古都奈良の和風カフェ あじさい堂花暦

橘 ゆず

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第一章 和風カフェあじさい堂

6. 突然のお手伝い

  ちりりん、と可愛い音がする。見ると入ってすぐのところの天井から、紫陽花柄の風鈴がぶら下がっていた。

「あ、すいませーん。今日はランチ休みで夕方からで……しまった。黒板しまってなかったか」

  言いながら奥から出てきた人を見て、悠花は「うっ」と固まった。

  藍色の作務衣の上に黒のカフェエプロンをつけたその人は、昨日、猿沢池のほとりの階段のところで会い、お説教じみたことを言われたあの男性だったのだ。

  思わずうつむいて顔をそらす。

 彼は悠花には目もくれずに
「あれー、千鳥さん」
と嬉しそうに祖母に声をかけた。

「来てくれたんですか? 今日はお稽古の日だって沢野さんから聞いてましたけど」

「そう。その沢野さんから言伝預かってきたんよ。今日、ちょっと来られんようになったって」

「ええっ!?」

「妊娠中の娘さんが入院することになったんやて。せやから今日だけやなくてしばらくは来られんと思うわ」

「うわ~、マジか……」
  男性が額に手をあてて天井を仰いだ。

「まいったなー。これから夏休みで書き入れ時だってのに」
  祖母がふふっと笑った。

「聞いたで。またバイトの子辞めさせたんやて?」

「人聞き悪いなー。俺が辞めさせたんじゃなくって勝手に辞めたんですよ。むこうが」

「せやかてまたキツイこと言いよったんやろ」

「そんなことないですって。ひどいなー。千鳥さんまでそんな」

  祖母と男性はこの店の常連なのか、それともご近所付き合いがあるのか随分と親しそうに話していた。


「あー。それより今日どうしよっかな。さすがに俺一人じゃ中とフロア回せないよなー。閉めるしかないかな」


  男性はこめかみをかきながら、本当に困ったように言った。

「閉めるって、もう今日の仕込みは済んどるんやろ。どうするん?」

「まあ、そうですけど今日のところは仕方ないです」

「今日のところって……沢野さんしばらく来られへんで。明日からしばらくお店閉めるん?」

「いやー……、そういうわけにもいかないんで急ぎでバイト探して。まあ今はどこも求人多いみたいで、うちみたいなとこにはなかなかすぐには応募もないんですけど……」

「分かっとるくせにせっかく来てくれた子を簡単にクビにするんやな」

「だからクビになんかしてないって……」

「せや、悠花」
「えっ?」

  なるべく目立たないようにひっそりと立っていた悠花は急に祖母に呼ばれて、間の抜けた声をあげてしまった。

「あんた、ここ手伝ったげ」
「え、えっ?」

  「な、それがええやん。あんた今、こっちで仕事探しとんのやろ? ちょうどええやん」

「し、仕事ってお祖母ちゃん……」
  そんなバイトみたいのじゃなくてもっとちゃんとした……とは店主の前では言いづらい。

  口ごもっているうちに彼が訊ねた。
「あの、そちらは?」

「ああ、ごめんな。奏ちゃん、この子、うちの孫の悠花。昨日東京からこっちへ帰ってきたばかりやねん」

「昨日?」
  そこで彼は初めてまともにこっちを見た。

  あ、会ったっていってもほんの一瞬だったし、昨日とは髪型もメイクも違うし、着物姿だし、そもそももう覚えてないかも。

  という一抹の期待は、しばしの沈黙とともに居心地が悪くなるほどじいーっと観察されたあとで、もろくも打ち砕かれた。

「あ、高下駄の階段落ち女……」

「お、落ちてませんけどっ」
とぼけるのも忘れて思わず反論してしまう。

「ああ。あんたはな。落ちたのはあのガラガラやったな」

 ──い、いきなりあんた呼ばわり!? しかもガラガラって……。

「あのあと、あのぶっ壊れたガラガラ抱えて高下駄はいてちゃんと家まで帰れたんか? えらいふらっふらしとったからまたその辺で引っ繰り返っとらんか心配しとったんやけど」

  高下駄というのはどうやら、悠花が履いていた7㎝のウェッジソールサンダルのことらしい。

  なんだか昨日にも増してズケズケ言われている気がする。
 
 知り合いの孫だったからといって、すでに悠花のことも知り合い扱いなのだろうか。
 こういう距離感がおかしいタイプは苦手である。

「なんや、あんたら知り合いなん?」
「知り合いっていうほどじゃ……」

「昨日、そこの五十二段階段のとこで会うたんや。な?」

彼の簡潔な説明を聞いた祖母は、

「なーんや。昨日は悠花が奏ちゃんに助けてもろたんか。そやったらますますちょうどええわ。今日はお返しに悠花が奏ちゃんを助けたったらええやん」

とぽんぽんと悠花の背中を叩いた。

「お、お返しってそんないきなり……」

「ええやん。鶴かてお地蔵さんかて助けてもろたらちゃんと恩返しするんやで。人間さまが助けてもらうだけもろうて知らんふりちゅうわけにはいかんやろ」

「どういう理屈なん?」

  まずい。祖母がこんな風にことを運び出したら、たいていの人がそれには逆らえずに言われるがままに流されてしまうのだ。

  子どもの頃からそんな場面を何度も見てきたからよく分かる。

「そんでも私、こんな格好で……」
「そんなん上から割烹着きたらどうちゅうことない。今、ちゃっといって家からうちの持ってきたるわ」

「でも袖とか汚したら大変だし」
「襷かけたらええやん。昔の人はみんなそうやって家のことしとったんやで」

「わ、私、昔のひとと違うし! そもそも、よく知らない人間にいきなり手伝うとか言われたって、こちらの、えっと……」

「#石和奏輔__いさわそうすけ」

 彼がにっこり笑って名乗った。
 
「い、石和さんだってご迷惑だよ。私そんな、カフェのお仕事とかまったく未経験だし……」

  さあ、今こそさっきからのズケズケ言いを発揮して「こんな鈍くさそうな女迷惑や」とか言って断って!! 

  という悠花の切なる願いも空しく、奏輔は

「迷惑なんかやないで。むしろめっちゃ助かる」
  とあっさり言ってくれた。

「朝から仕込んだ分、無駄にせんですむわ。材料費がどうこういうまえに、せっかく作ったもん誰にも食べて貰えんでほかすの切ないからなあ」

「そらそうや。そんなんしたら罰があたるわ。なあ、悠花?」

  そう言って祖母はにこっと笑った。

「そうと決まればまずは着替えよ。割烹着持ってくるわ」

  なにがいつの間に「そうと決まった」んでしょうか……?

  思いつつも、場の流れがこうなってくると口に出しては言えないのが悠花の性格だ。

 確かにその後の対応はともかくとして、危うく大怪我するところを助けて貰ったのは確かなわけだし、食べ物を無駄にするのも気が引ける。

  自分が急遽休んだせいで、店が休業に追い込まれたと知ったらさっきの沢野さんだって寝覚めが悪いだろう。

  このあと、特に予定がないのも事実だし。

  このまま、帰ったりしたら当分の間、自分がものすごく恩知らずな冷たい人間のような気にさせられて当分自己嫌悪に悩まされそうだ。

「分かりました。じゃあ、今日だけなら」
ぼそぼそと言った途端、ぎゅっと両手が握りしめられた。

「うわ、ありがとう! 助かるわ」

  ぱあっと輝くような笑顔でぶんぶんと手を上下に振られ、不覚にも少しドキドキしてしまう。

  なんというかこの人……色んな意味でストレートな人だなあ。思ったことがそのまま口に出てしまうみたいだ。良くも悪くも。

  小学生の男の子みたいだ。

  あんな顔で「ありがとう」を言われてしまったら、もういきなりだろうが不本意だろうが頑張るしかない。

「あの、かえってご迷惑かもしれないけど……頑張ります」

  悠花は仕方なく頭を下げて、身支度を始めた。
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