クルスの調べ

緋霧

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四章

第52話 気

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 何か湿ったものを顔に押し付けられる感覚で目を覚ました。
 びっくりして飛び起きるとリッキーが私の顔を舐めていた。

「リ、リッキー…おはよう。起こしてくれてありがとう」

 そう言いながら顔を撫でてやると嬉しそうに喉を鳴らした。かわいい。

「おはよう」

 その様子を少し離れたところから見ていたらしいセスが含み笑いをして言った。
 私が起きるよりもずいぶん早く起きていたようだ。

「おはよう…」

「シエル、朝食の前に今日の訓練をしようか」

 まじか…朝からめっちゃやる気だな。思いっきり寝起きなんだけど…。

「待って…せめて顔だけでも洗う…」

 冷たい水を湧きあげて顔を洗った。
 その刺激で一気に目が覚める。

「よし、いいよ。お願いします」

 街道から離れたところで向かい合う。だだ広い草原なので、少し離れたところに待機しているカデムたちもよく見える。2頭は私たち2人が馬車から離れても慌てることもなく、こちらの様子を見ているようだ。

「…今日は少し"気"のことを教えようかな。気が神力や魔力と同じもの、というのは知っているよね?」

「うん。前にフィリオが教えてくれた」

「神属性の者が扱う気を神気といい、魔属性の者が扱う気を魔気という。その気に念を込めるとこうなる」

「…っ!?」

 そうセスが言った瞬間、息が苦しくなるほどの威圧感が伝わってきた。体が震える。
 
「どうかな?これくらい分かりやすくすれば君にも感じられると思うんだけど」

 目には見えないが、セスから何かオーラのようなものが出ている。両手をポケットに入れて笑みを浮かべているのに、そのオーラが恐ろしすぎて私は思わず一歩後ろに下がった。

「分かってくれたみたいだね」

 その様子から察したらしく、セスは笑みを深めてそう言った。

「……」

 これは多分殺気だ。殺気というものを今まで身に受けたことはなかったが、セスが纏うそれがそう呼ばれるものであろうことは分かる。
 近づいてはいけない。あれは、本気で人を傷つける気がある人間にしか纏えないものだ。そう、本能が警鐘を鳴らしている。
 セスは私に気のことを教えよう、と言った。必要以上に私を傷つけることはしないはずだ。頭ではそう思っているのに恐怖で体が震えている。今から貴方を殺します。と言われたら、そうでしょうね。と言うだろう。

「気には種類があって、1つ目が纏気《てんき》と呼ばれる強化型の気で、自分の体や武器に纏わせると、岩をも砕けるようになる。2つ目が以前ベルナデットが君に使った放気と呼ばれる攻撃型の気。放出すると対象に物理的な衝撃を与えることができる」

「……」

 言っていることは理解できるが、威圧感に気圧されて言葉が出ない。
 恐怖で冷たい汗が流れ、呼吸が荒くなる。震える体を静めることに必死だ。

「3つ目が覇気と呼ばれる伝達型の気。逆の属性の人間に対して身体的ダメージを与えることができる。天族と魔族の専売特許みたいなもので、地族には扱えない。その代わりと言っては何だが、天族や魔族が覇気を使っても地族にダメージを与えることはできない。これは、地族が神気と魔気が入り乱れるミトスに生まれることから、逆の属性への耐性が高いためと言われている」

 セスが一歩私に近づいた。それと同時に私の体は勝手に一歩下がった。反発する磁力のように本能で近づくことを避けている。

「ちょっとそこから動かないで」

 そう言ってまたセスが私に一歩近づく。

「……っ」

 私は勝手に距離を離そうとする体を何とかその場に押し留めた。
 セスが近づいてくるにつれ震えが大きくなり、早鐘を打つ心臓のせいで呼吸が苦しくなる。

「そして4つ目が今俺が使っている殺気。覇気と同じく伝達型の気で、相手を害するという強い念を気に乗せたものを言う。覇気が身体的ダメージを与えるのに対し、殺気は恐怖心や威圧感などの精神的ダメージを与える」

 凍りつくような殺気を纏いながら穏やかにそう紡ぐセスが、私を見下ろす。
 何をするつもりなのかと考えを巡らそうとしたその時、セスがポケットからスッと右手を出して私の首にかけようとした。

「ひっ」

 情けない声を出して私は咄嗟にその手が届かない位置まで後ずさった。震える足がもつれて尻もちをつく。痛い。
 セスはそんな私を見て、纏っていた殺気を一瞬で消した。
 肌に触れる風が暖かく、空気が穏やかになったように感じる。私はいつの間にか止めていた息をそっと吐き出した。

「そんなに怯えなくても」

 セスは苦笑しながら私の側まで来て体を落とし、手を差し出した。
 そうは言っても私の意思とは無関係に体が勝手に拒否してる。無理な話だ。
 今だって威圧感による恐怖はなくなったが、体の震えは止まらない。私は素直にその手を借りて立ち上がろうと手を伸ばした。

「…っ!?」

 セスはその手を取ることなく、私の首に手をかけた。
 素早い動作だった。まるでカメレオンが虫を捕食するように。避けることなんてもちろんできない。
 首にかかる手に力は入っていないのだが、私の体は一瞬で硬直し、全身に鳥肌が立った。再び嫌な汗が噴き出し、心臓が早鐘を打つ。

「先ほど君が俺の手を避けたのは、自衛本能によるものだ。分かりやすく殺気を出していれば君もそれを察知して危険を回避することができる。でも今のはどうだった?わからなかっただろう?」

「…うっ…ぐ…」

 首にかけられた手に力が入る。
 セスの手を引き離そうと手をかけるがビクともしない。息が苦しい。

「どんな人間でも殺気を完全に消すことは不可能だと言われている。常に一定量放出されている気に、人を害しようとする念が乗ってしまうからだ。かと言って、今から殺すと宣言でもしていない限り、あんなに分かりやすい殺気を纏う人間もいない。強い殺気を出せる人ほど、悟らせないようにするのも上手いからね」

「……っ…く…」

 淡々と説明するセスは恐ろしいほど無表情だ。表情だけを見れば、私の首を締め上げているとはまるで思えない。
 まさしく私は今、殺気を悟らせないようにするのが上手い人のお手本を、身を持って体験させられている。

「さぁ、どうする?この状態から脱してごらん」

 とんでもないことを言い出す。
 今私は尻もちをついているような格好で、セスはその前に跪いて私の首を右手で締めている。体勢が不利すぎる。
 とりあえず私とセスの間に風を起こして体を引き離そうと、右手をセスの胸元に向けて翳し、力を込めた。

「……っ!」

 風が巻き起こった瞬間にそれが嘘のように消失した。

「今君の術を相殺したのは覇気だよ。纏気、放気、覇気の3つはどれを使っても術や気を相殺することができるが、対象に直接ぶつけなければならない纏気、放気に比べて、全方位に気が放出される覇気は相殺するのに一番適しているんだ」

 笑みさえ浮かべてセスがご丁寧に説明してくれた。
 ならばと、左足でセスの体を蹴って引き離そうとしたが、その足も簡単に逆の手で掴まれてしまった。
 右の足でセスを蹴る。しかし私の首を絞めている腕と、私の足を掴んでいる腕がガードのようになって決定打にはならない。

「くっ…」

 一か八か、セスが腰に帯びている剣に手を伸ばす。
 セスは私の足を掴んでいた手を離し、その手を払った。腕がどけたことで空いた胸元を狙って足で再びセスの体を蹴ろうとするも、その足も手で払われる。だめだ、手立てがない。
 息が苦しい。

「…っ…う…」

「時間切れかな」

 そう言ってセスは私の首から手を離し、スッと立ち上がった。

「けほっ…ごほっ…」

 解放されたものの、息苦しさにむせ返る。

「…あの状況でどうやったら僕は…脱出できた?」

 このようなことをやらせたのだから、今の私にもそれができる何かしらの方法はあったのだろう。
 それをここで聞いておかなければ、今の訓練に意味がなくなってしまう。

「俺の剣を抜ければ可能だった。発想はよかったよ」

「どうやったら抜けた?」

 やろうとした瞬間に手を払われて叶わなかった。完全に行動を読まれていたように思える。

「君は俺の剣に視線を移したまま初動に入ったことで、それを使おうとした考えを俺に悟らせてしまった。それを悟らせないようにやるか、俺の左腕を封じるかすれば恐らく抜けたのではないかな。君は両手を使えたんだ」

「難易度高いよ…」

 ずいぶんと簡単そうに言うが、そんなことを私がセス相手にできるとは到底思えない。

「そうだね。今の君には難しいかもしれないけど、いつかそれができるようになる。ただ、そうなる前に死なないよう、短剣くらいは所持しておいた方がいいんじゃないかな」

「短剣?」

 術師が武器を持てということなのか。
 持ったところで扱い方もわからないのに。

「今回の場合で言えば、君がもし短剣を2本所持していたら、それを振り回すだけで脱することができた」

「2本?1本だったらダメだった?」

「1本だけだったらそれを握る君の腕を掴んで終わりだ。そこにもう1本出てきたら、俺は両手が塞がっているから君の首から手を離すしかなくなる」

「なるほどなぁ…」

 だから2本なのか。
 術は相殺できても物理的な道具は消せないもんね。扱い方を知らなくても適当に振り回すだけでいいってことか。

「後は、人を簡単に信用しないことだ。ただでさえ地族は隠された殺気を読むことが苦手だと言われているのに、神気を感じられない君では無防備すぎる。神属性の人間は全員敵と思うくらいでもいい」

 そうは言うが誰が神属性かなんて、見ただけではわからない。
 それが分かるのは天族や魔族の特性だと思っていたけれど、地族にもやりようがあるのだろうか。

「属性ってどうやって見分けるの?」

「わからないなら、全員敵と思えばいい」

「……」

 何て極論だ。
 セスがそう言うくらいなのだからきっとそれが正解なんだろうけれど、それはあまりにも悲しすぎる。

「気を感じられるようになるには、前に言ってた神力の残量を減らすやつをやればいいの?」

 ベルナと手合せして気を受けた時に、セスは確かそのようなことを言っていた。
 匂いに鼻が慣れるのと一緒で、常に自分の周りに膨大な神力があるために神属性の気を感じられなくなっている。だからそれを減らせば感じられるようになる、と。

「まぁ、そうなんだけど、俺と君の2人ではそれをやれない。君は神力総量も異常だが、神力の回復スピードも異常だ。減らしたところですぐ回復してしまうから、膨大な神力を一気に減らして、かつ、その状態を保つことができないと」

「どうすればいいの?」

「神力を餌とする魔族の手を借りるしかない。それで、魔力濃度がかなり高いところまでいかないと」

「神力を餌とする魔族…」

 吸血族が血を餌とするように、神力を餌とする種族がいるということか。
 何だか私、餌にされてばっかりだな…。

「神力を餌とする種族は結構いるんだけどね。ただどの種族にやらせてもかなり苦しい思いはすることになる。やるなら覚悟をするように」

「やらなきゃいけないことだから、それはしょうがないけど…」

 とは言いつつ、かなりビビる。
 神力が減る、ということだけでも苦しいのに、吸われる感覚もきっと相当苦しい。リィンに血を吸われた時もそうだった。

「でも、どうやって神力を餌にする魔族にそれを頼むの?」

「信頼がおける人間を見つけられるのが一番なんだけどね。たぶん難しいだろうから、ギルドに依頼を出すことになるかな。君の神力を餌にしたい魔族なら、腐るほどいるだろうから」

「そういうものなんだ…」

  できれば信頼できる人に頼みたいところだが、確かに難しそうだ。信頼できるまで時間を費やす前に、一刻も早くそれを習得しなければならない。

「裏切られると面倒だから、依頼を出すにしても慎重にやらないとね。まぁ、それはその時になったら考えよう。とりあえず今日はこれでお終いにして、朝食にしようか」

「…わかった」

 何だか今日の訓練は疲れた。
 大したこともしていないのにものすごい疲労感だ。



「覇気ってすごいよね。それを使えば簡単に術が相殺できちゃうんだもん」

 朝食を食べながら私は独り言のように呟いた。
 今日の朝食は干し肉を焼いて葉物野菜と一緒にパンに挟んだだけ、という簡単なものだ。
 作る気力もあまりなかったし、朝食にそう時間をかけたくもなかった。完全に手抜きだが、セスはそれに対して何かを言うことはなかった。

「君の言いたいことはわかる。でも覇気なんて使える人間の方が少ないんだ。地族には扱えないし、天族は術を得意とする種族が多いからね。そうそう相手をすることもないだろう」

 その呟きに苦い笑みを浮かべてセスが言葉を返した。
 なるほど、確かにその通りだ。セスは使えるというだけの話であって、ミトスにいる限りは覇気の使い手などそうそう現れないということか。

「使われたとしても、相殺というのは同等の力がぶつかる時に起こるものだ。放出された気よりも強い術なら、相殺されきれなかった分で気を貫通することができる」

「じゃあセスは僕の術を相殺する時、毎回同等の気をぶつけているってこと?」

「纏気や放気で相殺する時はそうだね。君との手合わせの条件は相殺するためだけに気を使うということだから、貫通させてしまっては約束を違えることになってしまう。でも覇気で相殺する時は威力は気にしていないよ。地族である君に覇気は効かないからね」

 さも当然のことのようにセスは言うが、使われた力に対して±0の力をぶつけるのはかなり難しいことなのではないだろうか。
 それを難なくやってのけるセスはやはり私なんかとは次元が違うんだろうな。

「永遠にセスに勝てそうにないよ…」

「そうとも限らないよ。俺はまだ君が全力で撃った術の威力を知らないけれど、おそらく君は強い部類の人間だ。威力勝負に持っていければ可能性は十分にある。俺の気が強いか、君の術が強いかだからね」

「威力勝負…?」

 何とも予想外の言葉が返ってきた。
 確かに今まで使った術はすべて相殺されて為す術がなかった。最初から全力で術を撃っていればセスの気を貫通することができたかもしれないということか。

「ただ、術の威力を上げるには、無詠唱と言えどそれなりに時間が必要だろう。俺はそれを易々と見過ごしたりはしないし、敵だってそうだ。だからそのために訓練をする。君が人間を相手にした時に、威力勝負に持っていけるように」

「…だとしたらやっぱりセスに勝てる日は来ない気がする。威力勝負に持っていければ勝てるのかもしれないけど、その勝負に持っていく手立てが見つからないんだもん」

「そう簡単に持っていかれたら俺が自信を失くすよ」

 どこか悲しそうに笑いながらセスが言った。



 ここから数日は、街道をひたすら進むだけだった。
 ただネリス手前の森に近づくにつれ街道の周りにも木々が増え、道も平坦ではなくなってきたために、昨日今日は毎朝の訓練はやれていない。

「明日には完全に森に入ることになる。森に入るとモンスターも結構出てくるようになるから気を付けて」

 夕食を食べながらセスが言う。

「わかった」

 実はここに至るまでも何度かモンスターが出てきている。いずれも出てくる前にセスが気づいて身構えることができたので、難なく撃退できたのだが。
 この辺りもだいぶ森っぽくなってきたのだが、明日からはもっと深い森になるのだろう。駐屯地周辺の森のようにひっきりなしに出てくる可能性もある。

 道がでこぼことしているため、寝る時は荷物を寄せて荷台で寝ている。
 横になっていい、とセスに言われているので私は荷台に横になって寝ているのだが、セスは座って寝ている。確かに1人分しか横になれるスペースがないので私が横になってしまえばおのずとそうなるのだが、毎回私だけがこうやって横になって寝ているので申し訳なくなってくる。交代しようと言っても俺はいいと言って聞かないし、気遣ってくれるのは嬉しいのだけど、私としてはこういう部分は同等にやっていきたいのに。
 覆い茂る木々の葉の間から覗く二つの月を眺めながら私はぼんやりとそう考えていた。
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