しずめ

山程ある

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藤原美月1

土地の縁

 美月は幼い頃から、普通の人には見えないものを感じ取ることができた。

 それは幽霊のように明確な形ではなく、風の流れや空気の重さ、目には見えない何かの気配として現れた。母親は「気のせいよ」と笑い、父親も取り合わなかったが、祖母だけは違った。

「美月は、この土地に縁が深いんや」

 そう口にしては、幼い美月の頭を撫でるのだった。

 六守谷町で生まれ育った美月にとって、森は特別な場所だった。

 家のすぐ裏手にある森──面積としては大きくなかったが、草木が鬱蒼と生い茂り、昼なお暗い──は、ただの木々の集まりではなく、何か大きな存在が宿っている場所だった。
 子供の頃から、美月はその森に対して畏怖の念を抱きつつも、どこか安心感を覚えていた。

 夜、風がざわめくと、森の奥から何かの囁きが聞こえることがあった。決して怖いものではなかったが、そこは人間が踏み込んではならない領域だと戒められているような気持ちになった。

「モリサマは見守ってくれてる。でも、怒らせたらあかんねんで」

 祖母はよくそう言った。幼い美月は意味が分からないながらも、その言葉を大切にしていた。
 また、美月は森にお供え物をすることもあった。祖母が赤飯や油揚げの入った炊き込みご飯を作ると、「モリサマにお供えしてきて。ちゃんと拝んできてな」と言われるのだった。
 そのときには、茂みに入って少し行ったところにある松の木まで恐る恐る進み、その根元に木の葉に乗せたお供え物を置いて手を合わせると、後ろを振り返らずに一目散に帰ってくるのだった。

 その祖母も、美月が高校を卒業する少し前に他界した。
 胃の不調を訴えて矢隈やくま市立病院で検査を受けた後、そのまま入院し、病室で最後を迎えた。
 祖母は亡くなる間際まで「裏の森にお供えをしなければ」と気にしていた。美月は祖母に代わって炊き込みご飯を作り、森に供えた。そのことを伝えると、祖母は満足そうにうなずいた。



 大学へ進学するため、美月は生まれ育った六守谷町を離れた。
 大学はふたつ隣の県にあったが、六守谷に比べると幾分か開けていた。大学生活は新鮮で楽しく、森のことを思い出すことも少なくなっていた。
 それでも、たまに実家へ帰ると、変わらぬ森の静寂が迎えてくれることに安堵し、祖母に教わったとおりのお供え物をした。

 中学卒業と同時に他県へ引っ越した隼人とは、大学で再会した。
 彼は美月を覚えていなかったが、美月の方は覚えていた。親が転勤族で、さまざまな土地で暮らしてきたという彼を、美月は最初、好奇心から見ていた。しかし、その姿を目で追ううちに、彼女の中に特別な感情が芽生えていた。中学生だった美月にとって、それは初恋だった。

 再会した隼人には、美月の方から積極的にアプローチをした。ほどなくして交際が始まり、美月はこれまでに感じたことのない、幸せで楽しい時間を過ごした。隼人は、美月にとって興味深さと同時に安らぎを感じられる存在であり、一緒にいると、他の何をしているときよりもくつろぐことができた。

 しかし、ある時帰省した彼女は、信じられない光景を目にした。

「……森が、ない?」

 かつて鬱蒼と木々が生い茂っていた場所には、整地された空き地が広がっていた。すでにアスファルト敷きの道が整備されているところもある。

 胸の奥がひどくざわついた。
 両親に尋ねると、「半年ほど前に開発が決まったんだ」と、ずいぶんあっさりした答えが返ってきた。

「むつもりヒルズという住宅地にするらしい。最初は反対する人もいたけど、結局は町の発展のためだからな。矢隈市の計画で、今住んでいる人は費用がかからず、そのまま新しい家に住めるんだ。うちも家が新しくなるぞ」

 裏の森のことを訴えても、両親は「使い道のなかった茂みだからな」と、特に気にする様子も見せなかった。

 本来ならば、祖母が開発には反対しただろう。しかし、彼女はすでにこの世にはいない。森がなくなったという事実は、美月に祖母を亡くしたときと同じくらいの衝撃を与えた。
 そして、美月は隼人にそのことを伝えられなかった。再会したばかりの彼に、自分の不安を話すのが怖かった。森がなくなったことで自分がこれほどの悲しみを感じていることを、到底理解してもらえるとは思えなかった。

 森がすでにないことを、直視しないようにしていた。
 しかしある日、とうとうどうしようもない焦燥感に突き動かされて、思い悩んだ末に森があった場所を訪れてみた。
 建設が進む新しい家々の間を歩き、かつて森があった場所――今は、綺麗に整地された空き地の前に立った。

 風が、吹いた。

 幼い頃感じていた森の気配が、そこにはあった。
 風に茂みを揺らす木々のざわめきが聞こえてきた。

 胸が締めつけられるような感覚に襲われ、思わず後ずさった。

 何気なく視線を下げると、歩道の地面にまるで樹影のような黒い影が落ちていた。
 心臓が跳ねる。
 あたりを見回すが、影を落としそうなものは何もない。

 ……違う。

 何も「ない」のではなく、「見えていない」のだ。
 森は、いまだそこにあるのだ。



 それから、美月は何度もこの場所に足を運んだ。

 徐々に造り上げられていく新しい住宅街の静寂の中に、森の気配は確かに残っていた。
 
 そして、これまで「見守られていた」自分が、いつの間にか「見られる存在」になっていることを肌で感じていったのだった。
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