【完結】涅槃の霧、因果の池

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第二十二話 聖天

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 ほんの少しだけ白羅はくらの手に力が籠もった気がしたものの、やがて離れた。

「……れん、それはできない」

 眉を寄せた白羅が、苦しそうな声を絞り出す。

「……どうして……?」

 漣の瞳に涙が浮かび、ぶわっと溢れる。

「なんで? 他の奴らは平気で殺してるだろ?」

 白羅の頬に両手を当て、噛み付かんが勢いで問い質す。漣の腹の奥を貫く魔羅の熱、太さや固さも変わらない。ならば、ここで終わりにしなければ。

「お願いだから、おれを殺して……」

 だって白羅は死んでいる。
 この肉体は慎太郎のものだ。

 でも、いま目の前にいるのは紛れもなく白羅だ。
 重い筋肉も、汗の味も、匂いも全て白羅のものだ。
 
 どうしてこうなっているかなんて分からない。
 ただ、今が奇跡なのだと理解できる。

 だから、これが最初で最後の機会。
 このまま首を締めてくれれば。

 そうすれば。

 きっと一緒にあの世へ行ける。
 ようやく二人が一つになれる。



「……漣」

 黙って向き合う白羅は、漣をじっと見つめている。

 ああ、この瞳。この強い眼差し。
 ずっと探してたのは、この光。

「お前には、お前の修羅が待っている」

 低い嗄れ声は、優しい色を帯びていた。



 瞳を潤ませながら身動き一つ取れない漣の頭に、白羅の左手が載せられた。そのままゆっくりと頭を撫でられる。大きな手のひらから感じる熱が心地よい。

「……白羅?」
「揚羽蝶の絵、最後まで描けよ」

 漣の髪に指を通しながら、白羅が呟く。

「知ってた……?」

 白羅に頭を撫でられたのは初めてで、漣は戸惑った。それに、揚羽蝶の絵……?

 目を丸く見開いた漣に向かって白羅はニヤリと笑い、

「見てた。ずっと」
「ずっと?」
「灰の上に描いてた。あと、燃える蛾の前にも描いてた」
「ん? え? ……ええっ?!」

 驚きのあまり、漣は身じろぎした。そのはずみで、後ろ孔から剛直が外れる。

(燃える蛾の絵……って、こないだ描いたやつ?)

 どういうこと?

 もしかして、白羅にずっと見られてた?

 玉藻で男たちに抱かれていたことも?
 茶屋の二階で張形を使っていたのも?
 春画を描いて、こけしを使っていたことまで?

 ちょっと頭が働かない。



 動揺する漣の頬へ指を下ろしながら、低い嗄れ声がポツリ、ポツリと零れ落ちる。

「絵が上手いから、偉いなって、ずっと思ってた」

 骨ばった指が、漣の唇に触れていく。上唇、前歯、下唇、おとがい、顎……。

「あんっ……」

 軽く触られるだけなのに、ビリビリと快感が流れてどうしようもない。

「ごほうびやるな」

(ごほうび?)

 白羅の頭がグンッと下がったと思いきや、ガブウウッと乳首や乳輪を思い切り噛まれた。

「い、いっ、いたあぁっ!」

 懐かしい痛み。
 ぺろりと乳首の下から先端まで舐められて、漣は悶える。

「んっ、あうっ……ひゃっ! ひいぃっ!!」
「なんだよ、乳首デカくなってねえか?」

 不機嫌そうな顔つきの白羅が漣を軽く睨む。

「……ったく、お前は好きモンだから……」

 チュパッ、チュプウッ。わざとらしい音を立てて、白羅は漣の胸元に吸い付いた。甘く噛んだり、強く歯を立てたり、レロレロと舌先で乳首の先端を嬲ったり……。

「いっ、あ、ひぃっ……ぃゃあっ」
「そういや、さっき乳首責めされてたよな」

 キュウウンッ! と強く捻り上げられる。

「っ、ひぃあっ!」
「……痛いの、好きだろ? 漣」

 ニヤリと笑いながら、白羅は信じられないほど強い力で、乳首の先に爪を立ててきた。

「いうっ! あっ、あああんっ、あふぅううっんっ……」

 ジィ……ン、と痛みと痺れの波が引く。最高に気持ち良くて、意識が飛びそう。

「はくら、の、ぅっ、…………ばかぁ……」
「ギャハハハッ!」

 乳首だけで達してしまった。
 ぐったりと脱力している漣の胸元で、白羅は楽しそうに唇を這わせている。

「……何してるんだよ」
「蝶の絵」
「おれの乳首に?」

 白羅はベロリと尖った乳首をねぶり上げ、舌先でチロチロと弄びつつ、

「漣の胸に、オレのモノだって印つける」
「……これ、蝶だった?」
「そう」

 ふふ、と漣は笑ってしまった。
 すると、ムッとした顔の白羅が、

「オレだって、ちっとは絵が描けるんだって」
「あぅんっ!!」

 大きく口を開けて、漣の乳輪を囲むように噛み付いた。そのまま舌と歯でねっとりと乳首を責めまくる。

「は、白羅……も、もう、だめっ」

 絶え間なく快感が続くせいで苦しい。心臓が止まりそう。

 既に漣は息も絶え絶えだった。白羅のものが入っていないにも関わらず、腹の奥では中イキするし、若茎からもいっぱい出てる。もう何も出ない。出せない。

「すっ……少し、休ませてっ」
「いいぜ」

 自分の胸の上で乳首を責めながら、艶っぽく笑う白羅にドキドキする。

 だって、こんな風に喋りながら抱き合ったことなんて無かった。

 休ませてって言ったのも初めてだけど、許してもらえたのも初めて。

 それに、頭を撫でられたり、頬を撫でられたり……まるで普通の恋人みたいだ。





 ニヤリと笑う白羅が、漣の髪に唇を寄せた。

「ほら、漣。今度はお前がオレに乗れよ。好きだったろ?」

 いつもの百閉やろうぜ、とまだまだ余裕がある所を見せた時。

「……ちょっと待った」

 先程までぐったりして目を白黒させていた筈の漣が、据わった目で白羅をめつけた。

「どうした?」
「……しゃぶらせて」

 ぷうと頬を膨らませ、駄々っ子のように主張する。

(だって、この機を逃したら次は無い)

 乳首も尻も満足したけど、口はまだ物足りないのだ。唇を重ねていっぱい吸ったけど、漣の口と舌はもっと美味しいモノを求めている。

「おねがい」

 あざとい上目遣いでおねだりすると、白羅の眉がしかめられた。

「……ちゃんと咥えろよ。歯を立てたら殺すぞ」
「いっぺんだって、歯を立てたことなかったろ」

 くすくす笑いながら、漣は白羅の魔羅を咥えこんだ。



「……くそ、漣、てめえ、なんだ、よぉ……っ」

 寝転がった白羅の股間で、漣の頭が上下に動いている。

 巨大な一物を咥えたまま、ときおり左右に動かして。

 口を離して舌を出し、ベローと根元から雁首の先まで舐めてみたり、赤黒く太い竿にビキビキと浮かび上がる血管に、チュッチュと音を立てて吸い付いたりもする。

 もちろん二つの玉も忘れてはいない。片方をぱくんと咥えてきゅっと吸って離し、もう片方をペロペロ舐める。その間は指を使って竿を撫でたり擦ったり、しっかり握ってしごいたり。

 ああ、楽しい。

 それに美味しい。

 漣はご機嫌で白羅の魔羅をしゃぶっていた。もうずっと長いこと望んでいたものだから、嬉しくて仕方ない。

 柔らかいようで硬い雁先がピクピク蠢いて、小さな穴からピュピュッと熱い先走りが飛び出てくる。オスの味がする液体を舌で掬い取りながら唇を寄せれば、白羅の腰がググッと上がる。

「まだ、イッちゃだめだよ。白羅」

 へへっと悪戯っ子のように笑いながら、漣はパクウッと剛直を咥えこんだ。

「……ッ、ウッ、ハアッ……この、や、ろう……」

 漣の頭上に白羅の手が伸びたかと思いきや、もどかしそうに動きを止める。

「はぁ、あ、おいしぃ……。ずっと……ほしかったん、だからぁっ……」

 怪しい光を目に宿した漣は、口をあーんと大きく開いて舌を凹ませるなり、白羅の雁首を喉の奥まで一気につっこんだ。

「んんーっ、んっ……んんんん……」

 無我夢中で頭を上下左右に動かしながら、漣は涎と涙が出るのも気にせずに、口いっぱいの魔羅を吸い上げる。

「…………クッ……」

 漣の頭を押しのけようと伸ばした白羅の腕は、所在なさげに動いた後で顔を隠した。興奮で赤くなっている額には、滝のような汗が流れている。

 漣は嬉しくて、楽しくて、どうしようもないほどの悦びに我を忘れた。

 ずっと白羅の魔羅を吸いたくて、喉の奥に突っ込まれたくて仕方なかった。

 口内を蹂躙するように突かれるのも好きだけど、自分から咥えて舐めてしゃぶって吸い上げるのはもっと好き。

 白羅のいちばん弱いところを、男の最も脆いところを、漣に委ねて好きにさせてくれるから。

 漣が強く歯を立てれば二度と使い物にならなくなる、繊細で凶暴な雄肉が愛おしくてたまらない。

「……んんんっ、ふうっ、……んはあっ、おいしぃ……」

 もう何十回も頭を上下させているのに、全く疲れる気がしない。

 このままずっとしゃぶり続けたい。

 陰茎の根元から雁の先まで、漣は口内で舌をグルグル動かして舐めまくり、頬を思い切り凹ませて吸い続けた。その都度白羅の魔羅はビクウッ、ビクゥッと小刻みに動き、もう絶頂寸前だ。

「く、そっ……れんっ! 漣めっ! フッ、ウッ……、ハッ、アァッ!!」

 口の中で栗の花が咲き誇り、漣は歓喜に酔いしれた。





「お前なあ……」

 息を荒らげた白羅の声を無視するように、漣はちゅうううーっと音を立てて亀頭を吸った。

 もちろん、ついさっき放たれた精はゴックンと音を立てて飲み込んでいる。今は名残惜しげに残滓を舐め取っているところだ。

「……上手くなりやがって……」

 憮然とした顔で、白羅がブツブツ文句を言う。

「白羅がいなくなったからだもん」

 漣は、わざと子供じみた口調で言葉を返した。

「ったく……お前は……」

 こっちへ来い、と手招きされる。

「何?」

 漣が白羅のたくましい胸の上によじ登ろうとした途端、強く引き寄せられた。互いの鼻先がくっつきそうな至近距離で見つめ合う。

「もう、男を喰うな」

 苦しそうに語るのは、白羅。

「うん」

 嬉しそうに微笑むのは、漣。

 鼻先を軽く触れたり離したりしてから、ねっとりと唇を重ねる。舌を絡めて吸いあって、顔の向きを変えて息をついたら、また口吸いを続けて……。

 互いの額をくっつけて、視線を交わす。

 先に折れたのは、白羅。

「……オレよりいい男だったら許す」
「……そんなのいないよ」

 軽く笑い飛ばすのは、漣。

「いるわけないじゃん……白羅の馬鹿」

 強い眼差しで見つめた後、漣は白羅の唇を塞いだ。





 廃寺の天井から差し込む夕日が色を変え、落日の気配を漂わせている。

「なあ、漣」
「……何?」

 床の上の明るい場所が範囲を狭める中、白羅は半身を上げて胡座をかいた。続けざまに漣の腕を引き寄せる。

「もっとお前を見せてくれ」
「ひゃっ?!」

 膝立ちになった漣の裸体が橙色の光を浴び、暗い室内に浮かび上がった。
 白く滑らかな肌に浮かぶのは、赤黒い吸い跡、血が滲む歯型。
 薄い胸いっぱいに広がる愛欲のしるしに、白羅は目を細める。

「キレイだな」
「!!」

 白羅からこんなこと言われるなんて!

 初めて告げられた褒め言葉に、漣の頬は真っ赤に染まり、若竿がピクンと動いた。さんざん酷使された後ろ孔まで、またヒクヒク蠢き始める。

 白羅の視線が強すぎて、視られているだけで感じてしまう。

「おら、後ろ向け。背中も見せろ」
「ひぁっ!」

 あっという間に白羅の膝の上に乗せられて、くるりと後ろを向かされた。すぐにペロリと背骨を上下に舐められる。

「こっちにも歯型つけてやる」
「あっ! 痛っ!!」

 肩甲骨のあたりをガブッと噛まれて、思わず声が出てしまった。

「痛くねーって」
「痛いよ!」
「すぐによくなる」

 背中の真ん中や肩を吸われ、ゾクン……と漣の身体に欲が宿る。

 その反応に気づいたのか、白羅の手が漣の胸元へ回り、尖った乳首を弄び始めた。

「あっ……ん、いい……」

 再び始まった愛撫に耐えきれず、漣は大きく仰け反った。横目でちらりと白羅を見れば、蕩けるような甘い眼差しと、鍛え上げられた腹、そして……。

「お前見てると勃っちまうんだよ」
「なに言ってっ……」

 くるりと仰向けにされ、白羅がゆっくり覆い被さってくる。

「あ、あはっ……んっ」

 片手で乳首をねぶられ、もう片方の手で尻の襞を解されてしまえば、漣の口から快楽の喘ぎが漏れてしまうのは致し方ない。

「はぁ……あん……っ」

 さんざん嵌めまくった後なので、後ろ孔はすぐに広がった。ツプンッ……と三本の指があっさり入り、ナカに入っていた雄の白液がトプトプと溢れ出す。

 夕焼けが作った蓮華座の中央で、ヌチャ、ニチャッと愛欲の水音が響き、漣の後ろ孔がゆっくり優しく穿たれた。

「ああ……ああんん…………そこぉっ……」

 ヌプッと大きな雁が秘肉を割り裂き、漣のいいところを目掛けて突いてくる。
 漣の内側で、白羅の魔羅がいっそう膨らんで固くなる。

(……おれだって、白羅見てると欲しくなるんだから)

 きゅっと目を閉じた漣は、胎内を貫く雄の熱に集中した。

「あー……、漣のナカ最高」
「っふっ、白羅のだってぇっ……はっ、イイっ、すごく……いいんだからぁ」
「相変わらずよがる時うるせえな」

 うるさいな、と言いたかったものの、漣は声が出なかった。実のところ、もう身体が限界なのだ。

「漣」

 甘い声音で名を呼ばれ、何かと思って顔を上げれば、

「あうっ!」

 繋がったまま身体を持ち上げられ、胡座をかいた白羅に抱き寄せられた。

「……勝手にこっち来たら殺すからな」

 向かい合った白羅は微笑んでいる。

「……!」

 白羅が笑ってる。

 白羅が笑ってるよ。

 こんなふうに優しく笑う白羅なんて、初めて見た。

 不意打ちの笑顔に、漣の頬がぽうっと朱色に染まる。

「ば……ばか、白羅の馬鹿野郎……」

 死んでからそんな顔するなよ。
 もっと好きになっちゃうじゃないか。

 もう、本当に……白羅の馬鹿。










 白羅は楽しそうに目を細め、漣の頭を撫で回した。

「……悪ぃ。もう動けねえ」

 口ではそう言いながらも、魔羅はまだ勃ったままだ。

「おれも、もう無理」

 思わず漣も本音が出た。さすがにもう、繋がってるだけでやっとだったりする。

「まあ、あれだけヤレばな」
「こんなの……初めてだよ」
「そうじゃねえと困る」

 クスクス笑いながら、どちらともなく唇を重ねた。

(きもちいい)
(オレもだ)

 顔の向きを変えながら、心で会話したような気がした。










 逢魔が時の少し前。
 暗い廃寺の中央では、吐蕃(チベット)の歓喜仏にも似た姿で抱き合う二人が、残照を浴びて輝いている。

「……れん……」

 口吸いの合間、顔の向きを変えながら白羅が囁く。

「……漣……漣……」

 身体中で熱を感じる。
 低い嗄れ声が降り注ぐ。

 嬉しい。
 嬉しいよ、白羅。

 最後にもう一度、おれの名前を呼びながら抱いて欲しかったんだ。

「はくら……はくら……」

 身も心も法悦で満たされた漣は、太腿を白羅の腰に絡めてしがみつき、キュウキュウと後ろ孔を締め付けた。

「ハアッ……れん…………れん……」

 白羅の吐息を耳元で感じる。

 温かい光に包まれて、むかし見た秘仏みたいに抱きあってる。

 深く挿さって、温かくて、満たされて。

 嬉しくて、こんなに気持ち良い。

 歓喜が身体の奥から湧き出て止まらない。

「ありがとな、漣」

 白羅、こんなに優しい顔できたんだね。

 そっちも素敵だよ。

 もっと、もっと、その顔を見たかった。

「白羅……」

 ずっと繋がっていたいよ。

 ああ、腹の奥が熱い。
 ナカが白羅でいっぱいになってる。

 すごく、すごく気持ちいい。
 信じられないくらい身体が軽い。
 身も心も満たされて、極楽みたい。

 幸せすぎて、何も考えられない。



 頭の中が真っ白になる
 目の前が真っ白に光る。



 ああ、終わらないで。
 お願いだよ、白羅。



 ずっと、いっしょにいて。



 白羅……。



 はくら……。










 ピチチ……と、早起き鳥の鳴き声で漣は目覚めた。

 上品な板目の天井、美しい細工の欄間らんま、質の良い襖と障子……。清潔な畳と柔らかい布団の感触で、廃寺ではない場所にいると気づく。

 ムクリと起き上がったところ、さらさらした絹地の夜着に着替えており、身体も清められていた。

(え? もしかして、あれは……夢だった?)

 そっとおくみを開き、胸元を確認すると、たくさんの赤黒い歯型が見えた。布擦れで、乳首の先が甘い痛みを感じる。

「…………んっ……」

 漣は眉を顰めた。ツキンと蕩けるような乳首の疼痛、ドゥンと重怠く痛む腰……そして。

「あ……」

 少し動いただけで菊の襞がグズグズほどけ、どろりと白濁が漏れてきた。

「……夢じゃなかった」

 身体は愛欲の営みで疲れを感じているが、心は晴れやかで、頭もスッキリしている。

 白羅との情事の後と同じ感覚に包まれ、漣はふふっと笑った。



 そろそろと起き上がり、障子を開ける。

「……霧が出てる……」

 中庭らしき場所は真っ白で、何も見えない。

「ここはどこだろう?」

 その時、カタリと音がして襖が開いた。

「ああ良かった。お目覚めになられたのですね」

 品の良い老齢の女中が胸を撫で下ろしている。見たことのない人だ。

「まったく、命があってようございました」

 老齢の女中はホッと息をつくなり語り始めた。

 昨夜遅く、この家の当主とつきあいがある鏑木かぶらぎ家の子息が駆け込んできたこと。
 彼は血濡れた着物を身に纏い、全裸の漣を抱えていたこと。
 そして、漣を襲った男たちが廃寺で死んだこと。

「まさかあの寺で……と、皆が慌てたものです。あそこは十数年前に、邪教の神を祀る神事とやらで信者がたくさん死んだ不吉な場所なのですよ。祟りがあると言われておりまして、どんな悪党でも近づきません」

 老齢の女中は次から次へと噂話を続けた。

 あの廃寺を取り壊そうとしたが、大工ばかりか、命じた役人まで突然死した。それが一度だけでなく、何度も続いてしまい、もうこのまま自然に朽ちるがままにしようと放置されている。おかしなことに、誰も手入れしていないにも関わらず、いつまでたっても建物が傷まない。きっと邪教の神か、成仏できなかった霊の仕業だろう……。

「貴方様も、さぞかし辛い目に遭われたのでしょうね」

 同情的な眼差しを向けられたが、漣は静かに微笑むだけだった。

「……まあまあ、年寄りが長話をして、お疲れになられたことでしょう。いま、朝餉あさげをご用意いたしますね」

 うら若い青年が大変な思いをしたのだ。少し休ませねばと思い、老齢の女中が立ち上がったところ、

「あの、外の霧は……」

 漣が言葉少なく問いかけた。

「ああ、少し離れたところに小さな溜池がございましてね。今の季節は朝霧が濃いんです」
「……そうですか」
「お昼ごろにご公儀がいらっしゃいます。それまで気兼ねなくお休み下さいませ」

 老齢の女中が部屋を去り襖が閉まった後、漣はすっと立ち上がった。








 朝餉の膳を運んできた老齢の女中の目に映ったのは、きちんと畳まれた冷たい布団。

 慌てて障子を開ける。真っ白な霧しか見えない。

「まあ……どうしたことでしょう……」

 いつの間にか、漣はいなくなってしまった。

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