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第2章 さまよう心

1 失った記憶

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「ファンローゼ、お庭にいるのかしら?」
 庭の花壇に咲く花に水をあげていたファンローゼは手をとめた。
 振り返ると、六十代前後の婦人が玄関口に立っている。
 自分の名を呼びかけたのは彼女だ。
「お庭にいたのね。お使いを頼んでもいいかしら」
「はい、アレナおばさま」
 にこやかな笑みを浮かべ、ファンローゼは返事をする。
 ふわりと吹く柔らかな風にのって、甘い花の香りがただよう。
 真っ白な家の壁に映える色とりどりに咲く花。
 この家の住人は花好きだということがうかがえる。
「玄関に飾るお花をお願いしようと思って」
 これだけ庭に花が咲いているにもかかわらず、ファンローゼにわざわざ花を買いに行かせるにはどうやら理由があるようだ。
 アレナ夫人はファンローゼにいつもよりも多めの代金を手渡し、にこりと微笑んだ。
「あの、多すぎます……」
「たまには好きなものを買ってきなさい」
「いえ、私は何も……」
「いいのよ。あなただって年頃の女の子、欲しいものの一つや二つあるでしょう?」
「私はもうじゅうぶんすぎるくらい、よくしていただいています。見ず知らずの私をこの家に置いてくださって」
「あなたみたいな娘なら、いつまでもいて欲しいくらいよ。大歓迎だわ。いいえ、あなたはもう、うちの娘のようなものなのだから遠慮してはだめ。でもそうね、もう少し私たちに甘えてくれたら嬉しいのだけれどね」
 アレナ夫妻には残念ながら子どもに恵まれなかった。それもあってか、ファンローゼのことを可愛がってくれた。
 ファンローゼは複雑な笑みを浮かべた。
 アレナ夫人の気持ちがとても嬉しかった。と同時に心苦しくもある。
 いったい、自分は誰なのだろう。
 三年前、ラーナリア河の縁で倒れていた自分を、釣りにやってきたアレナ夫人の夫マーティンに助けられ、病院に連れて行かれた。
 奇跡的にも崖から飛び出した木枝に引っかかったのと、降り積もった雪の上に落ちたため、大きな怪我もなかったという。
 そして、そのままこの家にお世話になっているのだ。
 なぜ自分は川縁で倒れていたのか。
 自分に何が起きたのか。
 自分はいったい何者なのか。
 そう、自分には過去の記憶がなかった。
 何があって記憶を失ったのだろう。
 思い出そうとするたび、頭がずきりと痛んだ。
 まるでそれ以上思い出すことを拒否するかのように。
 覚えているのは、ファンローゼという名前だけ。
 所持していたものは、胸に忍ばせていた一冊の本のみ。
 夫妻はとても優しく、得たいのしれない自分を本当の娘のように可愛がってくれた。
 けれど、自分が何者かも分からないのが不安だった。
 自分のせいで夫婦に迷惑をかけるのではないかと恐れている。
「そうそう、今日は少しくらい帰りが遅くなってもかまわないわよ」
 アレナはうふふ、と少女のように笑い家へと戻っていった。
 アレナの様子に首を傾げつつも、ファンローゼは花を売る店へ向かった。
 そこは、夫婦の自宅から十五分ほど歩いた街の大通りに面した一角にある。
「やあ、こんにちはファンローゼ。アレナさんのお使いだね。今日はどの花にする?」
 店の奥から出てきた青年は笑顔を浮かべファンローゼを迎えた。
 もう何度もお使いを頼まれ、店員とも顔なじみだ。
「何を選んだらよいのかしら」
 店内を見渡すファンローゼに、青年は純白の薔薇を差し出した。
「この薔薇はどう? 今日入荷したんだ」
「まあ、真っ白な薔薇。素敵」
「レトランジェという名前の薔薇なんだ。可愛らしくて清楚で品のいい薔薇でしょう? 君のイメージにぴったり。名前の由来は異邦人っていって」
「異邦人……」
 見知らぬ人。
 別の国から来た人。
 まるで……。
 ふっと、寂しげに笑うファンローゼに、青年は慌てた様子を見せる。
「ごめん。僕、そんなつもりは……」
「いいえ。気になさらないでください。では、その白い薔薇、レトランジェを買うわ」
「ありがとうございます」
 青年はにこりと笑い、白い薔薇を包み始めた。
 青年の名はクレイ。
 何度かこの花屋に買い物をするたび、クレイとは親しくなった。
 すらりとした長身の青年である。
 金髪に碧眼。端整な甘い顔だちは女性の目をひく。
 事実、彼を目当てにこの花屋に訪れる女性客も多い。
 彼は生粋のエティカリア人だ。
 詳しい事情は知らないが、大学を休学し、三年ほど前にエティカリアから、このスヴェリアのフリュイの町にやってきたという。
 彼もエティカリアの危機的状況から逃れてきたのかもしれない。
 クレイに限らず、このスヴェリアにはそういう人たちが大勢いた。
 作ってもらった花束の代金を支払い、立ち去ろうとするファンローゼに、すかさずクレイは声をかける。
「ファンローゼ、時間ある? 僕、もう少ししたら仕事が終わるんだ。えっと、よかったら食事にでもどうかな?」
 そこでようやく、ファンローゼはアレナおばさんの意味ありげな笑いの理由を理解する。
 だが、今日は他にも用事がある。
「私、お買い物が」
 せっかくアレナおばさんからお小遣いをいただいたのだから、それで新しいマフラーと手袋を買おうと思っていた。
 もうじき、このスヴェリアにも厳しい冬がやってくる。
 雪が降り始めるのも近い。
 それに備えて、ありがたくお小遣いを使わせてもらおうと思ったのだ。
「なら、僕もつき合うよ」
 半ば強引に言い切られ、断る理由もなくファンローゼは食事の誘いに応じることにした。
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