クルスの調べ

緋霧

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五章

第80話 クルスの調べ

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 扉が開け放たれた診療所の入り口で、レクシーが立ち尽くしていた。

「レクシー…!……なっ…!?」

 その肩越しからでも分かるほどのむせ返るような鉄の匂いと、焼きつくほどの赤がそこにはあった。

「な、何…何が…」

 立ち尽くすレクシーの横から無理やり診療所に入る。
 何かが暴れたとしか思えないほどに、中の物が散乱していた。
 そこかしこの床には血が広がっており、それが壁にも飛び散っている。机の上の紙や本も散らばっており、椅子や器具も倒され、ここで起こったことの凄惨さを物語っていた。

 心臓が早鐘を打つ。
 呼吸が速くなる。
 嫌な汗が背を伝った。

「セス…?ヨハンさん…?」

 2人の姿はない。

 この血がヨハンのものである、というのは先ほどのレクシーの発言からして間違いはないのだろう。
 もう1人か2人とも言っていたので全てがヨハンのものではないのかもしれないが、だとしても酷い怪我を負っているであろうことは明白だ。
 何がどうなっているのか分からない。襲撃者が現れたのか、それともまさかセスがヨハンを傷つけたのか。ヨハンも転生者だ。ゼノやガスパルと同じように近くにいたセスが操られて傷つけた可能性もなくはない。

 だとしたらどうして。どうして私じゃなくてヨハンが。

「セス…ヨハンさん…っ!」

「あぁ、おかえりなさい」

 2人の姿を探そうと1歩2歩進んだ瞬間、廊下の方から白い人が現れた。

「…だっ…誰!?」

 女性。病的なほど白い肌に、真っ白なストレートの長い髪。そして恐ろしいほどに真っ赤な瞳。
 着ている真っ白なワンピースには腹部にハサミで裂いたような切れ目が入っており、赤く染まっている。なのにそこから覗く白い肌には傷1つ見当たらないのが酷く不気味だ。

「お2人をお預かりしました。私と共に来ていただけますか、シエル」

「…え……?」

 抑揚のない声で言いながら、カツカツと靴の音を響かせて白い女性が私へと近づいてくる。
 ジリ、と無意識に一歩下がると何かにぶつかり、驚き振り向くとそこには泣きそうな顔をして酷く震えるレクシーがいた。

「レクシー…」

 レクシーを背に隠すようにして前に出る。
 私の服を後ろからキュっと握りしめる感触がした。

「2人は…2人は無事なんですか?」

「今の所は。これからは貴方の行動次第です」

 人質、というわけか。
 しかしながら2人が無事である、という返答に僅かな安堵を得る。
 おそらくその言葉は嘘ではないだろう。
 そして私が大人しくこの女に従えば、2人はそれ以上の何かをされることはないということだ。

「貴女は、誰ですか?」

「…………」

 震える声でそう聞いたが返事は返ってこない。

「…2人の所に、連れて行ってください」

 さらに一歩二歩と前へ出る。

「まっ…待って…待って!あたしも行く…!」

 縋るようにレクシーが私の右腕にしがみ付いた。
 その手から、震えが伝わってくる。

「貴女と一緒に行くのは、僕だけでいいですか?」

「貴方お1人でも、そちらの方とお2人でも、ご自由にどうぞ。主からは貴方を連れて来るように、とだけ言われておりますので」

「主…?」

「ならあたしも行く!」

 レクシーが強く腕を掴む。

「…レクシーはここで待ってて。ヨハンさんは僕が絶対に助けるから、この場所を綺麗にしておいてあげて」

 そう言いながらレクシーの手を解く。
 強く掴まれていると思ったけれど、震えているからなのか存外簡単にその手は解けた。

「シエル…っ!」

「セスのことも、助けたいと思ってる。だからお願いレクシー。2人のことを、お願い」

「そ…そんな…っ…シエルは帰ってこないみたいな言い方…!」

 今度は私に抱き付いてレクシーが言う。私の胸に顔を埋め、泣きじゃくっている。

「…うん。僕は多分、帰ってこない。だからさよならだ、レクシー」

 驚くほど冷静な自分がいた。
 死ぬ覚悟ができていた訳ではないが、おそらくそれを目的とした誰かに大切な人たちが傷つけられたからだろうか。
 あの2人を早く助けたい。その気持ちが今は一番強くある。

「じゃあなおさら行かせられない!!あたしが大切なのはヨハンだけじゃない!セスだって、シエルだって大切なんだよ!!」

 強く、痛いくらいに抱きしめられる。

「ありがとう。ありがとね、レクシー。でも僕は…間に合わなかった。レクシーのお陰で大切なことに気付けたけど、もう遅かった。だからレクシーはちゃんと伝えて。ヨハンさんに感謝の気持ちを。レクシーはまだ、間に合うから」

「シエル待って…っ…」

 言いかけたレクシーの体がズン、と重たくなった。
 床に倒れないようにと慌てて抱え込んだが、ぐったりとして動かない。

「レクシー!?」

「眠らせました。お1人で来るのでしょう?」

 白い女性が言う。
 確かにレクシーは眠っているだけのようだ。胸がわずかに上下していて、ちゃんと呼吸していることを示している。

「…………」

 レクシーの体を持ち上げ、ベッドへと運ぶ。整えられていたはずのシーツはだいぶ乱れているが、今は仕方がない。そのままレクシーの体を横たえて、掛け布団を掛ける。

「さよならレクシー。ありがとう…」

 肩にかけたままだった鞄からいつも着けている香水を取り出し、レクシーの枕元へと置く。いい匂い、と言ってくれたルピアの香水だ。
 こんな風に形見を置くなど余計に辛くさせてしまうかもしれないが、できればこの先も私のことを覚えていて欲しいと思った。

「そろそろよろしいですか?」

 白い女性が聞く。
 この女性が誰なのかは分からないが、ずいぶんと空気の読める人だ。
 人形のように無表情で声にも全く抑揚がないが、レクシーを傷つけずに眠らせてくれたし、別れの挨拶も黙って待っていてくれた。
 だからと言ってお礼を言うつもりもないが、ひとまず今はこの女性に従おう。

 触媒の腕輪を鞄に入れ、ベッドの足元に置いた。
 いつかセスがこの鞄を開けた時、腕輪を見つけて形見として持っておいてくれることを期待して。

「はい。連れて行ってください」

 本当は短剣だけでも持って行きたかったが、毒を飲んで眠っている間に回収されたようで今は身に付けていない。どこにあるのかも分からないのでそのまま行くしかない。

「手を」

 女性がスッと手を差し出した。
 手を取れ、という意味だろう。
 素直に女性の手の平に手を置くと、その手は恐ろしいほどに冷たかった。






 転移して最初に目に映ったのは、絶望的な光景だった。

「……あ…ああぁ…」

 ここはどこなのか、なんてどうでもよかった。
 恐れていたことが現実として突き付けられ、私は言葉を失った。

 森の中。どこなのかは全く分からないが、木々が覆い茂る深い森の中だった。

「やぁ、待ってたよ。シエルちゃん」

 見覚えのない、男がいた。
 金の髪に赤い目をした、若い男だった。
 黒いコートにチャラチャラとシルバーの装飾品をたくさんつけている。

「……シエル…っ…来る、な……ここから離れろ…っ」

 その男のすぐ側に、苦しげにを言葉を絞り出したセスがいた。
 不気味なほど赤い鎖に体中を絡め取られ、木に縛り付けられている。真っ白だったはずの白衣のそこかしこが赤く染まっていた。

「…セス……」

 そして男を挟んで反対側に、ヨハンがいる。
 同じように赤い鎖で木に縛り付けられているが、立っている状態のセスとは違って、座った状態で縛り付けられている。
 左肩の辺りが大きく血で染まっているが、それ以外に外傷はなさそうだった。

「1人…か…?」

 傷が痛むのか顔を顰めながらヨハンが聞いた。

「…………」

 レクシーは置いてきた。そう答えたいのに言葉が出ない。

「初めに言っておくけど、間違っても神術なんて使わないようにね。うっかり覇気で相殺してセス君を殺しちゃうかもしれないから」

「誰…?貴方は、誰…?」

 やっとのことで、言葉を絞り出した。

「俺はローレンス。吸血族の始祖だ。一応、魔王って肩書を持ってる」

「……魔王…?」

 この男が魔王?
 この、チャラチャラした男が?

「なん、で…魔王が…地族への干渉は…できないんじゃ…」

「干渉って言っても多分君が考えてるものとは違うよ。地族を傷つけてはいけないってだけで、話をしたりするのは別に禁じられてない」

「ヨハンさんを…傷つけてるじゃないか…」

「それをやったのは俺じゃない。君の後ろにいる俺の従者だ。従者は魔王じゃないから地族を傷つけても何も問題はないし。あぁ、でもセス君をやったのは俺だよ。彼は天族だからね」

 魔王の従者に指示してやらせたなら、魔王がやったのと何ら変わりない。魔王や天王本人だけを禁じたところで何の意味も為さない。

「僕を…殺しに来たんでしょう…?どうして、2人を傷つけたんだ…!」

「そうだね。確かに俺は君の命をもらいに来た。でもただ命をもらえばいいって訳じゃなくてね」

 そう言いながらローレンスがセスの方へ手を翳すと、ポタポタと地面に流れ落ちていたセスの血が蠢き、剣の形を模ってローレンスの左手へと収まった。

「君の場合は他の転生者とは違う。もう二度と、リリスの檻に行けないようにしておかないといけないんだ」

「……!どうしろって言うの?貴方に従うから、早く2人を解放して…!」

「ははっ、ずいぶんと事を急ぐね。余計なことをベラベラ喋るなって言いたいのかな?そうだよね、君は2人のために口を噤んでいたんだもんね」

 気持ちの悪い笑みを浮かべてローレンスが言う。

「分かってるならさっさと…」

「魔王ローレンス!シエルには…っ、ミハイルの元に行くようなことはさせない!もし、不可抗力で行くことがあっても、絶対に殺さないと誓わせる!だから、温情を…っ…どうか…!」

 セスが私の言葉を遮って叫んだ。

「…え……?」

 あまりにも衝撃的な言葉に私は凍りつき、口を挟むこともできなかった。

「ごめんね。君が来るまでの間に、この2人には君が知ったこと、粗方話しちゃった」

 恐怖に目を見開いたまま立ち尽くす私に、およそごめんなどという気持ちは微塵も感じられない様子でローレンスが言う。

「そん、な…っ…!」

 出した言葉は震えていた。
 体も震えている。
 自分の立っている場所が、崩れていくような気さえする。

「それで温情、だっけ?別に俺はかけてあげてもいいんだけど、これは命令なんだよね。さすがに俺も逆らえないかな。その代わり、君たち2人の命は助けてあげるよ。シエルちゃんが素直に俺の言うことを聞いてくれれば、ねっ」

 言い終わると同時に、ローレンスは左手の剣をセスの太ももへと一気に突き刺した。

「ぐっ…ぅ…っ…!」

 セスの顔が苦痛に歪み、抑えようとして抑えきれなかったような声が漏れた。

「セスっ…!や、やめて!!」

「もっと鳴いてほしいんだけど我慢強いね、セス君。結構痛いことしてると思うんだけど」

 ローレンスがセスに刺した太ももの剣を深く埋め込む。
 貫通して背後の木に刺さっているはずの剣先が、まるでバターにナイフを入れているかのように押し込まれていく。

「ぅ…あああぁっ…!」

 セスが、叫ぶ。

「やめろ!!!」

「ローレンス、てめぇ…っ!」

「そうそう、それでいい」

 セスが叫んだことに満足したのか、それとも私とヨハンが同時に制止の声を上げたことに満足したのか、あるいは両方なのか、ローレンスは気持ちの悪い笑みをより一層深めた。

「…じゃあ、本題に入ろうか、シエルちゃん」

 笑みをスッと消して、ローレンスが再びセスの血で剣を作る。そしてセスの足に刺したものよりも大分短いそれを、私の足元まで放り投げた。

「その剣で自分の命を絶ってくれる?」

「…っ!?」

「なっ…!?」

「…なん、だと…っ!」

 ローレンスの言葉に私だけじゃなく、セスとヨハンも驚愕の声を上げた。
 2人ともローレンスの目的は聞かされていなかったようだ。

「君を普通に殺したら、転生した君の魂はまた同じようにミハイルに引き寄せられるかもしれない。この世界はミハイルを失う訳にはいかないんだ。だから君には今ここで、自死によって魂を滅してもらう。君が自分で命を絶つまで、俺はセス君を痛め付けるからね」

「……っ…!」

 この展開は、予想していなかった。
 ローレンスがセスとヨハンを人質に取ったのはそういうことだったのか。

「逃げろ、シエル…っ…!ローレンスが、自死を求めてるなら…君は逃げられる…!逃げて…ミハイルを殺すんだ…!」

「え……?」

 セスの言葉に思考が停止する。
 2人を置いて逃げて、ミハイルを殺す…?2人を、見捨てて?

「分かってるよね、シエルちゃん。逃げたら2人を殺すよ」

 ローレンスがセスの足に刺した剣をぐるりと回した。

「ぐっ…あ…ああぁ!」

 セスの苦痛に叫ぶ声が、耳に突き刺さる。

「や、やめ…っ」

「ぅ…くっ…行く、んだ、シエル…っ!ミハイルを殺せば…君は、自由に…なれる…っ…。生きて…生きてくれ…!」

 セスが痛みに耐えながら言葉を絞り出す。

「シエルちゃん、どうする?逃げる?そしたら次は誰を痛めつけようかなぁ?」

「くっあぁっ…ああぁぁっ!!」

 ローレンスがさらに剣を回す。何度も、何度も。

「やめろローレンス!!もう充分だろ!!もう…やめてくれ…っ!」

 耳に届くセスの悲痛な叫びが耐えられないのだろう、ヨハンが顔を背けて懇願した。

 私も、耐えられない。

 あの時にミハイルを殺せていたら、この結末にはならなかった。
 もし殺せなくともセスたちにすべてを話していたら、セスの心を受け入れていれば、違う結末もあったかもしれない。

 すべては私が選択を誤った結果だ。

「魔王ローレンス…約束してくれますか…。僕が自分の命を絶ったら、2人を殺さずに解放してくれると」

「…シエ、ル…っ」

「シエルお前…っ」

「いいよ。魔王ローレンスの名にかけて2人を殺さずに解放すると誓約しよう」

 2人の言葉を遮るように紡がれたローレンスの言葉は、不思議と森の中に響いたように聞こえた。
 膝を折って足元に落ちている剣を拾う。
 セスの血で作られた、剣。

 それを握って自分に向ける。

 私には、ここで2人を見殺しにする選択肢は、ない。

「ミハイルを殺せなくて、ごめんなさい。夢で見たことを、話せなくてごめんなさい。僕のせいでみんなをこんな目に合せてごめんなさい…!僕は弱かった。僕は…!」

「っ…シエル…やめ、ろ…やめてくれ…っ!」

「セス、僕を愛してくれてありがとう。こんな結末を選ぶ僕をどうか許してください…」

「シエル…っ…!」

 目をきつく閉じてぐっと剣を握り直した瞬間、誰かがピィィィ…と口笛を吹いた。

 それに一瞬遅れて、胸の辺りで何かが割れたような音と感触がした。
 おそらく、セスにもらった黄色い宝石のペンダントだ。

「え……?」

 目を開くと、目の前に光の槍があった。
 宙に浮いたその槍の切っ先は、私に向けられている。だが、それを前にしても私の体は動かなかった。

「ミランダ逃げろ!巻き込まれる!!」

 焦ったようなローランスの言葉とほぼ同時に、槍が私を貫き、粒子となって消える。

 何の感触も、なかった。

「きゃああああああ!!」

 背後から、悲鳴が聞こえた。
 振り返るとミランダと呼ばれたローレンスの従者が溶けていた。蝋燭が溶けていくように、どろどろと。

「クルスの調べ…。まさか、まさかシエルに扉を持たせていたなんて…!」

 ローレンスが焦ったように言う。
 しかし私にはその言葉の意味が分からなかった。
 ヨハンも同様なのだろう。驚愕の表情で私を見つめている。

 セスは、セスだけは痛みを耐えるような表情で、私から顔を背けるように足元の方を見つめていた。

「な、に…が…?」

 何故か急に力が入らなくなって、持っていた剣を取り落とした。
 見ると、体が砂になってしまったかのように指先からさらさらと崩れていっている。

「ミハイルはセスがシエルに扉を渡すのを見ていなかったのか!ははっ……これは傑作だ!!」

「うっ…ぐ…あぁっ」

 笑いながら、ローレンスがセスの足から剣を引き抜く。
 散っていく鮮血を目に焼き付けながら、私の体は崩れ落ちた。
 体に力が入らない。
 もう肘の辺りまで、砂のように崩れている。足の方からも崩れてきているようだった。

 痛みはない。苦しくもない。

「っく…シエル…っ…」

 セスが私の名を呼んだ。
 まだ動かせる顔をセスの方に向けると、今にも泣き出しそうな顔で私を見つめていた。

「…君は、死ぬ…。俺が…殺した。自死なんてさせない…。それをさせるくらいなら…俺がその命を貰う…っ!」

 そう言って強く閉じたセスの瞳から、涙が一筋零れ落ちた。

「……セス…」

 そうか、そうすることで、セスは私の魂を救ってくれたのか。
 あのペンダントを持っている人間を殺す、という術なのだろうか。だとしたら、そんなものの存在など聞かされてなかったし、それが目に見える愛だと言うのも恐ろしい。
 でもセスらしいと思った。そしてそのおかげで、私は救われた。

「君を…救えなくて、ごめん…。愛している、ユイ…」

 私の想いとは反対に、悲しく切ない瞳でセスが言う。
 泣かないで。泣かないで、セス。

「違う…僕を、救ってくれたんでしょ…?ありがとう、セス…。わたし、も…愛してるよ…」

 最期に焼き付けたかったセスの姿は、崩れて舞う自分の粒子に遮られて見えなかった。
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