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第1章 忍び寄る黒い影

1 ファンローゼとコンツェット

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 柔らかな陽射しが落ちる昼下がり。
 芳香の季節に舞う柔らかな春風が、明け放たれた窓の向こう、色彩豊かに咲く美しい花々で彩られた庭から甘く芳しい花の香をはこんだ。
 その明るい窓際に面したところに置かれた文机で、一人の少女が腕を枕代わりにして眠っていた。
 年の頃は八、九歳。背へと波打つ薄茶の髪が窓からそよぐ風にふわりと揺れる。
 すやすやと気持ちよさそうに眠る少女のそばに、そっと歩み寄る人影があった。
 陽射しに照らされていた少女の顔に影が落ちる。
 近づいてきた人物の気配に気づいた少女は、うん、と声をもらし、ゆっくりと机から顔をあげた。
「お目覚めかな? ファンローゼ」
 背後からかけられた声に、ファンローゼと呼ばれた少女はびくりと肩を跳ね、慌てて肩越しに振り返り眩しそうにその人物を見上げた。
 驚きに見開かれた少女の瞳は髪と同じ明るいブラウン色。ふっくらとした頬は滑らかで、つやつやと輝いていた。
「コンツェット、来ていたの?」
 そこに立っていたのは、まだあどけなさを残す可愛らしい顔だちの、ファンローゼよりも二、三歳年上の少年であった。
 陽射しを受け濡れたように艶をおびた少年の黒髪と、晴れた青空を映したかのような蒼い瞳が印象的だ。
「今はどんなお話を書いてるのかな?」
 背後から背伸びをしてのぞき込んでくるコンツェットに、ファンローゼははっとして、机の上に広げていたノートを慌てて両手で隠す。
「どうして知っているの?」
 すっかり耳まで赤く染まったファンローゼに、コンツェットはくすりと笑む。差し込む陽射しがコンツェットの笑顔を眩しく照らす。
「知ってるさ。この間も机で居眠りをしていただろう? その時、ファンローゼの書いている小説を見たんだ」
「読んだの?」
 ファンローゼはちらりとコンツェットを見上げ軽く唇を尖らせた。
「読みたかったけれど、ノートの上で寝ていたから読めなかった。だから、上着だけかけて部屋を出た」
 ファンローゼの唇からほっとしたようなため息がもれる。
「お願いだから誰にも言わないで。それとも、もう他の人に喋った?」
「もちろん誰にも言ってないし、言わないけど。でも、ファンローゼが小説を書いていることをお父さんが知ったら喜ぶと思うのに」
「そんなの恥ずかしいわ。私はお父様みたいな立派な作家ではないし。お父様のように上手く書けないもの……ほんとうに趣味で書いているだけなの」
「そうかな。それでも物語を書けるファンローゼはすごいと思うよ。僕にはそんな才能なんかないし、書けと言われても絶対無理」
 コンツェットはくしゃりと笑った。
「ねえ、ファンローゼ。お話が完成したら僕に読ませてくれる?」
 ファンローゼは恥ずかしそうに頷いた。
「コンツェットになら……」
「楽しみにしているよ」
「二人とも、お茶が入りましたよ」
 ファンローゼの母の呼び声に、二人は顔をあげ、はーい、と返事をし、皆が集まっている広間へと向かう。
 そこには大人たちが数十人ほど集まり、笑ったり真剣な顔で熱く語り合っていた。
 作家であるファンローゼの父クルト・ウェンデルが時折開く、読書会であった。そこで、各々読了した本の感想を述べ意見を交換しあうのだ。
「またあの子がこちらを見ている」
 コンツェットがファンローゼの耳元で呟いた。
 広間の隅、窓際の席で一人の少年が絵本を広げ座っていた。
 この読書会に集まった参加者の子どもだ。
 よく見かける少年で、名をレイシーという。
 この読書会には親に連れられ小さな子が来ることもよくあった。
「いっしょに遊ばないって誘ってみるわ」
 少年を手招きしようとしたファンローゼの腕を、コンツェットは咄嗟に掴んで引き止めた。
「誘ったって来ないさ。今までだってそうだったろう?」
 コンツェットらしくないその言い方に、ファンローゼは首を傾げた。
 持ち前の明るさと社交性で誰とでもすぐに打ち解け仲良くなるコンツェットが、そんなことを言うのは珍しい。
 だが、彼が言うことも分からないでもなかった。
 ここへやってきた子どもたちはみなで集まり、カードゲームをしたり本を読んだりして過ごすのだがレイシーだけは、誘いにはいっさいのらず、いつも部屋の隅の椅子に座って静かに本を読んでいた。
「でも、やっぱり誘ってみる。きっと、人見知りをする子なのよ。これでだめだったら、私あきらめるわ」
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