クルスの調べ

緋霧

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四章

第54話 黒い獣

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 なるべく早く森を抜けたい、と夜はあまり長く休まなかった。モンスターも出てくるので、どっちにしろゆっくり休めもしないのだが。

 再び朝がやってきた。明日の昼過ぎには森から抜けられるそうだ。
 森を抜けてしまえばレブルールまでは3日。早く街に行きたい。

「シエル、モンスターが出てきても君は1人で大丈夫そうだから、俺はちょっと森の奥に入ってファンクを狩ってくる」

 退避場所で休憩をしながらセスが言った。

「1人で行くの?」

「1人でというか…ライムと」

「なるほど、ライムとね」

 そういう意味ではないのだが、まぁ、つまり私は置いていかれるようだ。
 森の奥に入るのなら、確かに馬車では行けない。それはわかるのだが、こんな場所でわざわざ別れてまでファンクを狩りに行かなくてもいいと思うのに。正直に言うと、不安だ。何かあったらどうしよう。
 そんな私の心中を知ってか知らずか、セスは荷台から弓と矢を取り出した。これは、野盗が持っていたのを拝借したものだ。何でも、殺した相手の荷物は自由に持って行ってもいいというのがこの世界のルールらしい。
 それじゃどちらが野盗か分からない、と呟いたら、自分達がやらなくても他の者がやるだけなのだから気にするだけ損だ、と言われた。
 この世界で悩まずに生きていけるだけの神経がほしい。

 そんなこんなでセスは弓矢を持ち、ライムに乗って森の奥へと消えていった。

「はぁ、大丈夫かなぁ…」

 出てきたモンスターを倒しながら私は独り言を呟いた。
 今のところ問題はない。モンスターもちゃんと対処できているし、馬車に破損等も見当たらない。では一体何が不安なのかと言うと、セスが私とリッキーに進んでいていいと言ったことなのである。
 そんなことをして私たちがどこにいるかわかるのかと聞いたら、道に出れば車輪の跡やリッキーの足跡でわかるから大丈夫、とのことらしい。
 ここに来て誰ともすれ違っていないとは言え、セスがいない間にそういうことがあれば私たちの足跡が消えるかもしれない。最終的には森の外に出ればいいだけだからそこで落ち合うことはできるのだろうけれど、それでもちゃんと戻ってきてくれるのだろうかと不安だった。
 こんな風に1人で森の中を進むなんて初めてだ。正確にはリッキーもいるが、リッキーは私の呟きに振り向いて心配そうな顔を見せてくれるものの、言葉を発することはない。普段そんなに会話が弾んでいるわけでもないが、話し相手がいなくなっただけでも寂しさを感じる。

 セスがライムと共に森の奥に入ってから2時間ほど過ぎた頃、不意にリッキーが喉を鳴らして止まった。
 こちらを見て何かを訴えるような顔をしている。

「リッキー?」

 馬車を降りてリッキーの側へと寄る。全身の様子を見てみたが、怪我をしているというわけでもなさそうだ。

「どうしたの?」

 顔を撫でてやると、リッキーは森の奥の方に顔を向けた。
 もしかして、セスとライムが近くにいるのだろうか。

「セスたちが帰ってきたの?」

 喜びを表して問いかけてみたが、リッキーは森の奥から視線を逸らさず、何かを警戒するように喉を鳴らしている。
 どうにもセスとライムが帰ってきた、という感じではなさそうだ。

「なにか、いるの?」

 そう口に出した瞬間、手前の木の陰から音もなく何かが出てきた。

「……っ!?」

 リッキーは森の奥の方を見ていたので、何かがいるにしてもこんな近くだとは思わず、ビクッと肩を震わせて驚いてしまった。
 ヒィィンとリッキーが鳴いて後ずさった。馬車に繋がれているので実際には動かなかったが、リッキーがそうしたのも頷ける。
 そこにいたのは人だった。
 紫色の長いウェーブがかった髪に、同色の瞳をした女性。革でできた細身の黒いロングコートを身に付け、その下から同じ素材のタイトなパンツが覗いている。
 こんなところには似つかわしくないほどに妖艶な雰囲気を纏うその女は、私たちを見ると穏やかな笑みを浮かべた。

 怖い。

 穏やかな笑みに反して、その女は凍りつくほどの殺気を発している。セスが私に使ってみせたものと同等のものだ。
 初対面の私に対して、明確な殺意を向けている。
 何故なのかを考えても答えは出ないし、この世界はそうやって理不尽に殺されることもある。それはわかっているのでまずは何としても自分とリッキーの身を守らなければ。
 進路はこの女によって塞がれている。リッキーが馬車に繋がれている今の状況では退路もない。
 女が放つ殺気で冷や汗が流れ、威圧感に体が震えた。

「1人旅かしら?」

 笑みを深めて女が言う。落ち着きのある大人の女性という感じの声と言い方だった。
 そんなに笑っていながら人を傷つける意思を見せつけるとは、どういう神経をしているのか。

「連れが、いますけど」

 あぁ、恐怖で声が震えている。
 今ここで大きい音を出したらセスは気づいてくれるだろうか。気づいたとしてもセスがこちらに来る前に私とリッキーはこの女に殺されるだろうか。

「お連れの方は、今どちらに?」

 穏やかな口調で女が私に問いかける。

「連れに、用でも?」

 そう聞き返しはしたが、セスに用があるとは思えない。
 きっと私が今1人なのかどうかを確認したいのだろう。
 リッキーはしきりに顔を私に押し付け、下がるようにと訴えている。この殺気を感じて庇ってくれているのだ。
 私はそんなリッキーの前に出た。恐怖で逃げ出したいくらいだが、リッキーに庇わせはしない。私が、守る。そんな思いにリンクして自然と体が動いた。

「ないわ。近くにいないなら、ちょうどいいと思って」

 私を殺すのにちょうどいいということ?理不尽すぎて本当に勘弁していただきたい。

「僕を、殺すつもりですか?」

 この人はそうとしか思えない殺気を放っているのだ。私がこれを聞いても不思議ではないはず。

「私は殺さないわ」

 その言葉と同時に私に向かって女が手を翳した。
 咄嗟に私とリッキーが隠れるくらいの大きな岩の盾を作り出す。が、攻撃を仕掛けられたというわけではなかった。盾の横から顔を出して覗き見ると、女の前の地面に赤い魔法陣が浮き出ていた。漫画やアニメで見るような複雑な模様の魔法陣だった。

「……!」

 そしてその魔法陣から、何かが浮き上がってきている。徐々に見えてくるそれは、黒い獣だった。大型犬くらいの大きさで見た目的にも犬っぽいが、その牙と爪は犬とは程遠いほど鋭く長く、目は赤く光っていた。
 召喚魔法、この世界にそれがあるのか知りもしないが、それを使ったとしか思えない状況だった。
 "私は"殺さない。でもこの獣が殺す。そういうことか。

 獣と目が合った。
 その瞬間こちらに飛びかかってきた獣は、岩の盾に激突して跳ね返された。
 私に伝わった衝撃も大きく、盾はボロボロと崩れ、体が大きくよろめいてリッキーにぶつかってしまった。
 急いで体制を立て直した瞬間、同じく体制を立て直した獣が再び地面を蹴った。

「ギャンッ!!」

 だが私に到達する前に横から飛んできた何かが獣の首に刺さり、その勢いのまま横へと飛ばされて茂みの向こうに消えて行った。

「……!?」

 私と女が驚きの表情を浮かべて何かが飛んできた方へと視線を向ける。

「セス…!」

 茂みの奥にいたのはライムに跨ったセスだった。
 弓を手にしている。きっと先ほどのあれはセスが放った矢だったのだろう。
 セスは険しい表情で女を睨みながら弓を捨て剣を抜き、ライムの手綱を引いた。ライムが勢いよく助走をつけ、ジャンプして茂みを越える。
 ライムの着地地点にいた女は、大きく後方に飛んで距離を離した。

 セスはライムから降り、私とリッキーの方に行くように声をかけて女の前に立ちはだかった。
 その姿に安堵感を覚え、私はこちらへと早足で歩いてきたライムの顔を撫でた。

「このようなことをされる覚えはないのだが、連れが何か失礼でも?」

 感情を込めずにセスが女に言う。
 こちらからはセスの背中しか見えないが、きっとあの氷のように冷たい表情を浮かべているに違いない。

「いいえ、特には。貴方があの坊やの連れなのね。これは厄介だわ」

 厄介だわ、なんて言いながらも穏やかな笑みを崩さずに女が言った。

「ではなぜこのようなことを?」

「獣やモンスターよりも人間の方が餌に適しているの」

 餌…?あの黒い獣の餌ということ?
 この女は私をあの獣の餌にするつもりだったのか。

「森の奥に獣に喰われたような人間の死体が3つあった。この森に人間を餌とする獣やモンスターはいない。お前だな?」

 淡々とセスは言うが、その内容は恐ろしいものだった。
 すでに餌にされた人間がいるというのか。この女の手によって。

「ええ、そうよ。でもあの人間たちより、エルフに天族、貴方たちの方がよっぽどおいしそうね」

「喰われてやるつもりはない」

 穏やかに紡がれた女の言葉に、セスは冷たい声色で即答した。

「そうでしょうね。ここで貴方たちと戦ってもこちらが負けるだけでしょうから、舞台を移すことにするわ」

 女の話が終わらないうちに一瞬で地面に青い魔法陣が描かれ、この場にいる全員が淡い光に包まれた。

「……っ!?」

 かなりの広範囲に展開されている陣は、舞台を移すという女の言葉から考えるとおそらく転移陣だ。が、簡単に出られるほど小さくもない。ざっと見た感じでは直径50mくらいはある。私やセスだけなら術が発動する前に走って出られるかもしれないが、馬車に繋がれたままのリッキーがいる。

「シエル、君だけでも陣から出ろ!!」

 セスはそう叫びながら剣を構えて、地面を蹴った。女を倒すつもりのようだ。
 それなのに、セスもリッキーもライムも陣の中に残して私にだけ逃げろというのか。

「いやだ!!」

 私はそう叫び返してセスに加勢しようと、手を翳して力を込めた。
 だが、女を足止めするつもりだった術は発動せずに、視界が暗転した。



 リィンの転移術は一瞬で視界が切り替わったが、今回はそうではなかった。高いところから落ちているような感覚と共に、体の中を掻き回されているような酷い不快感が数秒続いた。それがあまりにも辛くて、きつく閉じた目を開くことができない。

 突然衝撃もなく地面に足がつき、私はバランスを崩して盛大に転んだ。
 が、その痛みよりも先ほどの不快感が残した余韻と、何かが体に纏わりついているような重苦しい威圧感が自分の感覚を支配している。

 重い。体が重く、息苦しい。

 顔を上げて周りを見ると、すぐ近くにライムと、馬車に繋がれたままのリッキーがいた。2頭とも若干落ち着きなくその場で足踏みをしている。
 少し離れたところにはセスと女もいた。が、セスは膝をついて蹲っているように見える。そんなセスを先ほどと同じ穏やかな笑みを浮かべて、女が見つめていた。

 転移された場所は、見渡す限りの草原だった。
 しかも、今まで見たこともないような色合いの草原だ。
 まず草が赤紫色をしている。空の色も同じような色で、どこかどんよりとした雰囲気が感じられた。

「……!」

 不意に何かが地面を走ってくるような音がして視線を向けると、先ほどの森にもいたモンスターが私たちの方に向かってきていた。
 急いで立ち上がり、かまいたちを放ってモンスターを倒す。
 倒れたモンスターの近くにはセスが先ほど矢で射た、あの黒い獣の死体も転がっていた。
 人間と動物とモンスターを対象とした転移陣だったということか。馬車も一緒に転移されたのは、リッキーの体がそれに触れていたからだろう。

「ようこそ、ルブラへ。来るのは初めてよね?」

 女がまるで自分の家に招き入れたかのように言う。
 聞き捨てならない単語が聞こえた。ここはルブラだというのか。
 界を跨いだ転移ができる人間もいるとリィンが言っていたが、まさか自分たちがそれを体験することになるなんて思わなかった。
 その言葉通り、ここがルブラなんだとしたらこの体の重さと息苦しさに納得がいく。
 このままここにいたのでは危ない。この女に殺されなくとも神力がなくなって死ぬ。私よりも、セスがまず先に。

「苦しいでしょう?体が痺れて動けないでしょう?」

 女が愉快そうに言う。その言葉はおそらくセスへと向けられている。
 それを聞いてもセスは膝をついたまま動かないので、女の言う通りなのだろう。
 私は歩を進め、蹲るセスの前に立ち女と対峙した。自分でも驚くほど冷静だった。女は相変わらず凍りつくような殺気を放っているのに不思議と恐怖は感じない。
 それどころか、あまりにも理不尽なこの状況に怒りさえ覚えた。
 私たちは森の中で出会った見ず知らずの女に命を狙われたばかりか、ルブラまで転移させられたのだ。しかもこの女を倒したところで、神力が切れるまでにルブラから脱出できなければ結局のところ死ぬ。
 ミトスから安全にアルディナに渡る場所が2か所しかないことを考えると、私たちがルブラから脱出するのはかなり難しいことであるのは予想できる。
 ならば、この女を倒して無理矢理ミトスに戻してもらうしかない。

 女はセスの前に立つ私を見て、さらに笑みを深めた。

「シエル…」

 セスが私の名を呼ぶ。その声は苦しげだ。

「逃げろ…君だけでも…」

 言うと思った。
 転移される前に私だけでも陣から出ろと言っていたので、セスがそういう考えであることはわかっている。

「いやだと言ったはずだよ」

 私はセスの方を見ずにそう言った。
 見ることができなかったという方が正しい。確実に私は今怒りを表情に出しているし、振り返った瞬間に女が仕掛けてきたら対処も遅れる。
 でもそれで私の意思が頑なであることを察してほしい。みんなを犠牲に、1人だけ助かっても意味がないのだ。

「あらあら。立派なことね。でも別にいいのよ?貴方1人なら見逃してあげても。後ろのリンクが見えるかしら?あそこからミトスに帰れるわ」

 その言葉に思わず勢いよく後ろを振り返って確認してしまった。
 天高く聳えるオレンジ色の光の円柱を視界に入れてから敵前なことを思いだし、慌てて前を向く。
 しかし後ろを振り向いている間に仕掛けてきたら、という心配は無用だった。女は笑みを浮かべたまま、ずっと私を見つめている。

 この女が言っていることは本当のようだ。あの光はデッドラインの山肌に入っていた亀裂が発する光と同じだった。
 ただここからでは大分遠い。あそこまでセスの神力が持つのか予測がつかない。

「仲間を見捨てて逃げるつもりはない。あそこまで行く必要もない。お前を倒してミトスに転移させる」

「ふふっ」

 私の言葉に、女は声を出して笑った。
 不快だ。馬鹿にしているような笑みだった。

「残念ながら私に貴方たちをミトスに転移させる力はないわ。あれは転移術じゃないもの。私にできるのはルブラに繋がるゲートを開くことだけ。ゲートを開いて使役獣を呼び出し、ゲートを開いて使役獣を送り返す。ただ、それだけ。今だって同じ原理で貴方たちをゲートからルブラに落としただけよ」

「……っ」

 事細かな説明に、絶望的な気分になった。
 きっとそれは嘘ではない。となると、この女にセスを見逃す気がない以上、倒してあのリンクからミトスに戻るしか方法がないことになる。
 いや、目に見える範囲にミトスに戻れるリンクがあることを幸いと思うべきか。

「あのリンクはミトスのどこに出る?」

「おそらくあれはロッソ付近へ繋がる単独リンクね。ミトスからランダムで落ちてきたから、ここがどこか分かるまで確実とは言えないけれど。もしあれが本当にそうなら、出た先は安全よ。その代わり、リンクのこちら側は危険だけどね」

 ロッソがどこだかよくわからないが、女は私の質問に意外にも素直に答えてくれた。しかも、聞いていないことまでペラペラと。
 私が今知りたいと思っている情報は全部くれた。

「教えてくれて…ありがと!!」

 そう言いながら私は女に向かってかまいたちを放った。
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