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第六話
しおりを挟むどうして、今。人生の中で一番会いたくなかった人物と再会してしまったのだろうか。心臓が経験したことがないくらい飛び跳ねている。これはきっと、全速力で走ってきたからだ。絶対そうに違いないと和泉は信じ込むしかなかった。
うるさいほどに起床の音楽が部屋に鳴り響く。時刻は六時半、和泉はベッドから飛び起きて支給された制服の袖に腕を通した。
翌日から早速訓練が開始された。寮に備え付けられたスピーカーから大音量の音楽で起床した後は、急いで校庭に集まらなければならない。
「やばい! やばい!」
靴下がからまって上手く履けない。こうしてもたついている間にも、隣から、玄関扉をあけて外へ駆け出していく音が聞こえてくる。警察学校では一分一秒を争う。
少しでも後れを取ると、教官からこっぴどく絞られるとどこかのネット記事に書いてあった。初日から遅刻して変に悪目立ちしたくないし、それに一ノ瀬と関わることは極力避けていきたい。和泉は急いで靴下を履いて部屋を飛び出した。
校庭に到着すると、もうすでに何人かの生徒が整列していた。先頭にはもちろん、教官である一ノ瀬が厳しい顔をして立っていた。和泉はなるべく一ノ瀬に姿を見られないように体を縮ませて、自分のクラスの列に並んだ。それから人員確認が始まり、国旗掲揚をした後は体操とランニング。
それが終わればようやく朝食をとって、授業が開始される。座学の授業では、法律の授業や様々な仕事の基礎知識を習っていくようで、初日から五十分丸々授業で、寮に帰ってくるなり和泉は自分のベッドに倒れ込んだ。
社会人生活とはまた違う厳しさがあった。学生に戻ったことで、失敗を責められることもなく、責任を負う事もない。けれど、毎日当たり前の様に体を動かすので体力は削られ、授業で習う新しい事を次々と覚えていかなければならない為、毎日頭がパンクしそうになる。
それでも、毎日体に鞭打って続けている内に一週間が経ち、ようやく入校式を迎えることができた。しかし、時間が経てばたつほど見えてくる周りとの差に和泉は内心焦っていた。
周りの学生たちは、大体、体育学部の出身が多く、ただでさえ歳が二十二と若い。たった四つくらいしか歳が離れてないとはいえど、体力の差は顕著に表れた。一番は早朝ランニングだ。
それほど速い速度ではないにしても校庭を何周もしていると次第に体力が持たなくなっていく。武術に関してもそうだが、大体が経験者の中、和泉は全くの素人なのだ。
剣道にしても柔道にしても全く型が決まらない。おおよその予想だが、勉学を除いた和泉の今の成績は最下位を争うぐらいだろう。
しかし、そんな状況下でも一人友人ができた。名前は栗田真紀といい、ボーイッシュな髪型をしているが、小柄でくりっとした二重が印象的なかわいらしい女性だ。歳は二十二歳で、クラスでは唯一の女子生徒だ。
ランニングでは後れを取っている和泉と、女子で体力量が少ない栗田は大体後ろの方で取り残されることが多く、自然と話すようになっていった。クラスの中で一人だけ女子生徒の栗田と、一人だけ年齢が離れている和泉は、お互いクラスに上手くなじめておらず、疎外感を感じていた分打ち解けるのも早かった。
「次、法律の授業ですよねー。やだなー、難しいし」
入校式から三週間が過ぎ、昼食を食べ終えた和泉は栗田と共に、次の授業の法学教室へと移動していた。栗田は嫌そうに眉間に皺を寄せて、教科書に目を落としている。
「そうだよな、俺も法律嫌い」
栗田と同じように、和泉も法律の授業が苦手だった。授業も難しいのでそういった意味で嫌いという事もあるが、担当教官が一ノ瀬だという事が一番の理由である。憂鬱な気持ちのまま、昨日習った範囲の復習をしながら廊下を歩き、教室に入って席に着いた。
法律のクラスは二つに分けられてある。授業が始まって一週間後に受けたテストの成績をもとに、成績が良かった生徒と悪かった生徒で分けられた。警察官にとって法律とはなくてはならないものだ。
実際に法律に基づいて職権職務を遂行するため、法律が分かっていなければ実務は成り立たなくなってしまう。しかし、最初で躓く生徒がかなり多い為、こうして少人数制で対策を打っているらしい。
和泉が席についてから間もなくして、分厚い教本を持った一ノ瀬が現れ、始業のチャイムが鳴った。
「では、授業を開始する。最初にこの前やった範囲の復習から始める」
一ノ瀬の授業は、最初のニ十分は前回の復習から入る。これは、和泉からしてみればかなりありがたい事だった。和泉は地頭がいい方ではない。
容量のいい人は、一度聞いたら理解できるとかそういったこともあるのだろうが、和泉の場合、三回くらい同じ内容を頭で繰り返してやっと内容が入ってくるくらいなので、一ノ瀬の授業ペースで丁度いいぐらいだった。
もう一つの法律のクラスは、どんどん新しい範囲に入っていき、ついて行くのがやっとの状態だと小耳にはさんだので、あちらのクラスに分けられていたら確実に詰んでいたなと栗田とよく話している。
それでも、一ノ瀬の授業も楽とはいえない。法律の授業はとにかく覚えることが尋常じゃないくらい多い。刑法、刑事訴訟法、憲法、警察行政法というように公務をしていくうえで必要となる知識を頭に叩き込んでいかなくてはならない。
「じゃあ、和泉。前の授業でやった刑法第二三五条について説明しろ」
「は、はいっ」
一ノ瀬の指名に和泉は慌てて立ち上がり、ノートを開いた。
「刑法二三五条は……、窃盗です。他人の財物を窃取したものは、窃盗の罪とし、えー、五年以下の懲役、または十万円以下の罰金に処されます」
「違う、和泉。十年以下の懲役、または五十万円以下の罰金に処する、だ。数字が逆になってる」
「あっ、えっ」
一ノ瀬の指摘に、和泉は慌てて教科書と自分のノートを見返した。確かに、教科書とノートの内容が異なっている。
「気をつけろ、数字一つで罪を犯した人間の人生が変わるんだ」
「はい……」
和泉は着席して、ノートに消しゴムをかけた。思い返せば、内容も難しく大体が呪文のように聞こえる授業に加え、この前授業は昼食の後だったこともあり集中力が欠けていたのかもしれない。
(くそっ……、しっかりしろよ俺)
和泉は心の中で自分を𠮟咤した。少人数にしても、間違えることはそれなりに恥ずかしい。頬が赤くなるのを隠すように和泉は俯いて教科書を見つめた。そして、何とか今日の授業も無事に乗り切り、次の教室へ向かう途中、栗田が興味津々と言った様子で尋ねてきた。
「あの、ぶっちゃけ前から気になってたんですけど、和泉さんと一ノ瀬教官って知り合いとかですか?」
「え? なんで?」
栗田の突然の問いに和泉の声が少し裏返った。
「いや、だって。授業の時大体和泉さんを当ててるし。接し方もなんか他の生徒とは違う感じですよね?」
「そう……? 気のせいじゃない……?」
和泉は背中に変な汗をかいた。ごまかしてはみるものの、一ノ瀬の態度が他の生徒と違う事は和泉自身自覚していた。栗田の言うように、授業中、一ノ瀬は和泉を重点的に当ててくるし、気のせいかもしれないがよく目が合う……、他にも思い当たることはかなりある。
ひいきとまではいかないけれど、確実に他の生徒よりは目をかけられていると思う。そう思っているのは、きっと栗田だけではないはずだ。
(でも、恋人だったなんて、この場で言える訳がないし……)
「怪しいですね。何か隠してます?」
栗田は大きな瞳をさらに見開いて和泉を下から見つめた。栗田は、知りたいと思ったら何の躊躇もなく相手に聞くタイプだ。
とにかく別の話題に持って行って、栗田の興味を他に移さなければならない。
「あー、そういえば、栗田さんてさ。なんで警察官になろうって思ったの?」
男性でも体力的に辛いと思う警察官に女性がなろうと思う理由は何なのだろうかと、和泉は前々から少し興味があった。
「……んー、そうですね」
栗田は顎に手を添えて、俯いた。
「遡ると、十年前くらいの話になるんですけど……。まず、私のお父さんが務めてた会社が倒産したんですよ」
栗田があまりにもさらっと話すので、頭で理解するのに少し時間がかかった。明るい声色で話すには少し暗い話題だ。
「かなり大手の商社で。倒産する数カ月前までは結構羽振りも良くて、私の家も裕福だったんですよ。まさか、潰れるなんて思わなかったらしくて、外車も何台も買ってましたし。でも、そのまさかが起こって私の家は一気に貧乏に陥ったんですよねー。それからの生活は、まあ地獄で。もうそれは思い出したくない程に」
栗田は割と明るい性格をしている。訓練の時は真剣な面持ちになるが、それ以外はずっと口角が上がっているような、笑顔がトレードマークな女性だ。しかし、一瞬その笑顔が消え去った気がした。
(聞いちゃまずい話題だったな)
今更後悔してももう遅い。無理に話さなくていいと、栗田を止めようとしたが、再び栗田の顔に笑顔が戻ったので和泉はとりあえずそのまま聞いておくことにした。
「そこで私は学んだんです。どんなに、大手の会社でも安心してはいけないんだって。思わぬ不況が来るかもしれない。万が一の事を考えていないといけないんだって」
「なるほど……」
「だから、公務員になろうって思ったんです。まあ、公務員の中で警察を選んだ理由は制服が可愛かったからですかね」
話題的に重いのか軽いのか、良く分からなくなってきたので、和泉はとりあえず再び「なるほど」と相槌を打った。
それから栗田は、貧乏になった自分の生活などを話してくれた。いわゆる富裕層にいた栗田は、小銭というものを知らなかったらしく、初めて自分でアルバイトをするようになって知ったらしい。大学は新聞奨学生という制度を活用して毎日朝早くから仕事をしていたそうで、時間に追われる日々だったと語った。
「でもすごいな、俺よりも若いのに人生の事よく考えてるんだなあ」
「まあ、安泰を求めて入ったはいいものの、訓練内容が死ぬほどつらいですけどね」
「それは分かる」
男の和泉でも辛いトレーニングメニューなのだ。栗田からすればもっと辛いだろうに。それでも、後れを取らずに必死で後をついて行く姿には、いつも励まされる。
「俺も自分がこんなにダメダメだとは思わなかったよ」
和泉だって決して軽い気持ちでここに入ってきたわけじゃない。それなりに、下調べもして入校している。けれど、ネットに投稿されていた口コミよりも実際は遥かに壮絶なものだった。
携帯は無し、娯楽もなし、毎日限界まで体力を削られて教官にシバかれる日々は、段々とストレスが貯蓄されていく。そのストレスは確実に和泉を蝕んでいっているのだが、毎日を忙しく過ごしている本人は自分の体が悲鳴をあげるまでまったく気が付くことはなかった。
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