名前が聞こえたが、咄嗟に動くことはできなかった。目の前――助手席に座っていた男が運転席へ手を振りかぶった姿から目が離せなくて。
助手席に座っていた男が腕を振り上げた瞬間、シロさんは思い切りスピンターンをした。その遠心力に振り回されて、俺は肘を打ち、男は勢いよく窓に頭をぶつけていた。
車を停めた気配がして、肘を擦りながら起き上がる。大人しくシートベルトをしていた俺よりも衝撃が大きかった様子で、頭を打った男は気絶していた。
「危なかったな。……怪我はないか?」
運転席から降りたシロさんは、後部座席のドアを開けて俺に降りるよう促した。まだ少し痛む肘を抑えながら、車から出る。
どこかへ電話かけているシロさん越しに、外を見回した。田畑に囲まれた夜の県道はひたすら暗い。俺たち以外に車もいないから静かだ。吸い込む空気が冷たい。
シロさんが電話越しに吐く息の白さを眺めながら、俺は今日起きた出来事をぼんやりと思い返していた。
・
バイト先である『異浦なんでも相談所』は、その名の通り基本的に何でも相談を受け付けている。この相談所は大きな看板も出してないし、チラシを配っているわけでもない。隠しているわけではないけれど、大々的な宣伝は無く、基本的にオーナーの知り合いやツテ、依頼者から広がった口コミでしか相談は来なかった。
内容は、自力では解決できない、家族や友人には言いにくい悩み……主にオカルト関係が多い。
俺は幽霊や妖怪、所謂そういう本来目に見えないものが物心つく前から見えていた。見えすぎるせいで、幼い頃は生きているものとそうでないものの区別がつかないくらいだった。
とあるきっかけでこのバイトを始めた。それには所員であるシロさん――白椛祐介が大きく関わっているのだが、ここでは割愛する。
今日は朝から限りなく白に近い薄い灰色の曇り空で、明るさのわりに日射しの温かさが全く無かった。
昼頃に訪れた相談所では、所員がそれぞれ好きなテーブルについて思い思いに作業をしていた。所員以外の人間はいない。相談や依頼は入っていない様子だった。
挨拶を交わして、空いていたソファ席に座り教科書と課題のプリントを広げた。今日はバイトの日ではなかったけど、いつでも来ていいと言われているからそれに甘えている。
事務員の梨奈さんが用意してくれた飲み物を飲みながら、粛々と宿題に取り組んだ。
学年最下位を彷徨っていた成績は、ここで勉強するようになって上を向いてきている。微々たる変化だが、邪魔してくるものが多くて勉強以前に集中することもままならなかったことを考えると大きな進歩だ。
このまま依頼が来なければ、夕方には帰るだろう。それまでにきりの良いところまで課題を進めたい。そのささやかな目標が打ち砕かれたのは、数分後のことだった。
カランカランと軽やかな音とともに扉が開き、入って来たのはシロさんで――後ろに、”何か”を連れていた。
生きている人間だ。けれど顔の周りに黒い靄のようなものがまとわりついていて、造形や表情がよく見えない。服装や体つきで男だということは分かった。
感覚で分かる。”嫌なもの”を纏っている。
本人が好んでくっつけているのかは知らないが、ろくなものじゃない。
俺と同じくらいはっきり見えるはずのシロさんが、なぜあの人を連れてきたのか分からなかった。黒い靄の男は依頼人なんだろうか。
シロさんは入り口近くで梨奈さんに飲み物を頼むと、空いていた席につれてきた人を座らせ、自分は奥の扉の向こうへ消えた。
「げっ」と声が出そうになった。得体の知れないものを置いてその場を離れないでほしい。そう思ったが、伝わるわけがない。
室内にいる所員は全員が見えるわけではない。良くないものが入って来たことに気付いてそうな所員の後ろ姿を確認してみたが、特に気にしている様子はなかった。
黒い靄の男にそっと視線を戻す。店内を眺めているのが、首の動きで分かった。表情が見えないが、なんとなく手持ち無沙汰にしているのが分かる。つい目で追っていると、こちらを見た気がして、思わずパッと逸らした。あからさまだったかと焦ったが、もう遅い。
シロさんは戻ってくると、他の所員の元へ行き、何やら言いつけて二人が立ち上がる。荷物を持ったところを見るとこれから出かけるらしい。「お疲れ様です」と声をかけて、二人を見送った。
「待たせて悪いな、紹介するよ。惟、和華子!」
……名前が呼ばれてしまった。仕方なく立ち上がり、テーブルのそばへ行くと、シロさんは黒い靄の男に俺たちを仕事仲間だと紹介し、一緒に現場に行くと言った。
俺が今日はバイトの日ではないと拒否しても、シロさんに笑顔で交わされてしまった。本人を目の前にして、関わりたくないとはっきり言う勇気もなく。
シロさんに促されて、俺たち四人は相談所を出て白いSUVに乗り込むことになった。
道中、後部座席で和華子さんが教えてくれたのは、遺品引き取りの依頼が入っていたこと。元々はシロさんと和華子さんと所員もう一人の三人で行く予定だったが、さきほどシロさんに何やら言われて出かけてしまったこと。出かけた所員二人がどこへ行ったのかは、和華子さんも知らないということだった。
和華子さんはいつも明るく、親しみやすい女性だ。小学生の息子がいるせいか、悪く言えばお節介なところもあるけど、俺のこともよく気にかけてくれる。幽霊の類は見えない人だけど、相談所内では一番人当たりが良い。依頼人の話を聞いてあげるのは、主に和華子さんだった。
「この車はどこへ向かってるんですか?」
黒い靄の男が口を開いたのは、車が走り出して十五分程度経った頃だった。
黙って聞いていると、シロさんは何も説明なく連れてきたようだった。自分が誰なのか、名刺を渡して質問に答えている。話す内容から察するに、依頼人ではなさそうだった。シロさんの知り合いというほど親しくはなさそうだし、新しい所員候補とか?
「和華子は見えないが、惟は見える。こいつは令和の陰陽師だからな」
「ちょ、やめてくださいって!」
慌てて否定したが、シロさんも和華子さんも笑っていた。ふざけて揶揄うのはやめてほしい。俺は平成生まれだし、見えるだけで、大して何も出来ないんだから。
むきになってもしょうがないと、窓の外を眺めていれば見たことのない風景が目に映る。いつの間にか、石森市を出たようだった。
到着したのは、東松下市のアパートだった。
どこにでもありそうな外観の正面に、十台分も無い狭い駐車場がくっついている。俺たちが車から降りると、その駐車場に窮屈そうに停められていたトラックからおじさんが一人降りてきた。おじさん――津田さんの勤める遺品整理業者が、今回の依頼人だった。
アパートの狭いエレベーターを使い、上へあがる。津田さんが管理人に借りた鍵を使って、三〇二号室に入った。室内はカーテンが取り払われ、薄い灰色の空模様が差し込んでいる。暗くはないが、明るくもない。1LDKの室内は、今もまだ家具が残っていて、五人が入ると手狭に感じた。
躊躇なく室内を進む津田さんに続きながら、二週間前に起きた殺人事件の話を聞いた。
遺品整理業者は、この部屋の残った家具や不用品の処分を請け負っていた。当日作業を担当したのは男性社員が二人と女性社員が一人の計三人で、問題なく作業内容は完了したという報告を受けた。しかし作業を終えたはずの三人は、事務所に戻って来なかった。
「翌日作業員の一人、西沢という男には連絡が取れましてね。辞めたいと言うので自宅へ向かって詳しく話を聞いたところ、西沢は途中で抜けて帰っていたそうなんです。……なんでも、『鏡に女が映っていて怖くなった』と」
「あの化粧台か?」
シロさんが指差したのは、奥の部屋にある木製の化粧台だった。鏡は汚れていて、本来写っているはずの室内の様子を映していなかった。
化粧台のすぐ脇に、まるで影のように女が立っていた。
「うわっ」と声を出しそうになったのを、寸でのところで飲み込む。
ボサボサの長い黒髪が顔の前にもかかっている。淀んだ朱色の着物を身につけ、力なくだらんと手を投げ出すように立っていた。
――生きている女じゃない。
ゾッと背筋が寒くなる光景だが、顔に出さないようにする。見えていることを相手に気取られるのは、良くない。ここにはシロさんがいる。他の三人は女に気づいた様子がない。
小さく一息吸って、吐く。
一対一じゃないから、見えないふりはそれほど難しくないはずだ。
化粧台を運び出すことになり、黒い靄の男と俺で持ち上げることになった。
引き出し側を持たされて体がふらついた。予想以上に重い。踏ん張って持ち上げていると、いつの間にか視界の端から着物の女は消えていて、ホッとする。シロさんが鏡を布で覆い、紐で縛った。
エレベーターは壁を傷つける恐れがあったため使えず、階段を使って降りた。黒い靄の男は、相変わらず表情がうかがえない。二人きりになるのは嫌だったが、極力顔があるところを見ないようにして、運ぶことに集中する。階段は外に面していたため付近を歩く人や生き物の気配がして、少しは安心できた。
肌寒い中でも、重い物を運んでいると息が上がってくる。先にSUVへ戻っていたシロさんの指示でトランクへ詰め込み終わり、後部座席へ乗り込んだ際には、思わず「はぁ」と息を吐いてしまった。
「重かったでしょ、お疲れさま」
和華子さんが労ってくれた。
SUVを発車させてから、シロさんは化粧台を寺で供養すると黒い靄の男へ教えていた。
「で、鏡の中に何か見えたかい? 何か感じたとか」
「……俺は特に何も」
黒い靄の男は少し迷ってから、返事をしていた。見える人なんだろうか。
シロさんは見えないという彼の返事を気にする様子もなく、和華子さんにも声をかけていた。
「惟、君はどうだった?」
ルームミラー越しに、シロさんと目が合った。分かっていて聞いているのは明らかだった。
「………シロさんも見えたんでしょ」
「はは、やっぱりか。けっこう強烈だったかい?」
わざわざ聞くなんて、ちょっと性格悪いよな……答える気にならなくて、黙って窓の外を眺めた。
目に入ってくる景色が見知った風景に変わり、ゆるやかな傾斜を上り始める。宮城県石森市の中心部を通る川の河口に位置する日鳥山は、山という名前がついている丘陵地だ。山頂には公園や展望広場、そして石巖寺という寺が建っている。そこの住職とは、シロさんやオーナーが昔からの知り合いで、よく供養をお願いしている。
住職は来客中で直接会うことは叶わなかったが、若いお坊さんたちが引き取ってくれた。
その後はシロさんが俺と和華子さんと相談所で下ろし、黒い靄の男を送りに行った。
和華子さんは駐車場に停めていた車で家に帰り、俺は一人で深緑色の扉を開けた。
「戻りました」
「あ、おかえりー」
カフェ内には梨奈さんだけだ。梨奈さんは座ったまま、ぐっと腕を伸ばしてストレッチをしていた。
「今日誠さんと慶音さん戻ってこないから。他に相談予定もないし、私はシロさんが帰ってきたら上がるつもり。惟くんどうするー?」
「じゃあ、俺もそうしようかな……。梨奈さん、今日シロさんが連れてきた人が誰なのか知ってます?」
「知らなーい、シロさん何も言わないんだもん。……なんか顔色悪い人だったよねぇ。あとちょっと性格悪そうな感じ?」
なんだったんだろうねー、とたいして興味無さそうにケラケラと笑った。
梨奈さんは俺のような年下には砕けた口調で、思ったことを率直に口に出す人だ。正確な年齢は知らないけど、今時の若い女の人。髪型や爪に気を使っていて、この相談所で事務員をしている。
あの人が誰なのか、帰って来たシロさんに聞いてみるようかな。なぜあんな顔の見えない状態で連れてきたのか、知りたかった。
ソファ席には俺が置きっぱなしにしていた教科書やノートがそのまま置かれていた。なんとなく、課題に取り掛かる気力はそがれていた。明日また気を取り直してやろう。このペースなら、春休み中に終わらせられるはずだ。
梨奈さんと雑談したり、気まぐれに課題を眺めながら待つ。シロさんが戻って来たのは、十六時半頃だった。
入れ替わるように帰って行った梨奈さんを見送って、自分でコーヒーを入れるシロさんの後ろ姿に声をかけた。
「シロさん、あの人誰だったんですか?」
あの人、で伝わるだろう。
シロさんはコーヒーカップを持って、俺の座るソファ席近くのテーブル席に座った。湯気の立つコーヒーをゆっくり一口飲んで、壁掛け時計を見上げながら呟く。
「……誰なんだろうな」
「は?」
思わず口が開いてしまったが、シロさんはまたコーヒーを口に含んだ。
「えっ、誰か知らないんですか? じゃあ何で……」
返事を聞く前に、シロさんのスマートフォンが鳴った。ポケットから取り出して、着信を取ると一言二言相手と話し、その後手早く操作してテーブルの上に置いた。
「どうだった?」
『はい、シロさんのおっしゃる通りでした』
電話の向こうから聞こえた声は、今日出かけた所員だ。
そういえば、梨奈さんの話では今日帰って来ないんだっけ。どこで何をしてるんだ?
『犯人二人の死亡時の服装の特徴が、シロさんが教えてくださった内容と合致しました。公表していない内容です。それから、二人の身元が判明し、警察はもう一人の指紋の採取を進めています』
「そうか、じゃあ確定でいいかもな。あとは自供させられれば……まあ逃げられないだろうから、指紋さえ押さえたらあとは任意で警察に引っ張ってもらうでもいいかもな」
何の話をしているのかさっぱり分からない。混乱して口を挟めないでいる俺をよそに、会話は続いていく。
『自供させるって……危ないことはしないでください。記憶を失っているとはいえ、相手は凶悪犯です』
凶悪犯? 誰が?
「いやいや、期待させといてもし人違いだったら悪いからな」
『今日中に話を通しておきます。住居も抑えたんですよね? あとは警察に任せましょう』
警察? 何で?
「そうだなぁ……おっと割り込みだ。すまん、切るぞ」
シロさんが通話を切り、スマートフォンの画面を操作して、今度は違う声が電話の向こうから聞こえてきた。
必死に訴える声――あの男のものだった。
石巖寺に届けたはずの化粧台が、あの男の元へ届いた。
いわくつきの品は、人の手を転々とする。手放したつもりが、戻ってくる。稀にだがよくあることだから、それほど驚きはしない。しかし、問題なのはなぜあの男の元へ行ったのか、どうして俺まで一緒に行かなきゃならないのかということだった。
化粧台を取りに行くというシロさんに「一緒に来い」と言われて、嫌な予感がして一度は断ったが、「一人では運べない。手伝ってくれ」と言われ、渋々頷くしかなかった。
SUVで向かった先は、市内にある無料の宿泊所だった。市街から少し外れた場所に、このような施設があることは知らなかった。
男の顔周りは、黒い靄が晴れていた。
靄が晴れて、初めて直視した顔は土気色で、顔色が悪かった。つり目は血走っていて、お世辞にも人相が良いとは言えなかった。
車に駆け寄ってきて、シロさんに助けを求めるような表情を向けていたから、怖かったんだろうと思う。
でも、俺にはなぜか男の方が恐ろしく感じた。
丁寧に段ボールに入れられて届いたという化粧台をシロさんと持ち上げて、車に運んだ。着物の女はいないように見えたが、段ボールに入った状態ではよく分からなかった。
施設の入り口で、怪訝そうな表情を隠さない女性職員に出迎えられ居心地が悪さを覚えた。
しかし、車内のほうがさらに居心地が悪い。シロさんが男を乗車させた理由が分からない。
走り出した車は、静かに夜道を滑り始めた。
・
そして現在に至る。
間もなくして警察がやってきた。既に話を通していたらしく、気絶している男を連行し、俺とシロさんは事情聴取に呼ばれた。と言っても、俺はシロさんが話す内容を隣で聞きながら、時折警察官から質問されて頷くだけだった。
車内で聞いた通り、あの男は連続殺人犯だったそうだ。
関東近辺で履歴書のいらない仕事――期間工や日払いの仕事をして過ごしていた男たち三人は、あるときから若い女性を襲うようになった。乱暴して、殺して、重りをつけて川に捨てる。そんなことを何度かを繰り返しているうちに、重りをつけ忘れた遺体が見つかってしまった。
ある遺体の爪に、犯人の一人の皮膚が残っていた。
「うぇ……」
警察官に聞こえないように、小さく呻く。生々しい様子が連想されて、頭を振った。けれど、ついさっきまでその犯人と一緒にいたとは、にわかには信じられなかった。
三人のうち二人の男は、前科があったそうだ。DNA鑑定されたら、犯行がバレるかもしれない。そう考えた男――黒い靄の男は、二人を仲間割れで死んだように見せかけることに決めた。
黙って辞めてしまう人間が多い仕事だと、急に来なくなっても職場から探されることはまず無い。家族とはとうの昔に縁を切っていたし、東京へ出てくる前の故郷には十年以上帰っていない。行動をともにしていたと呼べるのは、殺した二人だけ。いなくなっても、探される心配はない。
杜撰な計画は上手くいったように思えて、東北の田舎へ逃げてきた。何食わぬ顔で生きようとしてた矢先、事故に遭い、記憶を失った。
シロさんが車内で語っていた通りだった。
事情聴取が終わって、警察署を後にする。
駐車場から見える月は、雲間から遠くに見えた。そういえば、今日はずっと曇りだった。
「……死ぬかと思った」
非難の籠る言葉を零しながら、心から安堵の息を吐き出した。一日がやっと終わった。白い息はふっと広がって、すぐ冷え込んでいる空気に溶ける。東北の三月はまだ寒さが残る時期だ。日中は日差しが暖かい時間もあるけれど、朝晩は冷え込む。肌に触れる空気の冷たさに、もう一枚着てくれば良かったと思った。
「死ななかっただろ」
平然と返してきたシロさんを睨みつけて、今度は溜息を吐く。
「でも思いきり肘ぶつけましたよ」
「それは悪かったな。傷でも出来たか?」
「傷は出来てない、と思いますけど……」
そっと触れて確かめたが、もう痛みはない。
運転席へ乗り込んだシロさんに助手席に促されたが、さっきまで殺人犯が乗っていた席には座る気になれなかった。俺は黙って、後部座席へ乗り込んだ。
石巖寺へ着いたのは夜の二十二時を過ぎてからだった。住職には「遅すぎる」とシロさんとともに叱られ、家に帰っては母に「遅くなるなら連絡しなさい!」と怒られた。
長時間緊張していたせいか、布団に入ると気絶するように眠りについた。
翌日、相談所の扉を開けると、和華子さんが駆け寄って来た。
「昨日大変だったんだね、大丈夫? まさか殺人犯とドライブしてたなんて驚いちゃった……もうシロさんってば!」
和華子さんはシロさんや荒屋敷さんたちから経緯を聞いたそうで、シロさんに怒ったり俺を心配してくれたりと忙しかった。
「すまんな、本人を目の前にして、怪しいから様子を見ている、なんて言えないだろ?」
コーヒーを口にするシロさんは悪びれなく笑ったけれど、今回の件は未成年を夜遅くまで連れ回したことを理由に俺に特別手当を出すようオーナーに言ってくれたらしい。
シロさんはあの男を見かけたときに、俺と同じように男の顔を覆う黒い靄に気付いた。顔が見えないほどではなかったが、何かに憑りつかれているのか、祟られているのか。一応話だけでも聞いておくかと思い、声をかけた。そして、男が視線の先に二人の男を見ていることを知った。
「二人の男、って何ですか?」
「ああ、殺した男たちの姿を見ていたらしいんだ」
病院で見かけたとき、何もない受付の横を気にしてチラチラと気にしていたらしい。シロさんには何も見えなかったが、見えているふりをして話を聞けば、「男が二人立っている」と言ったそうだ。
「その時点では、何を見ているのか分からなかった。俺には見えなかったしな。ただ明らかに何かに憑かれているような様子だったし、偶然呪われた善良な市民なのか、祟られるべくして祟られているのか、確認してみようと思ったんだ」
少し様子を見て、前者なら助けてやろう、後者なら状況次第で考えよう、と。シロさんはそう言って、「しかしまさか殺人犯だったとはなぁ」と感心したように呟いた。
シロさんは東京で行われていた捜査協力に所員二人を合流させ、情報を逐一報告させていたらしい。男から聞き出した男二人の詳細が、遺体の状態と合致していたため、目の前の男は偶然にも事件と繋がっていると確信したそうだ。
「化粧台は今朝、住職が供養して燃やしてくれたそうだ。女性の幽霊が憑いていたんだろうな。同棲していたカップルの女性が殺されていたことから見ても、恋愛関係の縺れや恨み、負の感情を抱えて長い間存在し続けていた」
「……あれ、そういえば運び出すときに紐で縛ってましたよね? あれってしめ縄じゃなかったんですか?」
簡易的にでも封をしていたなら、あの男の元に行ったのはおかしいような……。そう思ったが、シロさんは「家具を縛る用の紐を借りたんだよ」とけろりとしていた。ただの紐だったのか。
「あ、ちょうどやってますよ」
俺のところへ紅茶を運んできてくれた梨奈さんが、テレビを指差した。つられて視線を向けると、ローカル放送のニュースが流れていた。テロップには、『女性連続殺人 犯人の身柄を確保』と表示されている。無音のテレビ画面で、アナウンサーが深刻な表情で読み上げる内容を、文字起こしが語っていた。あの男のことだった。
「ひどい……」
ぽつりと呟いたのは、和華子さんだった。ニュースによると、片手じゃ足りない数の女性が殺されていたらしい。
幽霊や妖怪は、怖い。
脅かされることは多いし、単純に気味が悪くて、理屈の通らない恐怖がある。昔から見えないものが見えていたせいで、気味悪がられることも多かった。
けれど死んでいる人間より、生きている人間のほうが怖いと思うこともある。
そういえば、遺品整理業社で連絡の取れなかった従業員ってどうなったんだろう……。
ふと湧いた疑問は、ドアベルが鳴り新たな相談者が現れると、どこかへ行ってしまった。
『記憶の無い男』 完
次の瞬間、キィィィー!とタイヤが地面を擦る音が大きく響いた。
自分の名前が聞こえたが、咄嗟に動くことはできなかった。目の前――助手席に座っていた男が運転席へ手を振りかぶった姿から目が離せなくて。
助手席に座っていた男が腕を振り上げた瞬間、シロさんは思い切りスピンターンをした。その遠心力に振り回されて、俺は肘を打ち、男は勢いよく窓に頭をぶつけていた。
車を停めた気配がして、肘を擦りながら起き上がる。大人しくシートベルトをしていた俺よりも衝撃が大きかった様子で、頭を打った男は気絶していた。
「危なかったな。……怪我はないか?」
運転席から降りたシロさんは、後部座席のドアを開けて俺に降りるよう促した。まだ少し痛む肘を抑えながら、車から出る。
どこかへ電話かけているシロさん越しに、外を見回した。田畑に囲まれた夜の県道はひたすら暗い。俺たち以外に車もいないから静かだ。吸い込む空気が冷たい。
シロさんが電話越しに吐く息の白さを眺めながら、俺は今日起きた出来事をぼんやりと思い返していた。
・
バイト先である『異浦なんでも相談所』は、その名の通り基本的に何でも相談を受け付けている。この相談所は大きな看板も出してないし、チラシを配っているわけでもない。隠しているわけではないけれど、大々的な宣伝は無く、基本的にオーナーの知り合いやツテ、依頼者から広がった口コミでしか相談は来なかった。
内容は、自力では解決できない、家族や友人には言いにくい悩み……主にオカルト関係が多い。
俺は幽霊や妖怪、所謂そういう本来目に見えないものが物心つく前から見えていた。見えすぎるせいで、幼い頃は生きているものとそうでないものの区別がつかないくらいだった。
とあるきっかけでこのバイトを始めた。それには所員であるシロさん――白椛祐介が大きく関わっているのだが、ここでは割愛する。
今日は朝から限りなく白に近い薄い灰色の曇り空で、明るさのわりに日射しの温かさが全く無かった。
昼頃に訪れた相談所では、所員がそれぞれ好きなテーブルについて思い思いに作業をしていた。所員以外の人間はいない。相談や依頼は入っていない様子だった。
挨拶を交わして、空いていたソファ席に座り教科書と課題のプリントを広げた。今日はバイトの日ではなかったけど、いつでも来ていいと言われているからそれに甘えている。
事務員の梨奈さんが用意してくれた飲み物を飲みながら、粛々と宿題に取り組んだ。
学年最下位を彷徨っていた成績は、ここで勉強するようになって上を向いてきている。微々たる変化だが、邪魔してくるものが多くて勉強以前に集中することもままならなかったことを考えると大きな進歩だ。
このまま依頼が来なければ、夕方には帰るだろう。それまでにきりの良いところまで課題を進めたい。そのささやかな目標が打ち砕かれたのは、数分後のことだった。
カランカランと軽やかな音とともに扉が開き、入って来たのはシロさんで――後ろに、”何か”を連れていた。
生きている人間だ。けれど顔の周りに黒い靄のようなものがまとわりついていて、造形や表情がよく見えない。服装や体つきで男だということは分かった。
感覚で分かる。”嫌なもの”を纏っている。
本人が好んでくっつけているのかは知らないが、ろくなものじゃない。
俺と同じくらいはっきり見えるはずのシロさんが、なぜあの人を連れてきたのか分からなかった。黒い靄の男は依頼人なんだろうか。
シロさんは入り口近くで梨奈さんに飲み物を頼むと、空いていた席につれてきた人を座らせ、自分は奥の扉の向こうへ消えた。
「げっ」と声が出そうになった。得体の知れないものを置いてその場を離れないでほしい。そう思ったが、伝わるわけがない。
室内にいる所員は全員が見えるわけではない。良くないものが入って来たことに気付いてそうな所員の後ろ姿を確認してみたが、特に気にしている様子はなかった。
黒い靄の男にそっと視線を戻す。店内を眺めているのが、首の動きで分かった。表情が見えないが、なんとなく手持ち無沙汰にしているのが分かる。つい目で追っていると、こちらを見た気がして、思わずパッと逸らした。あからさまだったかと焦ったが、もう遅い。
シロさんは戻ってくると、他の所員の元へ行き、何やら言いつけて二人が立ち上がる。荷物を持ったところを見るとこれから出かけるらしい。「お疲れ様です」と声をかけて、二人を見送った。
「待たせて悪いな、紹介するよ。惟、和華子!」
……名前が呼ばれてしまった。仕方なく立ち上がり、テーブルのそばへ行くと、シロさんは黒い靄の男に俺たちを仕事仲間だと紹介し、一緒に現場に行くと言った。
俺が今日はバイトの日ではないと拒否しても、シロさんに笑顔で交わされてしまった。本人を目の前にして、関わりたくないとはっきり言う勇気もなく。
シロさんに促されて、俺たち四人は相談所を出て白いSUVに乗り込むことになった。
道中、後部座席で和華子さんが教えてくれたのは、遺品引き取りの依頼が入っていたこと。元々はシロさんと和華子さんと所員もう一人の三人で行く予定だったが、さきほどシロさんに何やら言われて出かけてしまったこと。出かけた所員二人がどこへ行ったのかは、和華子さんも知らないということだった。
和華子さんはいつも明るく、親しみやすい女性だ。小学生の息子がいるせいか、悪く言えばお節介なところもあるけど、俺のこともよく気にかけてくれる。幽霊の類は見えない人だけど、相談所内では一番人当たりが良い。依頼人の話を聞いてあげるのは、主に和華子さんだった。
「この車はどこへ向かってるんですか?」
黒い靄の男が口を開いたのは、車が走り出して十五分程度経った頃だった。
黙って聞いていると、シロさんは何も説明なく連れてきたようだった。自分が誰なのか、名刺を渡して質問に答えている。話す内容から察するに、依頼人ではなさそうだった。シロさんの知り合いというほど親しくはなさそうだし、新しい所員候補とか?
「和華子は見えないが、惟は見える。こいつは令和の陰陽師だからな」
「ちょ、やめてくださいって!」
慌てて否定したが、シロさんも和華子さんも笑っていた。ふざけて揶揄うのはやめてほしい。俺は平成生まれだし、見えるだけで、大して何も出来ないんだから。
むきになってもしょうがないと、窓の外を眺めていれば見たことのない風景が目に映る。いつの間にか、石森市を出たようだった。
到着したのは、東松下市のアパートだった。
どこにでもありそうな外観の正面に、十台分も無い狭い駐車場がくっついている。俺たちが車から降りると、その駐車場に窮屈そうに停められていたトラックからおじさんが一人降りてきた。おじさん――津田さんの勤める遺品整理業者が、今回の依頼人だった。
アパートの狭いエレベーターを使い、上へあがる。津田さんが管理人に借りた鍵を使って、三〇二号室に入った。室内はカーテンが取り払われ、薄い灰色の空模様が差し込んでいる。暗くはないが、明るくもない。1LDKの室内は、今もまだ家具が残っていて、五人が入ると手狭に感じた。
躊躇なく室内を進む津田さんに続きながら、二週間前に起きた殺人事件の話を聞いた。
遺品整理業者は、この部屋の残った家具や不用品の処分を請け負っていた。当日作業を担当したのは男性社員が二人と女性社員が一人の計三人で、問題なく作業内容は完了したという報告を受けた。しかし作業を終えたはずの三人は、事務所に戻って来なかった。
「翌日作業員の一人、西沢という男には連絡が取れましてね。辞めたいと言うので自宅へ向かって詳しく話を聞いたところ、西沢は途中で抜けて帰っていたそうなんです。……なんでも、『鏡に女が映っていて怖くなった』と」
「あの化粧台か?」
シロさんが指差したのは、奥の部屋にある木製の化粧台だった。鏡は汚れていて、本来写っているはずの室内の様子を映していなかった。
化粧台のすぐ脇に、まるで影のように女が立っていた。
「うわっ」と声を出しそうになったのを、寸でのところで飲み込む。
ボサボサの長い黒髪が顔の前にもかかっている。淀んだ朱色の着物を身につけ、力なくだらんと手を投げ出すように立っていた。
――生きている女じゃない。
ゾッと背筋が寒くなる光景だが、顔に出さないようにする。見えていることを相手に気取られるのは、良くない。ここにはシロさんがいる。他の三人は女に気づいた様子がない。
小さく一息吸って、吐く。
一対一じゃないから、見えないふりはそれほど難しくないはずだ。
化粧台を運び出すことになり、黒い靄の男と俺で持ち上げることになった。
引き出し側を持たされて体がふらついた。予想以上に重い。踏ん張って持ち上げていると、いつの間にか視界の端から着物の女は消えていて、ホッとする。シロさんが鏡を布で覆い、紐で縛った。
エレベーターは壁を傷つける恐れがあったため使えず、階段を使って降りた。黒い靄の男は、相変わらず表情がうかがえない。二人きりになるのは嫌だったが、極力顔があるところを見ないようにして、運ぶことに集中する。階段は外に面していたため付近を歩く人や生き物の気配がして、少しは安心できた。
肌寒い中でも、重い物を運んでいると息が上がってくる。先にSUVへ戻っていたシロさんの指示でトランクへ詰め込み終わり、後部座席へ乗り込んだ際には、思わず「はぁ」と息を吐いてしまった。
「重かったでしょ、お疲れさま」
和華子さんが労ってくれた。
SUVを発車させてから、シロさんは化粧台を寺で供養すると黒い靄の男へ教えていた。
「で、鏡の中に何か見えたかい? 何か感じたとか」
「……俺は特に何も」
黒い靄の男は少し迷ってから、返事をしていた。見える人なんだろうか。
シロさんは見えないという彼の返事を気にする様子もなく、和華子さんにも声をかけていた。
「惟、君はどうだった?」
ルームミラー越しに、シロさんと目が合った。分かっていて聞いているのは明らかだった。
「………シロさんも見えたんでしょ」
「はは、やっぱりか。けっこう強烈だったかい?」
わざわざ聞くなんて、ちょっと性格悪いよな……答える気にならなくて、黙って窓の外を眺めた。
目に入ってくる景色が見知った風景に変わり、ゆるやかな傾斜を上り始める。宮城県石森市の中心部を通る川の河口に位置する日鳥山は、山という名前がついている丘陵地だ。山頂には公園や展望広場、そして石巖寺という寺が建っている。そこの住職とは、シロさんやオーナーが昔からの知り合いで、よく供養をお願いしている。
住職は来客中で直接会うことは叶わなかったが、若いお坊さんたちが引き取ってくれた。
その後はシロさんが俺と和華子さんと相談所で下ろし、黒い靄の男を送りに行った。
和華子さんは駐車場に停めていた車で家に帰り、俺は一人で深緑色の扉を開けた。
「戻りました」
「あ、おかえりー」
カフェ内には梨奈さんだけだ。梨奈さんは座ったまま、ぐっと腕を伸ばしてストレッチをしていた。
「今日誠さんと慶音さん戻ってこないから。他に相談予定もないし、私はシロさんが帰ってきたら上がるつもり。惟くんどうするー?」
「じゃあ、俺もそうしようかな……。梨奈さん、今日シロさんが連れてきた人が誰なのか知ってます?」
「知らなーい、シロさん何も言わないんだもん。……なんか顔色悪い人だったよねぇ。あとちょっと性格悪そうな感じ?」
なんだったんだろうねー、とたいして興味無さそうにケラケラと笑った。
梨奈さんは俺のような年下には砕けた口調で、思ったことを率直に口に出す人だ。正確な年齢は知らないけど、今時の若い女の人。髪型や爪に気を使っていて、この相談所で事務員をしている。
あの人が誰なのか、帰って来たシロさんに聞いてみるようかな。なぜあんな顔の見えない状態で連れてきたのか、知りたかった。
ソファ席には俺が置きっぱなしにしていた教科書やノートがそのまま置かれていた。なんとなく、課題に取り掛かる気力はそがれていた。明日また気を取り直してやろう。このペースなら、春休み中に終わらせられるはずだ。
梨奈さんと雑談したり、気まぐれに課題を眺めながら待つ。シロさんが戻って来たのは、十六時半頃だった。
入れ替わるように帰って行った梨奈さんを見送って、自分でコーヒーを入れるシロさんの後ろ姿に声をかけた。
「シロさん、あの人誰だったんですか?」
あの人、で伝わるだろう。
シロさんはコーヒーカップを持って、俺の座るソファ席近くのテーブル席に座った。湯気の立つコーヒーをゆっくり一口飲んで、壁掛け時計を見上げながら呟く。
「……誰なんだろうな」
「は?」
思わず口が開いてしまったが、シロさんはまたコーヒーを口に含んだ。
「えっ、誰か知らないんですか? じゃあ何で……」
返事を聞く前に、シロさんのスマートフォンが鳴った。ポケットから取り出して、着信を取ると一言二言相手と話し、その後手早く操作してテーブルの上に置いた。
「どうだった?」
『はい、シロさんのおっしゃる通りでした』
電話の向こうから聞こえた声は、今日出かけた所員だ。
そういえば、梨奈さんの話では今日帰って来ないんだっけ。どこで何をしてるんだ?
『犯人二人の死亡時の服装の特徴が、シロさんが教えてくださった内容と合致しました。公表していない内容です。それから、二人の身元が判明し、警察はもう一人の指紋の採取を進めています』
「そうか、じゃあ確定でいいかもな。あとは自供させられれば……まあ逃げられないだろうから、指紋さえ押さえたらあとは任意で警察に引っ張ってもらうでもいいかもな」
何の話をしているのかさっぱり分からない。混乱して口を挟めないでいる俺をよそに、会話は続いていく。
『自供させるって……危ないことはしないでください。記憶を失っているとはいえ、相手は凶悪犯です』
凶悪犯? 誰が?
「いやいや、期待させといてもし人違いだったら悪いからな」
『今日中に話を通しておきます。住居も抑えたんですよね? あとは警察に任せましょう』
警察? 何で?
「そうだなぁ……おっと割り込みだ。すまん、切るぞ」
シロさんが通話を切り、スマートフォンの画面を操作して、今度は違う声が電話の向こうから聞こえてきた。
必死に訴える声――あの男のものだった。
石巖寺に届けたはずの化粧台が、あの男の元へ届いた。
いわくつきの品は、人の手を転々とする。手放したつもりが、戻ってくる。稀にだがよくあることだから、それほど驚きはしない。しかし、問題なのはなぜあの男の元へ行ったのか、どうして俺まで一緒に行かなきゃならないのかということだった。
化粧台を取りに行くというシロさんに「一緒に来い」と言われて、嫌な予感がして一度は断ったが、「一人では運べない。手伝ってくれ」と言われ、渋々頷くしかなかった。
SUVで向かった先は、市内にある無料の宿泊所だった。市街から少し外れた場所に、このような施設があることは知らなかった。
男の顔周りは、黒い靄が晴れていた。
靄が晴れて、初めて直視した顔は土気色で、顔色が悪かった。つり目は血走っていて、お世辞にも人相が良いとは言えなかった。
車に駆け寄ってきて、シロさんに助けを求めるような表情を向けていたから、怖かったんだろうと思う。
でも、俺にはなぜか男の方が恐ろしく感じた。
丁寧に段ボールに入れられて届いたという化粧台をシロさんと持ち上げて、車に運んだ。着物の女はいないように見えたが、段ボールに入った状態ではよく分からなかった。
施設の入り口で、怪訝そうな表情を隠さない女性職員に出迎えられ居心地が悪さを覚えた。
しかし、車内のほうがさらに居心地が悪い。シロさんが男を乗車させた理由が分からない。
走り出した車は、静かに夜道を滑り始めた。
・
そして現在に至る。
間もなくして警察がやってきた。既に話を通していたらしく、気絶している男を連行し、俺とシロさんは事情聴取に呼ばれた。と言っても、俺はシロさんが話す内容を隣で聞きながら、時折警察官から質問されて頷くだけだった。
車内で聞いた通り、あの男は連続殺人犯だったそうだ。
関東近辺で履歴書のいらない仕事――期間工や日払いの仕事をして過ごしていた男たち三人は、あるときから若い女性を襲うようになった。乱暴して、殺して、重りをつけて川に捨てる。そんなことを何度かを繰り返しているうちに、重りをつけ忘れた遺体が見つかってしまった。
ある遺体の爪に、犯人の一人の皮膚が残っていた。
「うぇ……」
警察官に聞こえないように、小さく呻く。生々しい様子が連想されて、頭を振った。けれど、ついさっきまでその犯人と一緒にいたとは、にわかには信じられなかった。
三人のうち二人の男は、前科があったそうだ。DNA鑑定されたら、犯行がバレるかもしれない。そう考えた男――黒い靄の男は、二人を仲間割れで死んだように見せかけることに決めた。
黙って辞めてしまう人間が多い仕事だと、急に来なくなっても職場から探されることはまず無い。家族とはとうの昔に縁を切っていたし、東京へ出てくる前の故郷には十年以上帰っていない。行動をともにしていたと呼べるのは、殺した二人だけ。いなくなっても、探される心配はない。
杜撰な計画は上手くいったように思えて、東北の田舎へ逃げてきた。何食わぬ顔で生きようとしてた矢先、事故に遭い、記憶を失った。
シロさんが車内で語っていた通りだった。
事情聴取が終わって、警察署を後にする。
駐車場から見える月は、雲間から遠くに見えた。そういえば、今日はずっと曇りだった。
「……死ぬかと思った」
非難の籠る言葉を零しながら、心から安堵の息を吐き出した。一日がやっと終わった。白い息はふっと広がって、すぐ冷え込んでいる空気に溶ける。東北の三月はまだ寒さが残る時期だ。日中は日差しが暖かい時間もあるけれど、朝晩は冷え込む。肌に触れる空気の冷たさに、もう一枚着てくれば良かったと思った。
「死ななかっただろ」
平然と返してきたシロさんを睨みつけて、今度は溜息を吐く。
「でも思いきり肘ぶつけましたよ」
「それは悪かったな。傷でも出来たか?」
「傷は出来てない、と思いますけど……」
そっと触れて確かめたが、もう痛みはない。
運転席へ乗り込んだシロさんに助手席に促されたが、さっきまで殺人犯が乗っていた席には座る気になれなかった。俺は黙って、後部座席へ乗り込んだ。
石巖寺へ着いたのは夜の二十二時を過ぎてからだった。住職には「遅すぎる」とシロさんとともに叱られ、家に帰っては母に「遅くなるなら連絡しなさい!」と怒られた。
長時間緊張していたせいか、布団に入ると気絶するように眠りについた。
翌日、相談所の扉を開けると、和華子さんが駆け寄って来た。
「昨日大変だったんだね、大丈夫? まさか殺人犯とドライブしてたなんて驚いちゃった……もうシロさんってば!」
和華子さんはシロさんや荒屋敷さんたちから経緯を聞いたそうで、シロさんに怒ったり俺を心配してくれたりと忙しかった。
「すまんな、本人を目の前にして、怪しいから様子を見ている、なんて言えないだろ?」
コーヒーを口にするシロさんは悪びれなく笑ったけれど、今回の件は未成年を夜遅くまで連れ回したことを理由に俺に特別手当を出すようオーナーに言ってくれたらしい。
シロさんはあの男を見かけたときに、俺と同じように男の顔を覆う黒い靄に気付いた。顔が見えないほどではなかったが、何かに憑りつかれているのか、祟られているのか。一応話だけでも聞いておくかと思い、声をかけた。そして、男が視線の先に二人の男を見ていることを知った。
「二人の男、って何ですか?」
「ああ、殺した男たちの姿を見ていたらしいんだ」
病院で見かけたとき、何もない受付の横を気にしてチラチラと気にしていたらしい。シロさんには何も見えなかったが、見えているふりをして話を聞けば、「男が二人立っている」と言ったそうだ。
「その時点では、何を見ているのか分からなかった。俺には見えなかったしな。ただ明らかに何かに憑かれているような様子だったし、偶然呪われた善良な市民なのか、祟られるべくして祟られているのか、確認してみようと思ったんだ」
少し様子を見て、前者なら助けてやろう、後者なら状況次第で考えよう、と。シロさんはそう言って、「しかしまさか殺人犯だったとはなぁ」と感心したように呟いた。
シロさんは東京で行われていた捜査協力に所員二人を合流させ、情報を逐一報告させていたらしい。男から聞き出した男二人の詳細が、遺体の状態と合致していたため、目の前の男は偶然にも事件と繋がっていると確信したそうだ。
「化粧台は今朝、住職が供養して燃やしてくれたそうだ。女性の幽霊が憑いていたんだろうな。同棲していたカップルの女性が殺されていたことから見ても、恋愛関係の縺れや恨み、負の感情を抱えて長い間存在し続けていた」
「……あれ、そういえば運び出すときに紐で縛ってましたよね? あれってしめ縄じゃなかったんですか?」
簡易的にでも封をしていたなら、あの男の元に行ったのはおかしいような……。そう思ったが、シロさんは「家具を縛る用の紐を借りたんだよ」とけろりとしていた。ただの紐だったのか。
「あ、ちょうどやってますよ」
俺のところへ紅茶を運んできてくれた梨奈さんが、テレビを指差した。つられて視線を向けると、ローカル放送のニュースが流れていた。テロップには、『女性連続殺人 犯人の身柄を確保』と表示されている。無音のテレビ画面で、アナウンサーが深刻な表情で読み上げる内容を、文字起こしが語っていた。あの男のことだった。
「ひどい……」
ぽつりと呟いたのは、和華子さんだった。ニュースによると、片手じゃ足りない数の女性が殺されていたらしい。
幽霊や妖怪は、怖い。
脅かされることは多いし、単純に気味が悪くて、理屈の通らない恐怖がある。昔から見えないものが見えていたせいで、気味悪がられることも多かった。
けれど死んでいる人間より、生きている人間のほうが怖いと思うこともある。
そういえば、遺品整理業社で連絡の取れなかった従業員ってどうなったんだろう……。
ふと湧いた疑問は、ドアベルが鳴り新たな相談者が現れると、どこかへ行ってしまった。
『記憶の無い男』 完
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